034 すべてを受け止めてくれる人
人の噂も七十五日、しかし今は凄まじい情報量が凄まじい人の数で凄まじい勢いに乗りうごめく世の中にあり、あれからひと月も経つ頃にはもう次の新たな話題が世間を賑わせ今となっては稑のことが取り上げられることもなくなっていた。それは2人が一切の接触を絶っていたこともあるのかもしれないが、何よりも稑の日々の誠実な対応の積み重ねがここまで導いてきたと言っても過言ではなかった。恋する男はこんなもんだと開き直っていたら、また話は別だったかもしれない。しかし稑は粛々と、ただ必要以上に萎縮することもなく日々目の前のやるべきことをこなしていた。
一方詩帆はというと、まだ歩きスマホをする人のスマホがたまたまこちらを向いているとそれだけでまるで盗撮されているかのような錯覚に陥ったり、近くでスマホのシャッター音が聞こえれば思わずドキッとしてしまったり、以前は全く気にならなかった他人の視線やらスマホのカメラが異様なまでに気になる状況が続いていた。しかしそんな時に思い出すのは稑のことだった。稑もまだ名古屋に住んでいた頃、歳のわりに目を惹く容姿が故に見ず知らずの人たちから同じようなことを度々繰り返され悩まされていた。そしてそれは今の詩帆よりも遥かに若い頃の話だった。しかしそんな稑が、今はここまで堂々と立派に成長したことに詩帆は勇気をもらっていた。
そしてもう一つ詩帆の心を軽くしてくれる存在があった。それはあの墓参りの時に出会った夫婦だった。
"大丈夫"
あのどうしようもなく信じて疑わない真っ直ぐな力強い眼差しでそう言われたら、もう本当に大丈夫なのではないかと思ってもいいように思えてしまう、あの女性の放ったひと言にはそんな力があった。詩帆はあの性格がまるで正反対の2人のやり取りを思い出すと思わず吹き出してしまった。
"ぐふッ。"
(でもあの夫婦は、結局のところ私のことを誰かと盛大に勘違いしてたんだよなぁ。奥さんはしっかりしてそうな人だったのに…。"あの子"って…、あの人たちにとっていったい誰のことなんだろう。早く気付いてちゃんと伝えるべき人に伝わればいいけど…。)
そして詩帆は思った。
(あのご主人もご主人で、最後に"また"なんて言って…。もう会うことはないだろうなぁ。でもなんだろ…、会えるなら、また会ってみたいなぁ。あの辺歩いてたら、また会えるかな…。)
それから詩帆は少しでも不安なことが頭をよぎるとその度に、"大丈夫"、そう心の中で唱えるようになっていた。
ここ数年は当たり前のようになっていた5月に記録する猛暑日も今年はありがたいことに一日もなく、そして6月になり梅雨に入ると珍しくしっかり雨の日が続いた。そのジメジメとした湿度にどうにも気分が下がってしまう、それは誰もが感じるところだった。そしてそれは稑も同じだった。そんな稑に体調の変化が顕著に現れ始めたのは6月ももう終わりに差し掛かった頃のことだった。
稑はそれまで順調に目の前のことをこなしていた。しかしそれは表面上の話であり、気付かれないところで稑の疲労や心労はもはやピークに達していた。自分でも自覚していた部分はあったはずだ。しかし今自分が背負っているものを思うと、その立場で足を止めてはならないと、稑は自身を必死に奮い立たせていた。その限界を超えたところで、稑の身体に異変が現れ始めたのだ。それは微熱だった。それ以外に目立った症状はなく、特に薬を飲むほどの熱でもなかった。しかしそれは1週間経っても治らなかった。検査をしても、何も異常は見つからなかった。稑自身は問題ないとこのまま続投を志願したが、ここ最近の出来事を鑑みると章はもう首を縦に振ることはできなかった。暦は7月に入り、先々に予定されている国外初参戦の野外フェスまでも、もうひと月を切ろうとしていた。そのため章は、それから予定されていた活動の影響を最小限に留めるよう配慮をした上で、しばらく稑の活動を休止することを決めた。
"しっかり休め。それが今稑に課せられた最大の責務だ。"
稑は章からそんなメッセージを受け取った。章はこの先もこの世界で生きていく上で、これもまた長く活動を続けていくために必要なことなのだと稑を諭した。
稑が活動休止の期間に入っても、詩帆は稑のところに足を運ぶことはなかった。
"今自分は会いに行くべきではない。"
詩帆は自分にそう言い聞かせていた。とは言え正直なところ、胸のうちでは相当戸惑っていた。しかしだからこそ、詩帆はそんな気持ちをその言葉で誤魔化していた。
それから何も変わらないまま4日が過ぎようとしていた。稑の症状は悪化しても37度台後半の熱で、回復しても下がり切らない状態を一日の中で繰り返す、そんな症状が続いていた。
「ごちそうさまでした。」
夜22時過ぎ、詩帆はひとりダイニングテーブルで随分と遅くなった夜ご飯を済ませると、使った食器をまとめて流しへと運んだ。そしてそのまま洗い物を始めた詩帆の隣りでは、あゆみがすでに乾いた食器を戸棚に片付けていたが、こんなに遅かったのは稑のところに寄ってきたわけではなさそうな詩帆に、背中を押してもよいものかとタイミングを見計らうも、やはりなかなか踏み切れずにいた。一方リビングでは、章が仕事絡みの書類を広げ真剣に目を通していた。
詩帆は洗い物を終えても上には上がらず、そのままリビングに残った。あゆみは、実は詩帆がここ数日自分たちが部屋に引き上げた後にキッチンで料理をしているのを知っていた。きっと稑のところに持っていくための何か差し入れを作っているのだろうとあゆみは察していた。しかしある意味なかなかの腕前である詩帆は、一向に人様に提供できるほどの料理は作れずにいた。ここでもあゆみは歯痒い思いをしていた。そんなあゆみは、敢えてその日はなかなか自身の部屋に引き上げなかった。
詩帆はそのあゆみの思惑など露も知らずに章の隣りに座り雑誌を読みながら尚も2人が退散するのを待っていた。すると脇に置いてあった自身のショルダーバッグの中でスマホに着信を知らせるバイブ音がしたことに詩帆は気付いた。すぐさまスマホを取り出しそのメッセージを開くと、それを見るなり詩帆は目を細め、大層渋い顔をしていた。
(ッチ、新め…。)
詩帆はまたすぐにスマホをショルダーバッグの中に投げ入れ、再び雑誌を読み始めた。
詩帆は2人に対しあくまで平静を装っていた。しかし実際は全然装いきれていなかった。それは今読み始めた雑誌が物語っていた。あゆみはキッチンから章に向かって必死に口パクとものすごい形相で無言の圧を掛けた。章はそれに気付くもなかなか動じなかったが、とうとうその状況に耐えきれなくなり口を開いた。
「それは、新手の読法か?」
「ん?え…、あッッ!?」
詩帆は雑誌を逆さまに読んでいた。それがバレると、詩帆はバツの悪そうな顔をして露骨にその雑誌を閉じた。すると章が続けた。
「今日も、行かないつもりか?」
章は再び書類に目を通しながら言った。詩帆はそんな章に声は出さずに"へ?"というリアクションだけ返した。章はそんな詩帆の顔を見ずとも察し続けた。
「稑のところだ。」
「私は今はもう稑のマネージャーではないので。」
「そんなこと言って、自分の気持ちから逃げてるだけだろ。」
稑とのことで章から面と向かって踏み込んだ助言を言われたのはこの時が初めてだった。それを何だか小っ恥ずかしく感じた詩帆は、その図星の突っ込みについまた今さらなことを言い返してしまった。
「絶対有り得ないって。」
「何がだ。」
「14も年上の異性に惹かれるだなんて。」
「じゃあいくつまでならいいんだ。」
「じゅう……、に??」
惚けたように首を傾げ詩帆は答えた。
「だいたいお前たちは14も離れていたから、お前は無警戒でありのままの自分でいられたし、稑はそのありのままの詩帆に惹かれたんだ。」
章まで新と同じことを言ってのけた。
「でも私、もうすぐ33だよ!?」
「それは相手が決めることだろう。」
「それに稑だってまだ18なのに、その年で人生添い遂げる人決めちゃうなんて…。」
「俺は16であゆみにプロポーズした。」
それをひとりキッチンで聞いていたあゆみは、口からベロを出し"あらまぁそうだったッ"と言わんばかりの顔をしてすっとぼけていた。
「だって章たちはッ、小さい頃からずっとお互いのこと知ってたし…。」
「お前は稑と出会って何年だ。」
「えっとぉ…、27の時からだから、28、29、30、…、…、もうすぐ6年?」
「充分だ。」
詩帆が答えるたびに、章は間髪入れずに突っ込んだ。そしてそれはどれも、章だから言えることばかりだった。
「それだけ一緒にいて、離れて、お前にとって稑の存在がどれほどのものなのかは、お前自身ももう気付いているだろ。」
詩帆はあのピアノ室で稑と添い寝をしていたところを実は章にも見られていたことを思い出し、思わず顔から火が出そうになっていた。そんな詩帆には相変わらず我関せずに、章はいよいよ手元の資料から目を離し掛けていた眼鏡と一緒にテーブルに置くと詩帆を見た。あゆみは黙って静かにキッチンの片付けを続けていた。しばらく沈黙が続いた。章はゆっくり続けた。
「おまえが今稑に望むことは何だ。」
(稑に、望むこと…。)
それはもうハッキリと、詩帆の心の中には答えが出ていた。
「それは今、稑も望むことだ。おまえに望むことだ…。」
章は真っ直ぐに詩帆を見つめた。
(あぁ、またこの目だ…。)
詩帆は思った。
(自分はこれまでいったいどれほどの間、どれほどの場面で、この目に守られ導かれてきたのだろう。)
しかしその瞳の中の青白い光は、もう以前ほどの輝きはなくなっていた。それはまるで、もう長く担った自身の役目を終えようとしていることを物語っているようだった。
(気付けば物心がつく前の、お互いが生まれたゼロの日から私たちは共に歩んで来た。絶望的な方向音痴が故自分が手取り足取り章を導いているようで、実際は章が私の羅針盤であることにあの時気付いた。それからも、そしてしばらく時を経た今も尚…。でも、もう……。)
詩帆もまた、そんな章の目をまっすぐに見つめ返した。すると不意に、章の言葉には出さない心の声がすぅっと詩帆の耳に届いた。
"詩帆。ありのままのすべてを受け止めてくれる人と、人生二度出会えると思うなよ。"
その言葉は、詩帆の心に響いた。
(ありのままのすべてを受け止めてくれる人…。あぁ、そうだ。それは本当にそうだ。稑は、どんな私でも絶対に受け止めてくれる。それはきっと、この先もずっと変わらない。)
すると詩帆は、心にたとえようのないひと筋の光が射したような感覚に陥った。
(あとは…、それを私が信じるだけ…。そう、信じるだけなんだ。)
"その壁を越える。越えるのは私。私の、越えるべき壁"
それはまるで長い間光が射すことのなかった暗い闇にずっと澱んでいた霧が一気に晴れ、これまでのすべてが繋がったかのような不思議な感覚だった。すると章の目を見つめる詩帆の目が変わった。そして次の瞬間だった。詩帆は口元をきゅっと結び、立ち上がった。そして脇に置いてあった自身のショルダーバッグを抱えると、その勢いで一気に玄関の方へ向かって走り出した。そこをあゆみが慌てて追いかけ声を掛けた。
「詩帆ッ!待ってッ!これも持っててッ!!」
そう言うとあゆみは詩帆にずっしりと重たそうな保冷バッグを手渡した。詩帆は察した。一度は慌てふためいたが、引き止められ一旦冷静さを取り戻した詩帆は改めてあゆみの目をしっかりと見つめて言った。
「ありがとう、あゆみちゃん。」
やはり最後に背中を押したのはこの2人だった。
「うんッ。ほら、行った行ったッ!!」
「うんッ。」
詩帆は今度こそもう足を止めまいと、稑を目指し玄関を飛び出していった。




