029 誰に対しても嘘にならないために
詩帆は初めて自身と稑を知る第三の立場の人間から2人の不条理な状態に真っ向からメスを入れられた。その動揺に詩帆は数日経っても囚われ続けていた。
詩帆は新から稑の思いの強さを改めて思い知らされた。しかしその思いが強ければ強いほど、それは詩帆を苦しめた。
(私はちゃんと断った。)
今誰よりも気持ちが不安定になっている詩帆は、ただひたすらにそう言い聞かせ、自身の対応を肯定した。そして感情を殺し自然体を装い何気ない日常を何気ないように過ごしていた。かつて天真爛漫だった幼い詩帆は、どこかでいつの間にか大人になっていた。しかしピアノに対してだけは違った。今唯一本当の自分を曝け出すことができるピアノに、詩帆は思いの丈をぶつけた。そこから奏でられる音色を聴くあゆみは、そんな詩帆がただただいたたまれなかった。あゆみはあの日目を腫らしてランチルームの前を足早に走り去っていった詩帆を目撃していた。詩帆の過去を知り、5年も共に過ごしていながら、その過去には一切触れることができずにただ寄り添うことしかできない自分を、あゆみもずっと責め続けていた。しかしすべてを知るあゆみには、詩帆を思うが故にやはりどうすることもできなかった。
新により尚も固く閉ざされた詩帆の心の扉は一度はこじ開けられようとしたが、結局のところ状況は何も変わらないまま月日だけが流れた。しかしその爪痕がまだ癒えぬうちに、詩帆はまた新たな問題に直面することになった。
"詩帆。今、大丈夫か?"
「うん。車で移動中だけど、大丈夫だよ。どした?」
"あぁ、その…、そっちは何も…、変わりはないか?"
(??)
「え、うん。特に何も。」
視界はそのままを保ち、運転に最新の注意を払いながらBluetoothを介して車のスピーカーから聞こえる章の声に詩帆は応じた。
"そうか。いや、今夜緊急で幹部ミーティングを開くことになった。18時からだが、来られるか?場所は俺のオフィスだ。"
「えっとぉ今が16時半?だから…、うん、大丈夫、全然間に合うよ。え、何、なんかあったの?また予期せぬ案件勃発とか?」
"まぁ…、そんなとこだな。詳細は、またその時に。"
「…了解。」
詩帆はこの時点で嫌な予感がしてならなかった。
"それから……。"
相変わらず歯切れが悪く、言おうか言うまいか決めかねている様子の章を詩帆は堪らず捲し立てた。
「んもぉッ、だからさっきからいったい何なの?!」
"……俺のオフィスに来る時には、出張に備えて2、3泊分準備してきてくれ。"
(え、しゅ、出張?!ちょっともぉ…、いったい何??)
いつもなら本題も簡潔に伝える章だったがその声色や今回はだいぶ出し渋る様子から、詩帆はナーバスな案件であることは間違いないと直感した。
「それって章の分も?」
"いや、詩帆の分だけでいい。"
「分かった。」
"くれぐれも、安全運転でな。"
「ちょっとねぇ、もうすぐゴールド免許暦10年の詩帆様を舐めんな。」
"……。じゃあ、またあとでな。"
電話は切れ、とにかく不自然だった章が気になったが、詩帆は尚も運転に集中し、言われた通り荷造りをするため一旦章の家に向かった。
詩帆はその後18時10分前には章のオフィスに到着した。しかし中に入ると社長椅子にはすでに章が腰掛け、その両脇には誠と蓮、そして要も揃っていた。
「…お待たせ、…しました。」
(く、空気がクッソ重いッ!!)
それは久々に最上級レベルの、詩帆が入室して真っ先に感じた印象だった。
「いや、大丈夫だ。それで、変わりはないか?いや、ないな。」
「は?!もう!さっきからそればっかりッ。いったい何なのよッ?!」
「詩帆、これを見てくれ。」
そう言うと章は手元のスマホを操作し始め、やがて詩帆のスマホのTeamsがメッセージを受信したことを知らせた。詩帆はすぐ様章とのチャットを開いた。するとある記事のURLが届いていた。そしてその下に表示されているタイトルを見た詩帆は思わず固まった。
"魂狼 川名稑 熱愛発覚"
「…ッ!!!」
詩帆はすぐにその記事をタップし開いた。それはその日の16:00に配信された記事だった。
「……ッ!!ななな、なんっじゃこりゃッッッ!!!」
その記事のトップに映し出された写真が目に飛び込んだ瞬間、詩帆は思わず驚愕した。
魂狼を対象としたこういう類の記事はここ久しく取り上げられることはなかった。それはかれこれ5年前のデビューをしたばかりの頃に章に対して中傷紛いな記事を取り上げた組織がやがて様々な業界の人間から社会的制裁を喰らった一件からマスコミが敢えて取り上げてこなかったのか、あるいはその後も続いてはいたものの、章が金でねじ伏せていたのか、それは詩帆の知るところではなかったが、とにかくここまでストレートにターゲットを絞り祭り上げるようなことは、それ以来無いに等しかった。
「でもこういうのってさぁあ、出回る前にお伺いがあるんだよねえ??前にあの人が言ってたじゃん。えっとぉ、確か名前の最初が"じ"で始まってぇ、最後が"ん"で終わる…、うーんとぉ誰だったっけかなぁ。ん、あれ?"じ ん"、あぁこれって誰かさんのお父さんの名前だ。ねぇ、そうだよねえ?章社長。」
誠はそれはそれはまわりくどく章をなじった。
「あぁ、そうだ。だから俺は予め稑に聞いたんだ。」
それは今から2ヶ月ほど前の、まだ稑が章の家で暮らしていた頃、しかしいよいよ引っ越す日が差し迫り、詩帆の自分への気持ちを確かめたくなった稑は直接本人の部屋に突撃した。しかしなぜかそこで章と鉢合わせしたあの時のことだった。
羽織っていたカーディガンのポケットから何枚かの写真を取り出した章は、それを稑に手渡して見せた。
「え…、これ…。」
「あぁ、そうだ。」
それらはあの日の2人、稑と、そして詩帆の写真だった。トップの1枚は、稑と詩帆が向かい合い、片方の手を繋ぎお互いを見つめ合う様子を横から捉えた写真だった。正確にはキャップを深く被り、さらにはその上にすっぽりとフードを被ったその男を稑と断定することはできなかったが、稑は本人だからそれが自分だとすぐに分かった。
"僕は詩帆さんと、いつか本当の家族になりたいって思っているよ?"
それは去年家出した詩帆を見つけ出した時の、あのスカイツリーが見える公園で、ついうっかりと、しかし詩帆にその思いをまさに初めて打ち明けた瞬間だった。稑はその時の空気の温度や湿感、周りの静けさ、さらには少し遠くで大通りを走る車や生活音もまるで昨夜のことのように鮮明に思い起こせた。
「どうして、今さら…。」
しかしもはやその問い自体がもう今さらだった。この界隈で生きているわけでもない前田でさえも、あれだけ敏感に警戒していた。
「その時俺は滝本家の家訓として、お前に責任を負う覚悟はあるかと稑に聞いたんだ。そうしたら稑は、こう答えた。」
「『あります。』僕はそう答えました。」
「へッ?!」
詩帆が驚き声のする方に慌てて振り向くと、そこにはいつの間にか稑も居合わせていた。
「へッ?稑!!あんたいつからいたのッ?!?」
詩帆の声は裏返っていた。しかしすぐ様続けて食いついた。
「あんたねぇ、なんで私抜きで勝手に決めてんのよッ!ってあれ、でもちょっと待って。これって、稑は自分だから分かるけど、やっぱり他の人からしたらこれだけじゃ稑って特定するのは難しいんじゃないの?」
「いや、そのまま下まで読んでみてくれ。」
章に言われその記事を下までスクロールすると、さらに別の写真が何枚か出てきた。それは先ほどの写真の前後の2人の様子で、1枚は稑がスーツケースと、さらに詩帆の手を引きながら歩いている様子、そしてもう1枚は、そこから踵を返し稑がカメラに向かってちょうど背を向けている瞬間の写真だった。その稑が着ているパーカーの背中には、ハッキリと読み取れる数字がプリントされていた。そしてさらにまた別の写真には、魂狼のメンバーたちが全員お揃いのパーカーを手にポーズを取っている様子が写されたものだった。それは蓮から個人的に自身の結婚式の引出物としてメンバーたちに贈った品物をSNSで紹介していた写真だった。パーカーの柄は迷彩とどこにでもありそうなものだったが、その背中には特徴的な数字がプリントされていた。具体的には中央の上の方に蓮と美琴の結婚記念日が、そしてその下にはSoul Wolvesの頭文字をとった"SW"に並んで、02〜05の通し番号がプリントされており、稑はSW05とプリントされたパーカーを持って笑っていた。美琴とのことになるととことんポンコツになる蓮の、メンバーからしたら1ミリも嬉しくないその引出物に稑以外はみんな若干顔が引き攣っていたが、稑だけはそれはそれは嬉しそうに笑っていた。その写真と一致するパーカーを着ている男、つまりこの世に唯一無二であり一点物のパーカーの持ち主、それは即ち稑であることを証明していた。
「……、あんたって、バカなの…?」
「ったく、ほんッとにお前ってヤツはッッ!!」
呆れているのは詩帆だけではなかった。明らかにキレ気味にそう言いながら、蓮はズカズカと稑に歩み寄った。そして正面から思い切り稑の両肩をがっしり握ると言った。
「やっぱりお前は、俺のできた弟だッ。」
「はッ?!え、ちょ、なんかそれ文脈おかしいってッ!!」
詩帆は蓮のそのチグハグな言葉のやりとりに思わずずっこけそうになっていた。しかしそんな詩帆のことはそっちのけで、稑は兄を真っ直ぐに見つめ、その忠誠心を表すかのように力強く答えた。
「ウスッッ。」
「はぁ?!あ、あんたまさかッ、これって確信犯だったってわけッ?!」
詩帆はまるで胸ぐらを掴む勢いで2人を引き剥がし稑に問いただした。
「え………、うん。」
(・・・。)
(いやいやいやいや、)(要)
(それはない。)(章)
(それはないって。)(誠)
(((だってこの稑だぞ?)))(要、章、誠)
ここにいる詩帆以外の人間は皆そう思った。そして今全員がそう思ったことも、空気を通じてお互い察していた。しかし、もう稑がそう言い切った以上、彼を立てるため章たちは誰一人微動だに表情を変えることなくその場をそのまま見守った。すると詩帆はさらに食いついた。
「でもあんたッ、前に自分で言ってたよねぇ?!周りから攻めるのは卑怯だって!」
それは昔詩帆がストーカー被害に巻き込まれかけた時に稑が言った言葉だった。しかし稑はあっさりとそれを否定した。
「いや、ぼくは周りから攻めてないです。本人から攻めてます。」
(ッ!!ぐぬぬ……ッッッ!!!)
それは確かにそうだった。稑は真っ向からアプローチを始める前に、ちゃんと詩帆に直接その気持ちを伝えていた。そんな稑に、詩帆はもはや何も言い返すことができなかった。
「でも…、でも何で、お伺いしたのは稑だけで、私には何も聞いてくれなかったの…?」
ここまで来るともう力なく、そして稑にこれ以上何を言っても解決しないと判断した詩帆は、若干切実に、今度は章にそう問いただした。すると章はそんな詩帆の目を真っ直ぐに見つめ、そして言った。
「それは稑が…、俺が稑の言ったことが最もだと思ったからだ。」
「稑が??」
「あぁ。」
するとみんなの視線は自然と稑に集まった。稑は尚も毅然としていた。そしてゆっくりと慎重に言葉を選びながら、話し始めた。
「僕はこの先も、詩帆さんのことで身を引くつもりはありません。なので、いずれこうなることは時間の問題だと思っていました。でも、僕にとっては至って真面目なことなのに、コソコソするのは嫌だと思いました。僕はこの世に人工的に偶像化されたアイドルではありません。魂狼の1メンバーでありながら、あくまで一人の人間をありのまま生きて、惹かれた人に恋をし、ただその人を振り向かせたくて必死になる、そんな極々普通の男です。そして僕はそんな当たり前のことを常に堂々と体現し続けてきた蓮をずっと傍で見てきた。僕はこの先も、詩帆さんが困っていたら真っ先に駆けつけたいし、必要なら傍で寄り添っていたい。僕にとっても、一番大切な人を大切にできなければ、それはこの先僕がファンのことをどんなに大切だと言っても、それ自体が嘘になります。僕の行動や、僕の言葉が、誰に対しても嘘にならないために、詩帆さんに対しても、ファンに対しても、僕も誠実でありたい。なので、これが報道に取り上げられた時には、僕の口から説明する機会をいただきたかったんです。」
オフィスの中は静まり返った。すると蓮が再び稑に歩み寄った。そして今度はがっしり稑と肩を組み言った。
「稑、やっぱりお前は、俺のできた最ッ高の弟だッ。」
「……うす。」
今度は照れも隠しながら小さく控えめに、でもやはり堂々と、心から稑はそう答えた。蓮は章の方に向き直り言った。
「じゃあ俺は、今後の対応を他のメンバーたちと共有しておきます。」
章は黙って頷いた。すると蓮はペコッと頭を下げ、ひと足先にそのオフィスを後にした。その場は再び沈黙になった。すると今度はそこを章が取りまとめた。
「というわけで、詩帆は美帆さんから帰宅命令が出ている。だから今夜は実家に戻ってくれ。」
「…あぁ、それで出張…。」
詩帆はもはや掠れる声で言った。
「そりゃそうだよね。突然娘がこんな目に合わされたら、さすがに親も黙ってないよね。」
「ん?まぁ…、そうだな。」
当てつけるようにぼそっと呟いた詩帆に章は一瞬戸惑うも、そんな詩帆に対し心苦しいといった素振りは微塵もなく、しかし今さらと言わんばかりに何も言い返さなかった。詩帆はペコッと蓮よりは深くお辞儀をすると、もう誰とも、そしてすれ違う際には稑とも目を合わさず、スーツケースをコロコロと引きながら一人オフィスを出ていった。




