031 その流す涙の理由
それからの日常は明らかにそれまでとは違っていた。写真に稑と写っていた女性はすでに魂狼のマネージャーであることまで割れていて、ネットには案の定、多くの批判的なコメントや、中には誹謗中傷も寄せられていた。
"あり得ない"
"立場をわきまえろ"
"選びたい放題狙ってた?"
詩帆は律儀にその一つひとつに目を通した。しかしそこには自身でも驚くほど冷静な自分がいた。それは先日の緊急幹部ミーティングで聞いた稑のこのスクープに対する本意や、同じく美帆の助言が詩帆をそうさせていた。
"詩帆さん…。大丈夫?
つらい思いさせて、ごめんね"
それは稑からのメールだった。
"私は大丈夫だよ。
名も顔も晒さない者の言うことなんて、
無に等しいから。"
しかしそれは自身を守るためのただのマインドコントロールだった。心無い言葉は、確実に生身の心をえぐった。そしてその矛先はやはり稑にも向けられた。己で決めたこととは言え、詩帆は稑のことも案じた。
"稑は大丈夫?"
すると稑からはすぐに返事が届いた。
"僕は大丈夫だよ。
ただひたすらに、誠実に。
それだけだよ。"
(稑…。)
そもそも報じられた記事にはライターの主観や憶測、報じる対象への好感度が織り混ざり、それは本人たちに真実を確かめることもなく報じられる。そして今度はその記事を目にした者たちが、またその人自身の主観やらを織り混ぜ語られる。それは稑たちに対して肯定的か否定的かでまた大きく歪められ、気付けば完全に当人たちを置き去りにした、真実とはほど遠い"人々の関心が作り上げた事実"がやがて一人歩きをする。おかしいのはその相違が分かるのは当事者である稑と詩帆だけで、その本人たちには一切確かめられることはないまま一方的に言われなき批判を受けることだ。確かに公衆の面前で手を繋いだことは浅はかだった、しかしそこから膨れ上がったことに対しそれは違うと言いたいことは山ほどあるはずなのに、稑は然るべき時が来るまで固く口を閉ざし続けた。それはこれまで迅の背中を見て育ってきた章の背中を、今度は稑が見て育ち学んだ術だった。
"ただひたすらに、誠実に"
詩帆は稑からそんな滝本家由来のメッセージを目にし、稑が魂狼のメンバーになって本当によかったと心から思えた。これを実行するには、並々ならぬ忍耐が伴うはずなのに、稑は章の下でブレずにここまで成長し、粛々とそれを貫いた。今のこの状況には自身にも非がありながらも、詩帆はそんな稑に対し感慨深く思えて仕方がなかった。
そしていよいよ米国開催の野外フェスに単独出演が決まっていることが解禁となり、直近にリリースした新曲の宣伝活動も兼ね、魂狼のメンバーたちはあのスクープ以来初めてLiveで記者と接触する機会が訪れた。魂狼は今取り上げられれば取り上げられるほど稑のそのネタも同じように付いて周っていたため、初めて本人の口からそのことについて触れられるその瞬間を多くのファンが固唾を飲んで見守っていた。そして話題はいよいよ核心に触れた。詩帆はそのインタビューの生配信を実家で美帆と共に観ていた。
『今回報道されている写真で稑さんと一緒に写っている方は、稑さんはじめ魂狼の皆さんのマネージャーとも噂されていますがそれは事実なんでしょうか?!』
『はい、事実です。』(蓮)
『そうなんですねッ?!そのマネージャーさんというのは皆さんにとっていったいどんな方なんですか?』
『ひと言で言うと…、雑です。』(蓮)
『食い意地が、エゲツないですッ。』(新)
『キレると怖いです。』(勇)
『たまに"ら"が巻き舌になりますッ。』(優)
『え、えぇ…。みんな、それ冗談で言ってる…?』(稑)
『それは事実なんですか?!』(記者)
『まぁ…、確かにそうなんですけど。』(稑)
『あ、認めちゃったよ。』(勇)
『えぇッ?!』(稑)
「おぃ……。お前ら全員しばかれたいのか…??」(詩帆)
その話題は出だしから詩帆が想像していたものと大きくかけ離れていた。
『今これ見て絶対キレてるよね。』(新)
『うん。"ら"は巻き舌でね。』(優)
"ッチ!!"
ついには舌打ちまでする娘に美帆はもはや堪え切れず、笑いが一気に吹き出した。
「ギャッハッハッハッ!!これまんま詩帆だわねッ。」
「え、お母さん…、私今全国版で恥晒されてんだけど。」
「だってそーじゃない!やっぱり彼らはあなたのことよく分かってるわ。だてに5年間共に過ごしてきたわけじゃないのね!ハッハッハッ。」
「ねーねーねーそれ褒めてんの?けなしてんの?」
画面の中では尚もメンバーに対して記者の質問が続いていた。
『魂狼の皆さんは、もうお2人のご関係はご存知だったんですか?』(記者)
『まぁ、はい。俺らっていうより、弊社スタッフはすでに皆周知しております。』(蓮)
『それにどっちかって言うと稑に気付かせたのもこっちからだよな。』(勇)
『ではSmall Gateとしては公認の仲ということなんですね?』(記者)
『公認の仲、いや、現状ではあちらがまだ認めてないですね。拒み続けてます。』(優)
『そうだね、頑なに。』(新)
『あれ、あともう1人首を縦に振らない人おらん?』(蓮)
『あ、まっさん?』(勇)
『うん。』(蓮)
『まっさんはねぇ、もうだいぶ前だけど冬頃夜突然俺んち押しかけて来て、泣きながら"完敗に、乾杯ッ!"とか言って1人酔い潰れてたことがありましてぇ、ま、それがそういうことなんですよねぇ。』(勇)
『完敗に、乾杯??』(記者)
『あ、いえ、俺の飲み友の話ですすみません。』(勇)
『え、勇M氏と飲み友なの?』(新)
『おう。独り身同士、家も近いし。』(勇)
『近いっていうか、もう上と下ね。僕もたまにその宅飲みに混ぜてもらってるよ。』(優)
『へー。そうだったんだぁ。』(新)
『ま、というわけで、僕たちとしては、またいつでもフォーマルスーツを着る準備まで出来てるんですけど、出来てはいるんですけどッ、あとはお2人次第ってところですかね〜。』(優)
『はあ…。では現状としては、稑さんの片想い中ということですね?』(記者)
『はい…、まぁ、そういうことになります。いや、絶対もう両想いだとは思うんですけど…。』(稑)
『??』(記者)
『あ、いえッ、片想い爆走中ですッ。』(稑)
『そうなんですね。しかしお話を聞いていると、だいぶワイルドで逞しそうな方で、道のりはちょっと険しそうですが…。』
『それは違います。いや、違くはないけど、でも、彼女のことは、僕にしか分からないところがたくさんあります。』
『稑さんにしか分からない?とおっしゃいますと…。』
『僕は、彼女がここまで生きてきたからこそ奏でられる繊細な音楽をずっと傍で聴いてきたし、彼女の流すいろんな涙も見てきました。』
『それ、俺は知らない。』(蓮)
『えッ、泣くの?あの人が??』(勇)
『えー、想像つかない…。』(優)
『……。』(新)
『僕は、その流す涙の理由も知ってるから、だからもし、これからもそういう時があったら、その時は僕が、彼女の一番傍にいたいって思っています。』
『その方は、稑さんにしか見せない顔があるということですね?』
『はいッ、おっしゃる通りです。』(新)
『新…。』(稑)
『それは僕が実際に2人を傍で見ていて感じるところであります。それはもう…、僕なんかが割って入る隙もないくらいに…。』(新)
少し寂し気にジェラシーを滲ませる新の頭をそっと撫でる勇と、その反対側から優も寄り添い慰めた。
「やっぱり、稑君が一番あなたのことをよく分かってるじゃない。」
「え、でも…。そもそも彼はまだ18だよ?!」
すると美帆は大きなため息をつき、そして言った。
「はいはいそうやって固定概念に囚われて、結ばれるはずの奇跡がこの世からいくつ失われていることやら…。だいたいねぇ、幼い人はいつまで経っても幼いままだし、その逆もまたそう。あなたたちの場合は、いったいどっちがお子ちゃまなんだか…。」
「……。」
「それにねぇ、この人でもいい、そうやって結ばれるのも間違ってはいない。でもね、この人がいいと思える人と、結ばれること以前に出会えることすら奇跡なのよ?それに私からしたら、詩帆をストーカーから守るために駆けつけてくれた時点で、稑君はもう王子様だから!」
「あれはただ、稑自身も同じような目に合って辛さとかを知ってるから、他人事じゃなかったんだよ。」
「そう。同じような目に合って、他の人には分からないことが分かる人、分からないことも、自分事のように捉えようとしてくれる人、その人に、心を開こうと思える人、あなたのこれまでの人生には、いったいどれほどいたのかしら?」
「……。」
詩帆はたまにグッと核心を突く美帆の言葉につい黙り込んでしまった。
「でも…。私は、もうそういうのはいいのッ。もう決めたことなの。じゃ、風呂入って寝るねッ、おやすみッ。」
そう言うと詩帆はいそいそとリビングを出て行ってしまった。
「ほんっとにあの子は頑ななんだから…。」
美帆は手元のコーヒーが入ったマグカップを両手でそっと握りしめながらやるせなく呟いた。
「まだまだ根深いわね…、あの子が、本当に囚われているものは…。」
『そうなんですね…。一方では、社内でメンバーとの交際はファンに対して示しが付かないと問題になり、すでに3月をもってSmall Gateから辞職をしたという報道もありますが…。』
『それは違います。』
それには蓮がすぐに反応した。
『先ほども申し上げましたが、弊社は真剣交際であれば相手が誰であろうと容認する方針を取っております。そして辞職という報道も誤報です。弊社は最たる企業理念に『才能を死なせない』ことを掲げております。このコンセプトの下、彼女の本来の才能を発揮する機会を増やしていくため、彼女の意志を尊重しその活動を認めつつ、籍はまだこちらに残したまま業務も継続して行っていただいております。』
『そうなんですね…。ちなみにその方の才能というのは…。』
『ピアニストです。』
今度は間髪入れずに稑が答えた。
『でも、彼女の演奏を聴くのに高いチケットなどは必要ありません。自ら足を運べば、街のどこかで聴くことができる。しかし彼女の奏でる偽りのない、背伸びもしないありのままに魂を注ぐ音楽を聴いて、中には人生が変わる人もいる、そんな力のある、僕にとっては唯一無二のピアニストです。』
『そうなんですね…。私からすれば、稑さんにこれほど想われるなんてことは、大変羨ましい限りですが…。』
『いや、あの、どうか誤解しないでください!』(稑)
『え、誤解というのは…。』
その時の稑の目は、これまでにないほど真剣な眼差しだった。そしてその瞳の奥には、章と同じ光を宿していた。
『彼女が拒み続ける理由は、決して僕に不満があるわけではないんです。それは多分、年齢的なこととも違う。もっと根深い、彼女にしか分からない何かと、ものすごく葛藤している。そのことで応えることが出来ず、僕を傷付けていることを申し訳なく思うほどに…。僕はその壁を越えたいけど、でも越えるのはきっと僕じゃなくて、彼女だと思うんです。だから、僕は絶対に諦めないで、これからも彼女の出す答えを待ち続けます。』
すると稑は目の前の記者から視界を広げ、その場にいる全ての人に向かって言った。
『この度は突然お騒がせする事態になってしまい、本当に、申し訳ありませんでした。でもどうか皆さんには、僕たちのことは、そっと見守っていていただけたらありがたいです。これからも活動は抜かりなく精進してまいります。ですので、今後とも魂狼を、どうぞよろしくお願いします。』
そう言うと稑は深く深く、頭を下げた。するとそれに習い、メンバーも全員、真剣に頭を下げた。
「稑君…。あなたは本当に、どこまでも詩帆のことを…。でも、ごめん…。詩帆、肝心なところ聞いてないわ……。」
美帆は歯痒くも切ない眼差しで、画面越しの稑を見つめていた。
「ったく、アイツら私の人権を完全に無視してッ。」
身体も洗い終わり浴槽に浸かっていた詩帆は、どんなに他のことを考えても気が付くと先ほどのインタビューに対応していたメンバーたちのことを思い出していた。
「…私、稑の前でそんなに泣いたか…?」
すると詩帆の耳にはすぐに新の声が甦った。
"そして公演中に人目を憚らずに泣いていた詩帆さんを目撃した稑は、ただただ心配そうに、ベッドで休む詩帆さんの頭を撫でてた。"
「……。」
詩帆はその話を思い出すと、それからどんなに月日が流れていても胸の奥がズキッと痛んだ。その痛みは名も顔も晒さない者たちの中傷よりも遥かに詩帆の心をえぐった。そして思い返せば、詩帆はこれまでも幾度に渡って稑に泣き顔を晒してきた自分を思い出した。
「…確かに、泣いてたか、私。うむ、今後はもっと抜かりなく気を引き締めていくぞ。」
詩帆はもはや意地になっていた。しかしそんな詩帆をまるで見透かしたかのように、詩帆のスマホには一件のメールが届いていた。
"詩帆ちゃーん、さっきの、ちゃんと見たぁ?俺マジで完敗だわ。詩帆ちゃんのことこんなに知り尽くして、さらにはこんなふうに思ってくれる男、もうこの先一生出会えないよ?俺を振ったこと、今もまだ申し訳なく思ってくれてるなら、ちゃんと最後まで見てあげてね。"
「………。」
風呂から上がり目にしたメールは、誠から送られたものだった。
詩帆は部屋に戻るとまだ髪が濡れたままベッドにドサっと腰掛けた。そしてすでにスマホは手にしているものの、しばらくぼぉっと天井を見上げていた。するとあの日の稑の言葉が甦った。
「誰に対しても、嘘にならないために…、か。」
すると詩帆はようやく意を決し、握っているスマホに目を移した。しかしどこかまだ迷いがあるのか、すぐには画面に触れることができなかった。それでも少し躊躇しながら、詩帆は誠とのチャットを開き、ようやくその動画をタップした。
「え、長ッ!!インタビュー、あの後もこんな続いてたんだ…。」
改めて最初からそれを観た詩帆は、やがて時を忘れて見入った。そして彼らが深く頭を下げたところで映像は終わったが、詩帆は尚もしばらくその静止した画面をじっと見つめていた。




