037 束の間の2人の時間
(はぁ…、やっと終わったぁーーー…。)
21時過ぎ、詩帆はぐったりと重たい身体を引きずりながら車に乗り込んだ。しかしここまで頑張れたのは、今日メンバーたちに無事報告ができたこと、そして今夜やっと稑と過ごすことができるという約束のおかげでもあった。なんだかんだ言いながら、詩帆は昼間の稑からのメールが嬉しかった。
"今から行く"
(んー…。)
"遅くなってごめんね。
今から行きま"
タタタタタタタタッ!!
"今から行く"
シュポッ。
しかしやはり詩帆は詩帆だった。
結局詩帆が稑のマンションに着く頃には21時半を過ぎていた。詩帆は到着が何時になるか分からなかったため、稑には先に食事を済ませておくよう伝えていた。詩帆は14階に降り立った。しかし稑の家が近付くにつれ、詩帆は思った。
(あれ…。私って、今からどんな顔して稑に会えばいいんだ?)
詩帆は以前稑の家に行って以来その後2人で会うことは一度もなく、連絡もほぼメールのやり取りだけだった。そのため詩帆は段々と不安になっていた。
一方稑は食事はすでに済ませていた。そして詩帆からメールが届くと再びご飯を温め始め、詩帆の到着を待ち侘びていた。
(……。それにしても遅いな。)
あれから何度見たか分からないリビングの時計をまた見上げながら稑は思った。職場からマンションまでも徒歩15分ほどの距離のため、車を停めたりしていたとしてももう着いてもおかしくなかった。
"詩帆さん今どこ?"
メールを送るも返事は来ず、稑は次第にそわそわしてきた。そしていよいよいても立ってもいられなくなった稑はやがてスマホから詩帆に電話を掛けながら玄関に向かった。そして勢いよくドアを開けるとそこで思わぬ人影に出会した。
「うわぁ!!え!詩帆さん?!え…、何してるの?!」
詩帆はバイブ音が鳴り続けるスマホを握ったまま、ポツンとドアの前に突っ立っていた。
「え…、もしかしてずっとここにいた?!もう!心配するじゃん…。」
「へへ、へへへ。遅くなっちゃった…。」
そう言うも詩帆は珍しくしおらしくかしこまった様子でそのまま俯いていた。
「もー分かったからほら、早く入って!」
稑に促されるも、詩帆はなかなか動かなかった。しかししばらくすると、家の中から食欲をそそるとてもいい匂いが香ってきた。それに気付くと詩帆は途端に顔をあげた。
「…ッ!!これってもしかして、カレー?!」
「うん。だからほら、早く入って食べよ?」
「わぁーいやったぁーーーッ!!」
「ちゃんと手ぇ洗ってね。」
「はぁーいッ。」
なかなか最後のあと一歩が踏み出せずにいた詩帆だったが、胃袋を掴まれるとそれはそれは容易かった。
詩帆は言われた通り洗面所で手を洗いそのままリビングまで向かうと、お目当てのカレーを持った稑が後ろからやって来た。
「そこ、座って?」
「はぁーい。」
稑はダイニングテーブルではなくリビングの座卓を促した。
「はい、どうぞ。」
「わぁーぃいただきまぁーすッ!!」
「はぁーい。どぉーぞぉー。」
稑もそのまま詩帆の隣りに座った。それははじめからわりと近めに、一つのピアノ椅子に一緒に並んで座るくらいの距離だった。しかし詩帆は目の前のカレーに夢中になっており、そんな稑には全く気付いていなかった。
「うまいッッ!!!」
それはいつかのキャラクターを彷彿させた。
「これめちゃくちゃ美味しいよッ!!!」
稑の作ったカレーは佳克のカレーとはまただいぶ異なるテイストだったが、間違いなく互角に詩帆を満足させるものだった。そしてそのカレーにも、やはり川名家の歴史があった。詩帆はその話を聞きながら、幼い頃から台所に立って料理をしていた稑の姿を想像した。そしてすぐ左隣りに座る稑の頭をまた思いきり撫でてやりたいと思った。しかしその時はしなかった。詩帆は気付けば先ほどまでの疲れはいつの間にかどこかへ吹き飛び、家に上がるまでの不安もすっかり忘れ、まるで我が家にいるかのようにくつろいでいた。それは章の家のピアノ室で過ごしていた頃のように和やかな、束の間の2人の時間だった。
「食器、ささっと洗っちゃうね。」
食べ終わってしばらくはお互いの会えない間に起きたさまざまな話題に夢中になっていた。しかしいよいよ会話が落ち着いてきた頃、その間をつなぐために稑は言った。
「え、いいよ!さすがにそれはやるよ!」
「いいからいいから。今日の詩帆さん、打ち合わせがぶっ通しでクタクタでしょ?」
「…うん。じゃあ、お言葉に甘えて…。ありがと、稑。」
「いえいえ。」
そう言って稑が一度キッチンに下がると、詩帆は改めてリビングを見渡した。相変わらず物が少ないすっきりとした部屋だった。やがて壁に掛けられたシンプルなデザイン時計にも目が留まった。
「………ん?」
時刻はいつの間に、もう23時を過ぎていた。
「うひゃッ!こりゃマズいッ!!マズいよ稑ッ!!私、もう帰らないとッ。」
「え?何で??だってさっき来たばっかりじゃん。それに明日はさすがにオフでしょ?だから今日は泊まっていきなよ。」
「は?そんなん無理に決まってんでしょ。あゆみちゃんにめっちゃ怒られるッ。」
「いや、それはない。」
稑は真顔で断言した。
「え、なんでよ。あゆみちゃんはね、怒るとめっっちゃ怖いんだよッ!?」
詩帆があの保冷バッグを何の疑いもなく自身に預けていったところを見る限り、詩帆はその中身のことを知らないのだと稑は察していた。しかし今そのことに触れると事態がややこしくなりそうな気がして、稑は敢えて口にしなかった。
「だからとにかく今すぐ帰らないとッ。」
そう言うと詩帆はバタバタと帰り支度を始め、ひと通り荷物がまとまるとその勢いのまま洗い物をしている稑にひと言声を掛けた。
「じゃ、稑、ごちそうさまでしたッ。また連絡するね!」
そしてそのまま廊下を一直線に駆け抜けて行った。
「え、ちょっと待って!詩帆さん!!」
稑は慌てて手を止め濡れた手をタオルで拭きながら詩帆の後を追った。そして何とかまだ靴を履いているところに間に合った。しかし稑が黙って見ていると、詩帆はあっという間に履き終わりくるりと振り返るといつも通りのシャキッとした声で言った。
「じゃ、またね!」
(え……。)
あまりに爽やかな笑顔でそう言った詩帆に、稑は言葉が出てこなかった。しかし詩帆が再びくるりと踵を返し玄関の鍵にいよいよ手が触れようとしたその時、稑は思わず詩帆のその右腕を強く掴んだ。そしてそれに驚いた詩帆が振り向くのと同時に稑も裸足のまま玄関に降り立ち、その勢いのまま詩帆を思い切り自分に抱き寄せた。さっきまで手にしていたタオルは床に落ちていた。詩帆はあっという間に稑の腕の中にすっぽりとおさまり、またがっちりとホールドされていた。詩帆のカバンも音を立てて床に落ちた。そしてあまりの突然の出来事に、その衝撃と緊張で詩帆の身体はとても強張っていた。なぜならこの度の稑は、しっかり目が覚めているからだ。しかし稑はそんな詩帆には構わず、この後詩帆がどんなにまた暴れようとも絶対に離さないと言わんばかりに腕の力を緩めなかった。そして無言のまま、詩帆を抱きしめ続けた。




