036 今さら
活動を一時休止していた稑は、詩帆が訪ねてきた日の夜に一瞬39度手前まで熱が上がったものの、それをピークに翌日には下がり、それ以降は平熱を終日保ち続けた。そして稑は休止期間を結果的にたったの6日間で終え、7月の第2週には現場に復帰していた。その背景には、この月もテレビだけでも歌に関する特番が年末に次いで多く、歌い手にとっては引っ張りだこのシーズンでもあったこと、そしてそのどの番組一つにしても、彼らのために衣装や演出、セット、そしてカメラワークを含めこだわり抜き作り上げる多くのスタッフの力や支えがあって成り立っていること、さらにはテレビでしか自分たちと会えないファンのためにも、その一人ひとりの思いを汲み、それを完全なる形で届けるためには何としてもメンバーが一丸となり、稑はこの5人で出演することに意味があるという強い思いがあった。しかし復帰した稑はやつれているどころかまるで別人と思わせるぐらい誰よりも英気に漲っており、実際に活動休止する前よりも逞しく、そして勇ましくなっていた。
「ったく…、結局は疲労でも心労でもなくてただの"詩帆ロス"かよッ。」(勇)
「まぁまぁまぁもちろん疲労もあるだろうけど、言われてみればそうだったんだぁ、って感じだよね〜。」(優)
「でもこれくらい会えない日は4月以降にもあったよね?」(新)
「会いたいけど会えないのと、会えるのに会えない、要はその違いだろ。」(蓮)
「え…、そういうもん?」(新)
蓮は恋愛面がまだまだお子ちゃまの新にそれ以上のフォローはしなかった。しかしそんな彼らをよそに、稑は明らかにまた一回り成長し、佇まい一つにしても風格が増し、その印象は、詳細を知らない視聴者にも伝わるほどだった。
"魂狼の稑君、なんか変わったね"
"おかえりなさい!稑ッ!"
"元気そうでよかった"
"急に大人っぽくなった気がする!"
"これからもずっと応援し続けます"
精進すると誓い、ただひたすら誠実に己の使命を全うする稑に、ファンはやはり温かく、もう執拗に揶揄する者もいなくなった。
2026年7月20日(月祝)、三連休の最終日に気象庁は関東と東海の梅雨明けを発表した。すると途端に今年の4月から正式な気象用語として使用が開始となった「酷暑日」が連日日本のどこかしらで報告され始めた。それはまるで詩帆が夜中に稑のマンションまで走り倒し、ことが無事納まるまでを見届けるかのような、そして暑さを先送りすることで稑の身体への負担を少しでも和らげるかのような、そんな見えない力によるものにも思えた。
7月も怒涛の日々だった。8月に入ればすぐに日本を発ち、それからしばらくは海外生活が続くため、出演番組の合間を縫って、メンバーたちは今のうちに日本でやるべきことがすし詰めだった。そんなこんなで稑と詩帆が2人きりで過ごせる時間は相変わらず皆無で、関係性や距離は以前と全く変わることはなく、あれよあれよと日々は過ぎ去りあっという間にこの月も最後の週に突入していた。
稑は詩帆とのことを幹部クラスにはすでにちゃんと報告していたが、メンバーに対してはまだなあなあになったままであることをずっと気にしていた。そこでちゃんとメンバーにも報告するために、稑は詩帆と相談し、折り入ってミーティングの場を設けることにした。そしてそれは7月最後の金曜日に決まった。
7月31日(金)、朝10時。決して惚気るつもりはないのだがさすがに朝っぱらから報告するには話題が話題なため、開始時間をいつもよりやや遅めに設定したものの、その時刻のだいぶ前から稑を除く魂狼のメンバーたちはすでにそのミーティングルームに居合わせ、来週からはいよいよ未経験の大挑戦が立て続けに控えているにも関わらず誰もがリラックスした様子で他愛もない話をしながら盛り上がっていた。そこに詩帆、その後に続いて稑が入ってきた。意外にも詩帆はいつも通りだったが、稑は反対に照れに照れていて、長身な身体を少し縮こませながら詩帆の隣りに並んで立った。
「おはよう。みんな、今日はタイトなスケジュールの中、私たちのために時間を作ってくれてどうもありがとう。」
詩帆は淡々と話し始めた。
「何となくはもう分かってると思うけど、これまでうやむやのまま来てしまっていたので、改めて報告をさせてください。じゃ、稑、お願いします。」
「…うん。」
もっといじいじした詩帆を、メンバーたちは想像していた。しかしこうまで真面目に話されると誰も突っ込むタイミングが図れず、メンバーたちはただ大人しくそのまま聞くしかなかった。一方進行を振られると何かスイッチが入ったのか、稑は先ほどまで縮こませていた身体を途端に堂々とした風格に改め、一度大きく深呼吸をするといよいよその場は重大発表を告げられる瞬間を迎えようとしていた。メンバーたちもつい固唾を飲んで待ち構えた。
「僕たち、結婚することになりましたッ。」
「・・・。」
「はぁあーーーッ?!?」
そのひと言に真っ先に食いついたのは詩帆だった。
「結婚の話なんてまだまだ全然してないよ?!?」
「あ、そっか。間違えちゃった。」
「だあーーーーーーーーッ!!!」
この空気にいよいよ耐えきれなくなった勇はその場に立ち上がり突然叫び出した。
「もぉーどっちだっていいよッ!!何なん?この空気ッ!!俺今娘を嫁にくださいって言われる父親みたいな気分になってたよッッ。」(勇)
「えぇ、そっちぃ?でも分かるぅーーーッ。」(優)
「それにもうお前ら今さら何だよ!つーかほんとに今さらだからもうどうだっていいわッ!!」(勇)
「まぁまぁまぁ勇君、そう言わずに…。でもほんと、今さらだよねぇ〜。」(優)
「ほんッとに今さらだけど、でもやっぱりそうだったんだねぇ。おめでとう!稑。そして詩帆さん。」
「あ、うん…。ありがと、新。」(詩帆)
「新、ありがとう。」(稑)
「でもさ、今後は少なくとも僕の前ではイチャイチャしないでね。モチベーションが軒並み下がるから。」(新)
「誰の前でもしません!!」(詩帆)
「え、じゃあ2人っきりだったらするんだね?」(新)
「は…?新…、おまえそれ以上おちょくったら仕事減らすぞ…。」(詩帆)
「わーー!パワハラだパワハラッ!!聞いた?!これ職権乱用だよッ!!」(新)
「また"ら"が巻き舌だった…。」(優)
「あーぁ。あのインタビューの時"口も悪いです。"っつっときゃよかったな。」(勇)
「ハハハッ!確かに。でもさ、この業界でこんな詩帆さんを知ってるのも、実は僕たちだけなんだなって、この前インタビュー受けてて思ったんだ。だからさ、僕たちの前では、これからもずっと、そんな今のままの詩帆さんでいてよ。」(優)
「そだな。それにイチャイチャっつーのもこの2人はもうすでに通り越してて、いわゆる熟年カップルの域に到達しちゃってんだよなぁ。だってくっついたのはもう何となく分かってたけど、結局全ッ然何も変わってねーもん。」(勇)
「確かに。さすが同棲歴すでに5年。」(優)
「同棲言うなッ!!」(詩帆)
「これじゃあ稑が可哀想過ぎるッ。だからむしろこれからはもっとイチャイチャしろッ。俺が許すッッ。」(勇)
「はぁ?もー何それ…。」(詩帆)
「そだね。僕もなんだかんだで稑が幸せなのが一番嬉しい。だから詩帆さん、稑のこと、本当に末永く、よろしくお願いします。」(新)
新は眩しそうに2人を見つめながらそう言い、大袈裟にならない程度に頭をゆっくりと下げた。その時の新の表情は、ようやく納まるところに納まった2人を無事見届けることができた安心感の中に、ちょっぴり切なさも混じった優しい笑顔だった。
(新がいなかったら気付けなかったこと、たくさんあった。それに誰よりも本気でぶつかって来てくれた。そんな新の思いは、絶対に無下にはしない。)
詩帆はそんな新に改めて心に誓った。
「はい。ちゃんと、大切にします。」(詩帆)
「新、今までどんな時もずっと傍で支えてくれて、本当にどうもありがとう。僕たち、幸せになります。」(稑)
それを聞いた途端、新の目は突然ウルウルし始め、やがてその勢いのまま感情を爆発させた。
「………ッ、わぁーーんわんわんわん…ッ、うぅ…ッ、う…ッ。」
「うわぁー、こっちには娘を嫁がせた母親がいた!」(優)
「やっぱ一番の泣き虫は新だな。」(勇)
2人はそう言いながら、またいつものように新に優しく寄り添った。
ミーティングという名の報告会は、和やかな雰囲気で無事終わった。その後改めて喝を入れたメンバーたちは、そのまま各々のスケジュールに従って動き出した。
「もう渡米の準備は完璧か?」
「うん。」
事前に報告を受けていたためオブザーバーのような立場になっていた蓮は、ミーティングルームを出ると稑に話し掛けた。
「物理的に会えないのは割り切れるようで、案外しんどいぞ。」
そうなのだ。この度の野外フェス及び米国ツアーには、詩帆は帯同しないことが決まっていた。
「うん。でも僕は大丈夫だよ。」
「……?そ。」
(相変わらずどっから来るんだこの自信。)
すると稑は尚も続けた。
「むしろ必要なんだ、証明するために。僕たちには、今この時間が。」
「………証明。ふーん。」
しかし蓮の目に映る稑は、内からキラキラと輝いて見えた。
(やっぱりなんか変わったな。いや、それはもうほんとに今さらだけどな。あんなに自己肯定感の低かったおまえが、今じゃ俺をこんなにワクワクさせやがって…ッ。)
そう思うと蓮も内から込み上げるものが抑え切れず、突然また稑とガッチリ肩を組むと嬉しそうに言った。
「俺も負けてらんねーわッ!!」
「……??うんッ。」
アグレッシブな午前中はあっという間に終わった。悩みがないとこれほどまでに集中できるのかと、稑はとても充実した時間を過ごしていた。その後昼食のためにランチルームにやって来ると、稑は辺りをキョロキョロと見渡していた。
「詩帆さんなら今日は昼もランチミーティングだと思うよ。相変わらず先方の話が二点三点してるらしいよ。」
先ほど要がそんなことをブツブツぼやきながら歩いていたのを小耳に挟んだ新は隣りでそわそわしている稑にフォローした。稑は今日久々に終日事務所にいる詩帆に昼くらいは会えるだろうと期待をしていたが、それが叶わないと分かると頭の耳が露骨に垂れた。新にはそれが見えた。仕方なく稑は詩帆にメールを送った。
"詩帆さん、
今夜うちに来る約束、
忘れないでね。
絶対だよ!"
すると詩帆からすぐに返信が届いた。稑の耳は再びピンッと復活した。しかし…。
"仕事中にそういうメールは
やめてください。"
その耳は秒で垂れた。稑はタイミングを見誤った。しかし稑は引かなかった。
"ごめんなさい。
でも絶対に来てください。
いい?
絶対だからね?!
詩帆さん来るまで
ずっと寝ないで待ってるからね!!"
(はぁ?なんっだこの女々しいメールはッ?!おまえは彼女かッ!!ったく…。)
"わかった"
詩帆は至っていつも通りのメールを返しただけなのに、かたやそのメールにはどこか男気が漂っていた。
稑たちメンバーはこれまでがそれなりに激務の日々であったため、今週はもう渡米に向けて流しのスケジュールになっていた。しかしバックオフィスメンバーはその真逆だった。そして詩帆は5年前の米フェスに現地に赴いている数少ないスタッフの1人であったため、メンバーたちに負担を掛けないスケジュール管理やことの優先順位、そしてオンオフの配慮などその細かい段取りに参考要員としてここ最近はずっと会議に招集されていた。そこでは現地からの最新情報や各プレスへの対応、そして参加アーティスト同士のコラボ企画などの話が入るたびに要を含めた新しいマネージャーたちと何度も打ち合わせが繰り返され、プランB以降も含めもはや分刻みの綿密なプランニングが行われていた。
(もう、一緒に現地行っちゃった方が楽なのかもしんない…。)
そんなふうに思ってしまう瞬間も正直あった。しかし詩帆には詩帆の日本で果たすべき己の使命があり、それを二の次にすることはできなかった。
ミーティングがいよいよ終わりを迎えようとしていた頃、時刻はすでに21時に迫っていた。




