030 懐かしい匂い
詩帆は再びスーツケースと共に自身の車に乗り込むと、すぐさま美帆に電話を掛けた。
"はいもしもし"
「あ、お母さん?私。今から帰るから。」
やっと出た美帆に詩帆は大層ぶっきらぼうにそう言い放った。章に自身を帰宅させるよう指示をした美帆は、きっと今娘の置かれている状況を汲み取り労ってくれる、詩帆はそう思っていた。しかし美帆の様子はまるで違った。
"はいはぁーい。りょーかぁーい。"
(えッ、かっるッッ!!!)
娘が突然世間に晒され、美帆も美帆できっとショックを受けている、あるいは逆に振り切れて、もう手が付けられないほど荒れ狂っている、詩帆は美帆のことを勝手にそう想像していた。しかし実際の美帆はそのどちらでもなかった。
「え…、怒ってないの?」
"え?怒る?何で??"
「だって…、あんな記事本人に無許可で流出させられて、それでお母さん怒って私に帰宅命令出したんでしょ…?」
すると美帆はまたまたとんでもないことを言い出した。
"??? あぁ、やっぱり詩帆は今日知ったんだ。"
「…は??」
"まぁいいわ。とにかく気をつけて早く帰ってらっしゃい。お父さんも待ってるわよッ。じゃ、切るわねッ。"
若干陽気にすら聞こえる口調でそう言うと、美帆は有無も言わさず一方的に電話を切った。
(……。)
詩帆は頭の中が無になっていた。しかしおかげで冷静さを取り戻せた詩帆は、一旦運転に集中することができた。一先ず目的地を実家に設定すると、詩帆はいつも通り車を発進させた。
帰宅ラッシュの影響はさほど受けず、詩帆はこの度の出張先に何なく辿り着いた。
「ただいまぁ。」
詩帆が玄関を開けると、車のエンジン音で詩帆の到着を察知していたのか美帆と佳克はすでにその場にスタンバッていた。
「おかえりなさい。」
「おかえり、詩帆。」
美帆はそれほどでもなかったが、後に続いた佳克からは娘を愛でる笑顔が溢れていた。
「あれ、お父さん。今日仕事は?平日だよ?」
いつも帰りの遅い佳克がこの時間に家にいるのはとても珍しいことだった。
「うん、今日は久々に詩帆が帰ってくるから、午後は半休を取らせてもらったんだよ。」
「……?」
(でもあのネットニュースって、確か今日の16時に配信されてたよね…。)
詩帆にはもう違和感しかなかった。
「あのさぁ、お母さんたちって、あの記事のこといつ知ったの?もしかしてお母さんたちも…。」
「ええ、もうだいぶ前に章君から聞いてたわよ?」
「はい??」
「あれはいつだったかしら…。かれこれもう数ヶ月は前になるわね。」
「えッ、そんな前ッ?!」
「ええ。大事な話があるって、わざわざ章君がお父さんもいる時間にうちまで来てくれたのよ。」
それは遡ること2ヶ月ほど前の、稑が章からあの写真の存在を知らされたすぐ後のことだった。
「今後、どこかのタイミングで、詩帆がマスコミに晒されるかもしれません。もしそうなれば、詩帆には、そして美帆さんたちにもそれなりの代償が伴うことになります。今なら俺が止めることはできます。どうしますか?」
ダイニングテーブルに美帆たちと向かい合って座り話し始めたその内容はスケールがそれなりのことだというのに、章は全くいつも通りで、例の瞳の奥に光を宿した真っ直ぐな眼差しで美帆を見つめそう言った。それを聞き終わると、美帆はテーブルの上に並べられた写真の1枚を手に取り、何も言わず、ただじっとそれを見つめていた。隣りに座っていた佳克も唇をキュッと結び、見えないテーブルの下では膝の上で拳を握り、その写真を見つめる美帆をやはり黙って見つめていた。
「これって…、いわゆる熱愛報道ってことでいいのかしら…?」
ようやく口を開いた美帆のひと言目はそれだった。
「はい。」
章は微動だにせず、やはり美帆の目をまっすぐに見つめたままそう答えた。すると美帆はケロッとあっさり言ってのけた。
「だったら問題ないです。オッケーでぇーす。」
「…、はい。」
章は一切表情を変えることなく相槌を打った。
「それで詩帆が嫁に行けるなら、もぉ全ッ然構わないわ。それにお相手があの稑君なら、むしろこちらからお願いしまッすっ感じ。」
「はい。分かりました。」
「ってな感じで返事はしといたんだけど、待てども待てども公にならないから、あぁやっぱりボツになっちゃったのかぁってぼちぼち諦め始めてたところだったのよぉ。」
「………。」
詩帆は開いた口が塞がらなかった。
「え…、じゃああの帰宅命令っていうのは…。」
「だってあのまま章君ちにいたらあゆみちゃんたちにも迷惑掛けちゃうでしょ?」
(そっちかぁーーーいッ!!!)
「それはとても申し訳ないなって。今ならちょうど留学生も入れ替わりでいないしね。」
「じゃあ私を庇ってってわけじゃなくて、章たちのためだったってこと…?」
「うん。」
「で、娘は世間に晒される…。」
「うん。」
「そして代償を背負う。」
「うん。」
詩帆の顔は、段々と曇っていった。佳克は先ほどとは打って変わって心配そうに詩帆と美帆の顔を交互に見つめていた。しかし美帆はそんな佳克をよそに尚も変わらず続けた。
「何、あなたその程度の覚悟で彼らの仕事に関わってたの?」
「…ッ。でも、お母さんたちはヤじゃないの??」
すると美帆はいよいよ前で腕を組み仁王立ちになりながらドドンと言ってのけた。
「何を言ってるのよ今さらッ。私たちはこうなったら、そりゃもうブラボー!いけいけドンドンだわッ。」
「………。」
(え、これ何被り…?つーか誰この人。)
詩帆は目が点になっていた。そして度々感じる、今目の前にいるこの人間が本当に自分の母親なのかという疑念が再び甦った。それと同時にここは自分の実家であるはずなのに、果てしなくアウェイに思えて仕方がなかった。しかしそんな詩帆に美帆は留まるところを知らなかった。
「それにねぇ、」
しかしその声はこれまでとは明らかに違った。
「あなたの代償なんて全然大したことないのよ。これから大変なのは、稑君の方なのよ?」
美帆の言うことは最もだった。ネットに上がった詩帆の姿は、やはり一般人であるため顔の一部は加工が施されていた。近しい人は分かるにしても、そこからさらにこれが詩帆だと分かったとしても、その数はたかが知れていた。そしてこれから詩帆がどんなに祭り上げられるとしても、その矢面に立つのは常に稑だった。
(でも…、あれは稑の決めたことだし…。)
詩帆はまだ素直になれなかった。そして美帆が自身のことなど微塵も気に掛けてはいなかったことに気付くと、心の奥がモヤッとした。
「……私、やっぱ帰る。いや、今日からしばらく岡崎先生のところに住まわしてもらう。」
そう言うと詩帆はくるっと踵を返し家を出て行こうとした。すると間髪入れずに美帆がそんな詩帆をピシャリと止めた。
「詩帆ッ。華絵にも迷惑はかけないで。」
(……ッ。)
それも確かにそうだと思った。すると詩帆は先ほどから考えることが常に自分のことばかりで、全然周りが見えていないことに急に恥ずかしさが込み上げてきた。しかしもうこの家を出るという選択肢は塞がれ、かといって易々と家に上がることも憚られ、詩帆はその場に黙って立ち尽くす他なくなってしまった。するとようやく出番が巡ってきたと言わんばかりに佳克が優しく詩帆に話し掛けた。
「詩帆。今日は僕張り切ってカレーを作ったんだ。だからとりあえず、久々にそれをみんなで食べよう?」
玄関に入った瞬間、詩帆はその懐かしい匂いに気付いていた。それは唯一佳克が作れる手料理だった。しかしただどれもありきたりの材料でレシピ通りに作っているだけなのに、なぜかそれは佳克にしか出せない味で、詩帆はそのカレーが大好きだった。それ故詩帆がまだ幼い頃、美帆が作ったカレーを美味しくないと罪なき一言で傷付けてしまったり、その美帆が体調を崩し寝込んでしまった時は1週間このカレーで凌いだりと、それはこれまでの橋本家の思い出も共に刻んできたカレーだった。詩帆の心は大きく揺らいだ。さらにそこにあの食い意地が拍車をかけ、詩帆は眉間に皺を寄せ唇を真一文字に結び葛藤していた。
「詩帆。」
痺れを切らした佳克は玄関に降り立つと、歩み寄り横から詩帆の肩にそっと両手を乗せた。詩帆は若干上目遣いでそんな佳克を恐る恐る見つめた。
「……おかわり、めっちゃするから。」
「うんッ。たくさん作ったから、たくさん食べてッ。さッ。」
佳克にそう促されると、詩帆はもう参った…と言わんばかりにようやくとぼとぼと歩き出し家に上がった。
詩帆の実家は章の家から車で20分ほどのところにあり、今はウィーンからの留学生が頻繁に滞在していることもあり、詩帆はここ最近泊まりで実家に戻ることはほとんどなかった。よって美帆と佳克と顔を揃えて夕食を共にするのは本当に久しぶりだった。
お腹も満たされ風呂も済ませると詩帆はようやく自室に引き上げ、一先ずベッドに横になり疲れ切った身体を休ませた。こんな状況でありながらも尚もあっけらかんとしていた美帆に、なんだかんだで詩帆の沈んだ心は救われた。そのため急に静まり返ったこの部屋に1人でいると、詩帆は途端に心細くなった。そしてここは詩帆が生まれ育ち生活してきた部屋であるのに、もう5年も経ち、あまりにも綺麗に整っているとまるでホテルに泊まっているかのような感覚になった。
(なんか、落ち着かない…。きっとこの前の光も、こんな心境だったのかな…。)
もしここに光がいたら、あれは策略でもあったがまず状況は真逆であり、落ち着かないというよりもはや引くレベルであることを声を大にして言いたかったであろう。詩帆は目を閉じると、そんな章たち家族の声や様々な表情が次から次へと浮かんだ。そしてその中には自分と、まだ一緒に暮らしていた頃の稑の姿もあった。
(ここは確かに私の生まれ育った家で、お父さんもお母さんも私の本当の家族なのに、もちろんそれは今も変わらないのに、今はもう章たちも、私にとってはすっかり本当の家族だ…。)
"でも今ははっきり思う。稑はもうすっかり家族になったなぁって。"
それはスクープされた写真の直前に、詩帆が自ら稑に言った言葉だった。
"僕は詩帆さんと、いつか本当の家族になりたいって思っているよ?"
(本当の家族…。稑…、私たちはもう、家族だよ…。章がみんなのことをそう言うように、私も同じ気持ちだよ…?稑は、今のままじゃ、ダメかな…。私は、今でも充分幸せだから…。稑が、大好きな自分を、胸を張って生きていてくれるだけで、私はもう…、それだけで……。)
詩帆は閉じた瞼の奥に映る、賑やかに食卓を囲むいつもの章たちや稑の姿を尚も眺めていた。それは詩帆の心をとても穏やかにした。やがて待っていましたと言わんばかりに睡魔が襲い掛かると否が応でも意識は遠のき、詩帆は抗うことなくそのまま深い眠りへと落ちていった。
閑話
『懐かしい匂い』by 稑
詩帆の出張演奏を聴きに行った日、稑は結局ピアノ室で一夜を明かした。目が覚めると、稑は自身に掛けられたタオルケットに気付いた。まだ半分寝ぼけたままのっそりと起き上がると、稑はそのタオルケットを手早くかき集め思い切り顔を埋めた。
(懐かしい匂い…。)
前夜の行為が果たして無自覚だったのか否かは、もう稑のみぞ知る…。




