032 この先の未来
暦は6月に入っていた。詩帆はあれから10日ほど実家で過ごし、やがてウィーンから次の短期留学生がやって来るためところてん式で章の家へ戻ることになった。
「お世話になりました。」
朝、玄関で改まってそう挨拶をすると詩帆は2人に頭を下げた。
「詩帆、ここはあなたの家なんだから、帰りたくなったらいつでも気兼ねなく帰ってらっしゃい。部屋だって、いざとなったらどーとでもなるんだから。」
「そうだぞ?何ならお父さんの部屋で一緒に寝てもいいんだぞ?」
詩帆は30過ぎた娘にそんなことを易々と言ってしまう佳克に思わず困惑した表情を露わにしてしまった。しかし佳克は依然として娘を愛でる眼差しを絶やさなかった。父親というのは娘がいくつになっても永遠に子どものままなのだと、つい日頃の章と明のやり取りを思い出してしまった。
「うん。じゃあ、また。」
詩帆は車に乗り込むとナビを章の家に設定するも、その前に履歴からもう1箇所目的地を追加し車を発進させた。
(その壁を越える…。越えるのは…、私。私の…、越えるべき壁…。)
詩帆はあの日のインタビューを見て以来、その問いを何度も何度も繰り返し頭の中で唱えていた。そのメッセージは、詩帆の心の奥底に響いていた。そしてその問いに真摯に向き合うことこそが、稑に対する本当の誠意であると詩帆はあの日の稑の姿を見て心を新たにしていた。
「こんにちはぁ…。」
工場の入り口から記憶に残るよく通る声が聞こえた美代子は、目の前の作業を一旦中断してその場に立ち上がり、声のする方を覗いた。
(あぁやっぱり。)
「はぁーい、今行きまぁす。」
美代子は若干小走りを心掛け入り口まで足を運んだ。
「あのぉ…。」
詩帆は前回と同様、あるいはそれ以上に小さな身体をさらに縮こませだいぶ申し訳なさそうに佇んでいた。稑はもはや身内のような立場の美代子は彼女の置かれている近況を察し、自分には敵意はないことを悟らせるような、柔らかい笑顔と穏やかな声で詩帆に応じた。
「社長ですね、少々お待ちください。」
「はい…、ありがとうございます。」
「よぉ詩帆さんッ!お久しぶりじゃあねぇか!」
するとすぐに奥から哲夫の元気そうな声が聞こえてきた。
「この度はこのような形でお騒がせする事態となり…、本当に、申し訳ありません…。」
詩帆は哲夫に対し早々に深々と頭を下げた。
「なぁにもう今さら。しかし、わざわざありがとうな。」
身体を起こしこくんと小さく頷くも、詩帆は顔を伏せたままその場に佇んだ。そんな詩帆の様子から、哲夫は今日詩帆がただ詫びに来ただけではないことを悟った。
「どうだ、詩帆さん。今日もまた、隅田川まで一緒に散歩するかぇ?」
すると詩帆はようやく顔を上げ、哲夫の顔を見つめた。その顔からはほっとした様子が手に取るように伝わり、そんな詩帆に哲夫は優しく微笑んだ。
「稑は、元気にやってるかい?」
「はい。ここしばらく直接は会えていませんが、今やるべきことに集中して、気丈に振る舞っていると担当のマネージャーからは聞いています。」
「そうか。詩帆さんは、変わりないかい?と言っても無理があるな…。」
「いえ、私は稑に比べたら、もう、全然。」
「そう強がりなさんなって…。」
哲夫は再び慈愛に満ちた顔で詩帆を見つめた。一方詩帆も、この何とも言えない不思議な包容力に満ちそこから生まれる絶大な安心感から、この時点でやはり今日哲夫に会いに来て良かったと心から思えた。哲夫はゆっくりめにとぼとぼと歩みを進め、詩帆が話しやすい空気を整えていた。言わずともそれを感じた詩帆は、しばらくしてようやく口を開いた。
「本当の家族になりたいって、稑からは言われていて…。」
「おぅ、本当の家族。」
「はい。それはまぁ、いわゆる夫婦っていう稑なりのイメージみたいなんですけど…。」
「おぅ、夫婦。」
「はい。だからつまりそのぉ…、プロポーズってことなんだと思うんですけど…。」
すると哲夫は突然威勢よく声を上げて笑い出した。
「ハッハッハッハッ。そうかぁ、稑のやつ、もうプロポーズもしたんだなッ。」
「はい…。」
「"本当の家族"か。いやぁ、全く、稑らしいな。」
「……??。と、言いますと。」
「いやぁ、だってアイツは、夫婦がどんなものかも知らねぇし、そもそも結婚自体成立していない環境で育ってきたからなぁ。だから夫婦やら結婚なんて言葉は、稑の中ではピンとこねぇんだろうなぁ。」
「……ッ。」
稑の生い立ちを哲夫が言葉にしそれを改めて聞くと、詩帆はつい忘れていたものを思い出したかのように思わずハッとした。
「しかし社長さんの家で暮らし始めて、そこで目の当たりにした家族というものが、稑にはとても新鮮で、強烈なインパクトがあったんだろうなぁ。そして自分も、いつかそんな家族を詩帆さんと築きたいと、シンプルに、そう思ったんだろう。」
「…私は正直、自分たちもその章の家族の一員みたいに感じてました。だから稑ももうとっくに家族だし、それで充分なんじゃないかって。」
「……??」
それを聞くなり、いやいやそんなはずはねぇだろうと、哲夫はやや不思議そうな顔で詩帆を見つめた。詩帆はそんな哲夫の顔に、思わずドキッとした。
(ん?ドキッ?え、なんで??)
詩帆は尚も困惑していた。すると哲夫はまたポツリポツリと話し始めた。
「稑にとっての本当の家族は、律子なんだよなぁ。どんなに離れて暮らそうが、どんなにしばらく会えなかろうが、それは決して変わらない。でもその律子も、今は清子さんと暮らしている。まるで本当の母娘のようになぁ。この前も、清子さんの最期は自分が看取りたいと話していた。」
「そうなんですね…。」
「それに、俺にとっての本当の家族は、稑を入れてもあとはもう律子しかいねぇ。でもそんな俺にも、俺のことをじぃじと慕ってくる孫みてぇなヤツがいてなぁ。工場の若夫婦の息子なんだが、先月もそいつの小学校の運動会を一緒に観に行ってやったらあんまりにも俺のことをじぃじじぃじって連呼しやがるから、つい周りに勘違いされたわッ、ハッハッハッ。」
哲夫は嬉しそうに笑った。詩帆はキョトンとしていた。
「詩帆さんよぉ。」
哲夫は飲み込みの悪い詩帆に若干参ったような顔をしながら言った。
「つまりその人がまた誰かを家族のように思うのは、その人と、ただ傍にいたい、そういうことなんじゃあねぇのかなぁ。」
そう言われると、詩帆は目をまん丸に見開きやや固まっていた。まるで図星だと言わんばかりのその顔に、哲夫は思わずクスッと笑った。
「ただ傍にいたい。傍にいると安心する。だからこの先もずっと傍にいたい。ただそれだけのことなんじゃねぇのかなぁ。」
すると詩帆にはすぐに思い起こす場面があった。それは章の家のピアノ室で、稑に抱きしめられた時のことだった。
(ただ傍にいたい。傍にいると安心する。だからこの先もずっと傍にいたい。あの時とめどなく溢れ出た涙は、稑に対するそれらに本能が渇望してたってこと…?私は自分が思う以上に、稑を求めてるってこと…?!)
詩帆は最近になってようやく認めた稑に対する思いのその深さを、改めて思い知らされ打ちのめされた気分だった。しかしそんな自分や稑の思いを知れば知るほど、詩帆が今日哲夫に会いに来た理由は明確になった。詩帆はそんな哲夫に、今まで誰にもぶつけられなかった思いを吐き出した。
「でも…、人って、突然いなくなるじゃないですか。」
それは驚くほど無機質な顔で放つ無機質な声だった。そんな詩帆に、今度は哲夫が思わず目を見張った。しかし哲夫には、今の詩帆の心情が痛いほど伝わっていた。今そこに感情を含めたら、きっとこの子は正気を保てない、それほどまでに重たい言葉だということを哲夫は言わずとも理解していた。その頃にはすでに詩帆と共に隅田川沿いを歩いていた哲夫はついに言葉に詰まってしまい、とうとう歩みを止め、川沿いの柵に腕を乗せるとそのまま黙り込んでしまった。詩帆もそんな哲夫に気付くと、その横に並んで立ち、2人は隅田川をただぼぉっと見つめていた。それから無言の時が、しばらく続いた。
(詩帆さんよぉ、もしかして俺に、大丈夫だって、そう言ってもらいてぇのかい?だとしたら、俺は言えねぇぞ?そんなこと、俺には言えねぇ。そんなん分かるだろ…。)
哲夫は苦しくも、今も心の中で消えない、受け入れられない現実を突きつけられたあの日が脳裏をよぎった。
(…いや、そうか。逆だな、共感してほしいんだな。その踏み出せない一歩を、俺に肯定してほしいんだ。しかしできん。それもできんてッ。詩帆さんよぉ、俺には詩帆さんの気持ちも、稑の気持ちも分かるから、どうにもできん…、できんよ…。)
2人はその後も無言のまま、お互いにしばらくぼぉっと隅田川を眺めていた。同じようで同じではない繰り返し反射する水面の細かな光を、2人はいつまでもじっと見つめていた。
それからどれほどの時間が経ったことか、しかし実際には言うほどでもなかったが、それでもそれなりの時間を2人は無言のまま過ごした。そして哲夫がようやく口を開いた。
「今日もこれから両親のところへ行こうと思うが、詩帆さんもまた、一緒に行くかい…?」
「……、はい。」
そう答えた詩帆の顔は、それまでの、詩帆の問いにはあえて答えなかった哲夫のすべてをありのまま受け入れた、あるいは今詩帆にとって一番わだかまるあのひと言はもうなかったことにするような、そんな不自然なまでに優しく穏やかな笑みだった。
川名家の菩提寺までには、他にも何箇所もお寺があった。そこはそういう場所だった。詩帆はまだ2回目の訪問だったが、そこまでの道はもう何となく頭に入っていた。稑の祖父母であり哲夫と律子の両親は、その菩提寺の裏の墓地の一番奥に眠っていた。2人はもう慣れた様子で、そして詩帆は哲夫の所作から阿吽の呼吸で手入れを補佐し、弔う準備を進めた。
一通りの作業を終えると、最後に哲夫が先ほどお寺の受付で火を付けてもらった線香を供えた。そして先に哲夫が手を合わせゆっくり瞼を閉じると、詩帆もそれに続いた。
(稑と出会わせてくれてありがとうございます。どうか、その稑を、稑のこの先の未来を…、どうか、どうか…、これからも見守ってください。)
詩帆はいつもと変わらぬ思いを稑の祖父母に伝えた。




