033 大丈夫 - 見知らぬ夫婦 -
その日も滞りなく弔いを終え、2人は工場に戻ることにした。その帰る時のことだった。来月のお盆の法要のことで住職に一つ相談したいことがあったのを思い出した哲夫は、再び受付を訪ねてくることを詩帆に詫び、ひと足先にその墓地を後にした。特に急いでいるわけでもなかった詩帆は、そのままお寺の入り口で哲夫を待つことにした。その地域は海抜0m地帯でもあるため、敷地全体を嵩上げしているところも少なくなく、そのお寺も入り口にまず道路から2段ほどの階段があった。その最後の一段を詩帆が降りようとした時だった。左側の角から不意に現れた夫婦に驚き、詩帆はその拍子で足を踏み外しそのまま地面に転げ落ちてしまった。
「アイタタタタ…ッ。」
「あらまあ!!大変ッ!!てっちゃんッ!!!」
その声に気付いた男性が前を向くと、地面に横たわる詩帆を慌てて見下ろした。
「あ…。」
「もぉ!てっちゃんがよそ見をしてるから!!」
「いえいえあの!これは私が勝手に踏み外してしまっただけなので!全然大丈夫なので!!」
確かに詩帆は彼らとたまたまその瞬間に居合わせただけで、実際にぶつかったりなどはしていなかった。
「だってぇ…、子猫がものすごい勢いでこの道を渡ろうとしてたから、また車に引かれるんじゃないかって、気が気じゃなくて…。」
50代とまではいかないが明らかに女性よりも7〜8歳は年上に見えるその男性は、対照的にシャキシャキとしたその女性に肩身の狭そうな弱々しい声で言い訳をした。
「てっちゃんたら…、もぉ…、ほんッとにいつもいつも。」
その女性は若干キレていた。
「あの…、私は本当に大丈夫ですからッ。」
不穏な空気を払拭するべく詩帆は慌てた様子でフォローに徹していると、その夫らしき男性がかがみ詩帆を覗き込んだ。
「すまなかったねぇ。」
そう言うと次の瞬間にはその男性は詩帆の両脇にすっと手を挟み込み、その勢いのままふわりと詩帆を持ち上げその場に立たせた。詩帆はその感覚がただただ不思議な感覚でしかなく、その状況を脳内で処理しようとするも完全にフリーズしてしまい、お礼も言えずにそのままその場で固まっていた。しかしそのすぐ傍で、今度はこの世の終わりとでも言わんばかりのものすごい形相でやはり無言のままその男性を見つめる女性に詩帆は気付いた。
(……ッ!!ヤバいヤバいヤバいッ。これ、嫉妬だッ。絶対にそうだ!この人が迂闊に私に触ったから!これはさすがに私でも分かる!!この女の人、めっちゃ怒ってる!!!)
詩帆はもういろいろな意味で固まっていた。するとその女性はあからさまにグイッとその男性を引き寄せ自身の背中の後ろに隠した。その夫婦は女性の方が背が高く、中肉中背の男性はそのすらっとした女性の後ろに何となく姿が隠れた。
「もぉ…、すいちゃんごめんて…。」
しかしその女性はそんな男性を無視し、詩帆に言った。
「本当に、ごめんなさいね…。お怪我はないですか…?」
「あ…、はいッ、私は全然ッ、ほんとに大丈夫です。」
その女性は全然怒っていなかった。いや、確かに怒ってはいたが、それは詩帆に対してではなかった。自分に敵意がないことを理解すると、詩帆はようやく肺に空気が入っていくのを感じた。しかし間髪入れずにその女性は続けた。
「あの子は、大丈夫だから。」
「え、あの子?」
「えぇ。」
その女性はとても力強い眼差しで言った。その目力は、もはや異常なくらいだった。
(あの子…?あぁ、さっきの子猫のことかな?)
そう思い詩帆は無意識にその子猫が走り去っていった方に目線を移した。がしかし、それをその女性が思い切り塞いだため、詩帆の視界は一気にその女性の顔で埋め尽くされた。詩帆は思わずたじろいだ。しかしその女性は我関せず、尚も続けた。
「大丈夫だから。」
「…、大丈夫?」
「ぅうん!」
そう言うと、その女性は頭がもげそうになるくらいギュインと大袈裟に力強く頷いた。もしその頭がうちわだったらきっと充分なほどの心地よい風をもたらしてくれるほどだった。
「大丈夫大丈夫ッ。」
「大丈夫…、大丈夫…?」
「ぅうん!!」
その女性は再び力強く頷いた。そう大袈裟なまでに深く頷くと、そのクビがうっかりもげてそのまま転がり落ちてしまうのではないかと思わずあり得ない想像をしてしまうくらい、その女性の相槌は独特なものだった。
「大丈…、Vッ!!!」
終いには目一杯ニッコリと笑いながら、その女性は自身の顔の前で力強くVサインを示して見せた。
「…、V…。」
なぜか詩帆も思わずつられてつい同じようにVサインをしてしまったが、笑顔はうまく作れずかなり引き攣った顔になってしまった。
「ぅうん!!!」
しかしその女性は最後まで何も疑うことなく嬉しそうにニコニコと笑っていた。
「…では、そう言うことで、来月もひとつよろしくお願いしやす。」
「分かりました。では、お帰りの際も、くれぐれもお気を付けて。」
「はい。」
そうこうしていると奥の建物から哲夫が姿を現し、打ち合わせを終えたらしき挨拶をする声が聞こえて来た。
「てっちゃんッ、そろそろ行かないとッ。」
「あぁ。」
先ほどまで随分とにこやかな顔をしていたその女性だが、その瞬間一気に緊張感が高まったのが詩帆にも伝わった。しかしその緊迫感は、その男性には伝わっていないようだった。男性はその場に立ち尽くしたまま、ただただ懐かしそうに、そして刹那気に、じっと哲夫のことを見つめていた。
「てっちゃんッ!!!」
いい加減に痺れを切らしたその女性は、いよいよピシャリと怒鳴った。
「うん…。」
しかし一向にその緊迫感は伝わっていない様子のまま、その男性は詩帆の方に向き直ると優しく微笑み言った。
「じゃあ…、また。」
「あ、はい…。…また。」
えげつないほど温度差のある2人の行く末がつい心配になるような、そんな独特な2人だったが歩き出すと2人はいとも自然に手を繋ぎ、お互いに信頼し合っている様子がひしひしと伝わるかのように寄り添いながら仲睦まじく先ほど来た道とは異なり隅田川の方へと歩いていった。詩帆はなぜかその2人からしばらく目が離せなかった。
「すまんね!詩帆さんッ。だいぶ待たせてしまった…。ん?詩帆さん?」
「へ?!あぁ、はい!私は大丈夫です!いやぁ、今なんだかんだですごく素敵なご夫婦がいて、」
そう言いながら詩帆は再びその夫婦が歩いていった方を見ると、そこにはもう彼らの姿は見当たらなかった。
「え…。」
「ん?どうした?大丈夫かぇ?」
「え…、あ、はい…。」
それはまるで神隠しにでもあったかのような不思議な出来事だった。
詩帆はその日アポ無しの飛び込みで突如お詫びやら相談やらに来たはずなのに、結局その後は出前で注文したお昼を事務所で工場の人たちと会食し、詩帆が章の家に向かう頃には昼もとうに過ぎていた。哲夫と別れ車まで戻ると、詩帆はBluetoothで流す曲を選ぶためカバンの中にあるスマホを捜した。しかし隅々まで捜すも一向に見つからず、詩帆は先ほど転けた時にスマホを落としたのかもしれないと一瞬思い返したが、運転席のドアを開けようとした時扉のポケットに置き忘れていたことに気付き一先ず安堵した。しかし画面を見ると、そこにはあゆみからの鬼電の着信履歴とメールの嵐が表示されていた。
「うっわッ、ヤバッ。」
"今どこにいるの?"
"何時に帰ってくるの??"
"もう美帆さんち出たんだよね?"
"何で電話に出ないの?"
"ちゃんと帰って来るよね?"
"これ見たらすぐに連絡ください"
"まだ見てないの?"
"お願いだから無視はしないで!"
「……。」
"ごめん!今から帰ります!"
簡潔にそれだけ送ると、詩帆は細心の注意を払いながらも急いで車を走らせた。
"迷惑とか、うちはそんなん全然気にしないから。そういうの全部引っくるめて一緒にいたいって思ってるんだから、いつ帰ってきてもらっても大丈夫だからね。"
あゆみからは、詩帆が実家にいる間毎日のようにそんなメールが届いていた。詩帆は美帆の配慮で迷惑は最小限に留めたかもしれないが、その分多大な心配を掛けてしまった。詩帆は申し訳なく思うも、そんなまるで本当の姉のようなあゆみの存在が愛おしく思えて仕方がなかった。そして無事章の家に帰り着くと、あゆみは家の前で花壇に水やりをしていた。
「あゆみちゃん!ごめん!ごめんなさい…。ちょっと、お詫びも兼ねて哲夫さんのところに寄ってた。」
詩帆は車を停めると一目散にあゆみのところに駆けつけた。しかしあゆみの目はしっかりと怒っていた。怒鳴ってくれた方がまだマシと思えるくらい、あゆみはしばらくの間詩帆を睨んでいた。そうなると詩帆はもうただその場に佇むしかなかった。すると次の瞬間、あゆみは持っていたホースを地面に放り落とすと詩帆にズカズカと歩み寄り思い切り抱きしめた。
「ッ。」
「おかえりッ。」
「ただ、いま…。」
「お か え りッッ。」
詩帆の無事をその目で確認しようやく安心できたのか、あゆみはしばらくギュッと詩帆を抱きしめていた。そして納得するとようやく抱擁を解き言った。
「美帆さんも詩帆のことめちゃくちゃ心配してたからもちろんこうなるのは当然なことだって分かってはいるんだけど…、でもやっぱり詩帆がいないのは寂しい!ご飯の作り甲斐も減るッッ。」
「え、いや、お母さんはここにいたらあゆみちゃんたちに迷惑掛けるからって、」
それを聞いた瞬間あゆみの目尻が再び釣り上がった。
「もう!この親不孝娘ッ!!」
「えぇ…。」
「ふふふ、もうこればっかりは詩帆も親にならないと分かんないわねッ。」
「えぇ…?!」
「ほらッ、早くスーツケースも下ろして、うちに上がろ!」
するとあゆみはいつものようにシャキシャキと水やりのホースを片付け始めた。詩帆はあゆみの言っていることが分かるような分からないような、でもだとするとうちの母親はとことんわっかりにくい親だな…と、詩帆はここ数日一緒に過ごした実家での美帆の姿を思い出していた。




