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035 大丈夫 - 稑 -

 詩帆は走った。稑の足なら徒歩15分、走ったら10分も掛からない、しかし詩帆の足ではそうはいかなかった。きっと速さを求めるなら車で向かった方が早かっただろう。しかし詩帆は、玄関から車のところまで移動して、それから車に乗り込んでとしている間にも稑との物理的な距離を縮めたかった。


"おまえが今稑に望むことは何だ。"


(ただ傍にいたい。傍にいると安心する。だからこの先もずっと傍にいたい。もう、それだけッ!!)


"それは今、稑も望むことだ。おまえに望むことだ…。"


"それなのに詩帆さんは、ずっと頑なに拒み続けて…、そんなに稑のことが信用できない?"


(……稑ッ、今までごめん…、ほんッとにごめん……ッ。ずっと、ずっと逃げてばかりで…ッ。でももう逃げないよッ!今、稑のところに向かってるッ!だから、もう少しだけ待っててッ!!!)


 困っていたら真っ先に駆けつけたいし、必要なら傍で寄り添っていたい、それはもう詩帆も同じだった。しかし走る足は、次第に重たくなっていった。


(はぁ!はぁ!はぁ!ちくしょーー!!あと、もう10歳若ければ…ッ。)


 しかし詩帆はすぐにその嘆きを否定した。


(うんんッ、違う!この歳でいいんだ、今の私でいいんだッ!!)


"こういうのはタイミングだからさ、自分が今だって思う時が来たら、迷わず進みなよ。"


(蓮ッ、あの時は分からなかった、蓮の言うタイミングも、先の分からない未来を誓うことの意味も…ッ。でも、今なら分かるッ。私の場合、それは間違いなく今だッ。それに、先のことなんて誰にも分からない。でも、それをもう、自分が信じるだけ、ただ信じるだけなんだッ。)


 間もなく夜の23時を回ろうとしている静まり返った住宅街を、詩帆は尚も走った。


(にしても重いな…ッ!あゆみちゃんの保冷バッグ…。1週間分の食料でも入ってんのかな。いつでも行ける距離なのに…!)


 ずっしりと重たいそのバッグを詩帆は足を止めず利き手から持ち変え走り続けた。するといよいよ視界の先に稑の住むマンションが見えてきた。詩帆の息はもうすっかり上がっていた。暦はもう7月初頭、しかし今年はありがたいことにまだそれほど悪質な熱帯夜にはなっていないものの、その夜は詩帆の額に大粒の汗をもたらした。



 マンションのエントランスに入ると、詩帆は24時間常駐のコンシェルジュに軽く会釈をしその前を足早に通り過ぎた。そしてそのまま突き当たりのエレベーターまで向かった。そこでIDカードをかざすとボタンが反応した。このマンションはこのIDカードがないとエレベーターには乗れないし、登録している階にしか降りることはできない。中に乗り込むと詩帆はすぐに"14"と"close"のボタンを続けて押した。その中も当然空調は効いていたが、詩帆の身体からは恐ろしいほどの汗が一気にふき出した。詩帆は慌ててショルダーバッグの中からハンドタオルを取り出し、エレベーターが14階に止まるまでの間何度も何度も露出している部分のその汗を拭き取った。やがて稑のいる階に降り立ったが、そこはまた一層静まり返っていた。廊下には絨毯が敷き詰められているため、自身の足音すらしなかった。荒くなっていた呼吸も多少は落ち着くも、詩帆は若干息を殺して歩みを進めた。稑が引っ越してから稑の家を訪ねるのはこの度が初めてだった。そしてようやく稑の家の前まで辿り着いた詩帆は、そのドアの前でしばらく立ちすくんでいた。

 稑が活動を休止してから、詩帆のところには頼んでもいないのに毎日のように新から稑のこと細かな詳細がチャットで綿密に報告されていた。そこから知る限りでは、新は毎晩稑の家のキッチンで作った手料理をテレビを見ながら一緒に食べているようだった。微熱はありながらも食欲はいつもと変わらないようで、嫌味なのか自慢なのか、その日の料理の写真まで丁寧に送られてきた。ちなみにその日の晩ご飯はサバ缶を使った薬味うどんだった。


(美味しそう…。そっか、こんな簡単な料理でもいいんだ…。)


 詩帆は先ほど心の中に一瞬敗北感のようなものが漂ったのを思い出していたが、今そんなことに落ち込んでいる場合ではなかった。


(とりあえず、インターホンは鳴らす?でももう寝てるかも…。だけどもし起きてたら、突然私が入ってったら驚くよね…。)


 さすがにこの状況で一緒に住んでいた頃のようにこのドアを突破することは詩帆でも気が憚られた。詩帆はとりあえずインターホンは鳴らすものの、そのまま返事を待たずに持っている鍵で入ることにした。


"ガチャッ"

「…稑ぅ?入るよぉ??」


 防犯面を考慮し、中に入ると詩帆はすぐに玄関の鍵を閉めた。そして改めて振り返るも、中も同様に静まり返っていた。しかし廊下と、その突き当たりにあるリビングの明かりは付いていた。


「稑ぅ…?勝手に来ちゃった…。入るね?」


 恐る恐るそう言うも、返事はなかった。詩帆はショルダーバッグを肩から外しあゆみの保冷バッグと共に胸に抱えると靴を脱ぎ、尚も恐縮しながらそのまま廊下を突き進んだ。


「…稑?」


 リビングには、そしてその手前にあるリビングと繋がったキッチンやダイニングにも稑の姿はなかった。


「……。」


 お風呂に入っている様子もなく、残るは今通り過ぎて来た廊下の両側にある部屋だけだった。一方は扉が開いていて、中はとても閑散としていていないのは明白だった。残るは扉が閉まった寝室と思われる部屋だけだった。


(さすがにもうこんな時間だし、やっぱりもう寝てるんだよね…、多分、絶対。)

 

 詩帆はなぜか自分にそう強く言い聞かせていた。しかしその時にはすでに、詩帆の顔には不安な心情が滲み出ていた。


"コンコンコン"

「…稑?」

「……。」

「私、詩帆だよ、入るね…?」


 寝ているのが当たり前の時間なはずなのに、なぜか詩帆は不安でたまらなかった。しかし意を決してドアノブを捻り扉をゆっくりと押し開いた。


 中は真っ暗で、最初は廊下の明かりが射す部分しか部屋の様子は分からなかった。そのため詩帆はその扉を目いっぱい開けた。すると斜向かいの角に沿って配置されたベッドまでは何も置かれていない床が続き、そのベッドの上に稑らしき人影がお腹の辺りに薄手の布団を掛けた状態でこちらに背を向けて横たわっていた。


(やっぱりもう寝てたんだ。)


 そう思いながらも詩帆はドアのところに立ちすくんだまま、一瞬も稑から目を逸らさずに凝視していた。とても静まり返った、何とも言えない沈黙が続いた。しかしやがて聞こえてくるのは、次第に存在感を増す詩帆の鼓動だった。詩帆は目の前の光景が、再びあの恐ろしく穏やかな静けさと記憶が重なった。


「…稑?」

(お願い、返事をして。)

「……、り、…く?」


 やがて詩帆の頭のおでこの部分やこめかみの辺りが急にひんやりとし始め、次の瞬間サァーっと音を立てて血の気が引いていくのを感じた。それは背すじへと伝染していき、やがて全身がその場で凍りついていた。吸っても、肺に息が入らない、なのに心臓はこれでもかと言わんばかりにドクッドクッと耳の裏側で力強く脈を刻んでいた。


"ドサッ!!!"


 気付くと抱えていた荷物が全て腕からずり落ち大きな音を立てて床に落ちた。しかし稑は微動だにしなかった。


「……稑ッ!!!」


 詩帆は稑を目掛けて突進した。


「稑ッ!!ねぇ起きてッ!!おきてッッ!お願ぃ…、お願い稑ッ!…りくッッッ!!」


 詩帆の信じた思いは、あまりにも儚く崩れ去った。詩帆は尋常ではない力で稑をゆすり続けた。するとこれは一体何事かと、稑の瞼が僅かに開いた。しかし身体は自分が思うようには動かないのか、稑は恐る恐る振り向けるだけ首を返すとようやく詩帆と目が合った。


「え…、……、詩帆、さ ん…?」


 微かに聞こえる声で稑はそう答えると、詩帆の目からは大粒の涙がぼろぼろと溢れていた。それに驚いた稑は次に上半身を起こそうとするも、まるでそこだけ重力が異常なほどおかしなことになっているかのように、稑は思うように動かない身体を普段の何倍も時間を掛けのろのろと起き上がった。それは新から聞いていた稑の様子とはまるで異なり、詩帆はそのショックもまだ受け入れられていないようだった。しかしそれでもまたこうして目を合わすことができたことに安堵したのか、詩帆の目からはまた涙が次々と溢れ始めた。そして次第にしわくちゃになっていく顔を隠すため、詩帆は稑にしがみついたまま布団に顔を埋めた。稑はいつの間にこんなことになっていたのかまだ状況が飲み込めていなかったが、そんな稑をお構いなしに、詩帆は尚も布団に顔を埋めたまま悲痛な声で話し始めた。


「私も稑に惹かれてる…ッ。それはもう認めるッ。でも…ッ、怖いんだよ!怖いの…ッ。稑が特別な存在になって、かけがえのない存在になって、でも…、またある日突然…、目の前から急にいなくなってしまうのが……ッ。もぉ…ッ、あんな…、思いはしたく、なぃ…ッ。」


 詩帆はどんなに月日が経とうとも、どれほど過去になろうとも、突如静かに横たわる、あのもう口を聞かないただの塊と化した姿に変わり果てたかけがえのない存在が頭から離れることはなく、それから後も幸せを感じる度にそれは常に背中合わせでフラッシュバックし、いつしかそれが詩帆の生活の当たり前になっていた。


"もう自分には何も望まない。その代わり、つらい思いもしない。"


 それは自身の心を守るための、それもまた本能で作動する一つの防御反応だった。詩帆は稑にしがみついたまま、子供のように怯えていた。しかし突然のこの状況でありながらも、稑はそんな詩帆が吐露した本当の胸のうちをしっかりと理解し、全身で受け止めていた。そして自身にしがみつき身体を震わせながら泣く詩帆に、稑は力を振り絞り体勢を整えるとそっと詩帆の頭を撫でながら、今にも掠れそうな声で、しかし何とか伝えたいとさらに力を振り絞って語りかけた。


「詩帆さん…、僕も、いつか死ぬ。」


 その言葉を聞いた瞬間、詩帆の身体はビクッと強張り、震えはぴたりと止まった。しかし尚も稑は穏やかに続けた。


「それは詩帆さんも…、章さんだって、いつか、必ず。でも僕は、いつか死ぬその日まで、1日でも長く詩帆さんと一緒にいたい。いつかの別れの悲しみを恐れて、それまでの、楽しくて幸せな毎日を逃す方が、僕にとっては不幸だ。それに、大丈夫。僕は、突然消えたりなんてしないよ…?弱い自分も、自分が嫌いな自分も、いつだって全部見せてきて、それでも一緒にいたいって、そう思える。それはこれからもずっと、同じだよ?でもそれで詩帆さんが、僕を嫌にならなければいいんだけど…。」


「ならないよッ!!」


 詩帆は顔を起こし、稑の目をまっすぐに見てそう答えた。目の前の稑はすぐに寝癖になりやすい髪で頭がボサボサで、部屋着のTシャツ姿はあのステージの上で生き生きと躍動する稑とはほど遠かった。しかし詩帆にはそれもいつもの稑だった。


「それに、それは私も同じだよ…。」

「僕は大丈夫。」


 そう言って稑は僅かに力の限り、にっこり笑って見せた。そして続けた。


「僕は、猪突猛進な詩帆さんも…、だらしのない詩帆さんも…、ピアノが大好きな詩帆さんも…、稜太さんが一部の詩帆さんも…、みんな好き。大好き。」


 稑の言葉一つひとつが耳に届くたびに、詩帆の身体はまた小刻みに震え出した。そして目には再び溢れんばかりの涙が溜まり、やがて顔はしわくちゃになっていった。稑は尚も涙が濡れる詩帆の頬を両手で優しく包みながら言った。


「そんな詩帆さんと、僕は、本当の家族になりたい。」


 滲んだ詩帆の目に、稑の顔はもうはっきりとは分からなかった。


「詩帆さん…、」


 しかし詩帆は尚も稑を見つめた。


「会いたくなったら、一歩足を踏み出したらいい。

 伝えたい思いがあれば、言葉にしたらいい。

 触れたくなったら、抱きしめればいい。

 こんなふうに…、ね?

僕はその全部を受け止める。それでもまだ不安が拭えなかったら、大丈夫、大丈夫だよって、僕が何度だって言う。詩帆さんが安心するまで、何度だって言うよ。」


 稑の優しい声と言葉は、詩帆の心の隅々まで沁みわたった。詩帆は自身の左手を、自分の頬に触れている稑の手に重ねた。


「詩帆さん…。」


 稑は尚も優しく詩帆を見つめ、そして言った。


「そんな毎日を、これからも2人で過ごしながら、一緒に、幸せになろう…。」


(幸せに、なる…。稑と…。)


 それは詩帆にとって、自分にもそんな人生があってもよいのだと、あれから初めて思えた瞬間だった。すべてを受け止めてくれる稑に、詩帆はもうこみ上げるものが抑えきれなかった。しかしその涙はもう、不安や悲しみから溢れ出るものではなかった。詩帆は顔をしわくちゃにしながら、再び稑に顔を埋めた。そして左手には稑の手をしっかりと握りながら何度も、うん、うん、と、大きく頷き答えた。そんな詩帆の頭を、稑はもう片方の手でまた優しく撫でた。


 しかししばらくすると、稑の身体がずっしりとその詩帆の身体の上に覆いかぶさってきた。


「りッ、稑…?稑ッ!?!」

「ご…、ごめん…。頭が……、ものすごくぐらぐらしてきたからとりあえず横になりたい…。」

「わ!そうだよね、ごめん稑ッ!!……大丈夫?」

「うん…。あ…、でも詩帆さんが何か持って来てくれたならそれ食べる。」

「え、あ、うん!持って来たよ!」


 そう言うと詩帆は先ほど床に落としたままのショルダーバッグから何かを取り出して戻って来た。


「えっとね、私からは、栄養ドリンクと、栄養ドリンクと、栄養ドリンクッ!!」

「………。」


 想像していたものと遥かにかけ離れていたため稑は思わず言葉に詰まった。しかし気を取り直して言った。


「…じゃあ、とりあえずそれ1本いただきます…。」


 そう言って一気に飲み干すと、稑はようやくゆっくりと横たわり身体を休めた。


「あ、あとあゆみちゃんからもお手製の差し入れがあるよ!すぐ食べれるようになってると思うから、ここに置いておくね。」

「うん…、分かった…。」

(あゆみさん…、あざっす…。)


 稑はあゆみのフォローが心に染み入った。その後、もう声を出す気力もなく、とりあえず親指を立てグッドのサインで返事をすると、安心し切った顔で、そのまままたぐっすりと眠りに落ちた。しかし稑は意識が朦朧とする中、詩帆の用意した栄養ドリンクの本数から、もしかしたら今日まで毎日自分のところへ来ようとしてくれていたのだと詩帆の葛藤する姿が思い起こされ、稑の心は温かくなった。






閑話


 その後、日付が変わるギリギリの時間に、詩帆は章宅に帰宅した。すると、いつもはとっくに寝ているはずのあゆみがまだ起きていて、キッチンで何か下ごしらえをしていた。あゆみは帰ってきた詩帆と目が合うと、大層驚いた顔をしていた。


「え…。」

「え?」

「………え、なんで、帰ってきたの…?」

「え、なんでって…。え?」

「え…?」

「え…、えぇ……。」


 2人の会話にならない会話はしばらく続いた。



 一方詩帆が帰った後栄養ドリンクのおかげか体調が少し回復した稑は、あゆみが作ってくれた差し入れを食べようとキッチンに移動していた。保冷バッグの中からポットやタッパーなどを取り出すと、さらにその下に何かが入っていた。それを袋ごと取り出して中を見た稑は、驚いた拍子にそれを袋ごと床に落としてしまった。稑は思わず両手で口元を覆い、顔は赤面していた。そしてそれは再び稑の体温を上昇させた。中にはあゆみ作成の詩帆の外泊許可証と、お泊まりセットや応援グッズのあれやこれやが入っていた。


(………ッ。あ、あゆみさん…、あざっす…!!)


 稑はあゆみの配慮も心に染み入った。




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