028 稑だから
詩帆と新の荒野の睨み合いは尚も続いていた。しかしそんな芝居じみたことを先に終わらせたのは新だった。新はふっと肩の力を抜き、いつものトレードマークのパチッと開いた目とキュッと口角を結んだ笑顔を解くと、リラックスを心掛けた口調で話し始めた。
「詩帆さん、ちょっと…、話そ?」
「……。」
(やっぱり新だったんだ。)
詩帆は悟り、そして小さく頷いた。
その部屋はグランドピアノがギリギリ収まり、あとは音の収録や編集をするための機材が乗っているデスクが一台置いてあるくらいの小さな部屋だった。詩帆はグランドピアノの奥にあるピアノ椅子に、新は入り口付近のデスクの椅子にそれぞれ腰掛けた。詩帆からは新の横顔の、鼻から上辺りがギリギリ見える程度だった。
それからしばらく沈黙が続いたが、八方塞がりの詩帆を案じた新が正面の壁を向いたまま再び切り出した。
「先に言っておくけど、稑は昨日の夜のこと、何も気付いてないみたいだよ。だから、変に避けたりはしないでね。」
そう言うと新はちらっと詩帆の方を向いた。それは新にとっても同じく大切な弟である稑を思うが故の、珍しく鋭さのある声と眼差しだった。
「まぁ、どういう状況であぁなったかまでは聞かないけど。」
そう言い正面に向き直ると、今度は一変してデスクに肘をつき、顎をその手で支えやや上を見ながらいつもの半分おちゃらけた口調で続けた。
「あとこれも安心して。ヨダレは垂らしてなかったよ、少なくとも僕たちが発見した時は。」
「"たち"ッッッ?!?」
「イエスッ。」
新はそう言うと先ほど肘をついていた腕を急に真っ直ぐ上に伸ばし、ガッチリとグッジョブのジェスチャーをしてみせた。それを見た詩帆は思い切り仰向けになり椅子の背もたれに寄り掛かり項垂れた。
「大丈夫。もう今さら誰も驚かないよ。」
再び優しい口調でそう言った新を、咄嗟に頭を起こした詩帆は"はッ?!何それッ!?"っと言わんばかりの顔で睨んだ。新はそんな詩帆にクスッと笑った。それから一旦は沈黙になるも、再び新から話し始めた。
「あのさぁ…。」
新は独り言のように呟いた。
「本当はもう、気付いてるんでしょ?自分の気持ちに。」
「……。」
そこにはいつもの陽気なシャキシャキ兄さんとは違い、極普通の男の子がいた。しかし詩帆は依然として身構えたままだった。
「ねぇ、どうしてそんなに稑のこと拒むの?無意識の詩帆さんはあんなに無防備に、まるで自分のすべてを預けるかのように身を委ねて…。それがもう彼に対する答えのすべてなんじゃないの?」
詩帆は思わず両手で思い切り自分の顔を覆った。詩帆は未だに自分でも昨夜の自身の態度に困惑していた。もうどう答えたらいいのかも全く分からなかったが、それでもとにかく否定をしなければならないといつものようにありきたりな答えを呟いた。
「稑は…、まだまだこの先、」
すると新はそれを遮って続けた。
「詩帆さんは?『今』の詩帆さんの、『今』の稑に対する気持ちはどうなの?だって詩帆さん、そもそも稑じゃなかったらこういうの警戒してたでしょ?誠さんにそうだったみたいに。稑だからあんな安心できたんでしょ?」
「……、それとこれとは違う。」
「へ?何が?どういうこと?あんなに真っ直ぐで優しい子の、一体どこが不満なの??」
はぐらかす詩帆に、新はだんだん苛立ちが抑えきれなくなっていた。
「稑は何も悪くないッ。これは私の問題なの。」
「もしかして、まだ稜太さんのことが好きなの?」
新は絶対に口にしてはいけない、しかし今これ以外に聞くことはない質問を詩帆にぶつけた。案の定、詩帆の声色は変わった。
「……は?なんで新まで稜太のこと知ってんの?まさか…、稑が新にしゃべったの?!」
「違いますッッッ。」
怒鳴るようにそう答えるのと同時に新は思わずその場に立ち上がった。室内にはピリッとした今日一番の鋭い声が響き、いよいよ怒りが露わになった新は被るように詩帆のその問いを否定した。そしてじわじわと詩帆に歩みを進めながら続けた。
「あなたですよッ。あなたが、あの日、初の東京ドーム公演を終え章さんちで打ち上げをした日の夜、ソファで酔い潰れたあなたを僕と稑とで部屋まで運んだ。そして公演中に人目を憚らずに泣いていた詩帆さんを目撃した稑は、ただただ心配そうに、ベッドで休む詩帆さんの頭を撫でてた。すると詩帆さんは…、稑のその手を頬に抱き寄せて、ひと言、"稜太…"って、そう囁いたんだ…。」
新はその時の稑のショックを再び思い出すと思わず感情が移入し過ぎて、悲痛な表情と共に言葉が詰まった。一方その事実を知った詩帆は絶句していた。詩帆は稑が稜太のことを知った経緯までは詳しく聞いていなかった。
「それから稜太さんのことを知った稑は、その時にはすでに詩帆さんに思いを寄せていた稑は、迷いながらも自分を信じて、詩帆さんが何とか安らげるようにと、誰よりも自分が詩帆さんの支えになろうと、これまでやれることみんッなやって来たんだッ。それなのに詩帆さんは、ずっと頑なに拒み続けて…、そんなに稑のことが信用できない?」
詩帆の涙腺は、昨夜の時点ですでに崩壊していた。これまでに見たことのない剣幕で、稑を家族同然と思うが故に切実に訴える新の姿に、そしてそんな思いで一つひとつ自分に接してきてくれた稑のこれまでのあれやこれやを、あの日あの公園で、実は稜太に手を合わせてくれていた稑の姿を振り返り改めてその思いを知れば知るほど、詩帆は涙が止まらなかった。
「……稑は、何も悪くない…。悪いのは私…。私がただただ、不甲斐ないから…。」
新はまさか詩帆が泣くとは思っていなかった。しかしここまで来て一歩も引く気はなかった。
「ねぇ、それってほんとに気にすること?実は詩帆さんが一人で考え込んでるだけでさ、そう大したことじゃないんじゃないの??」
すると今度は詩帆もその場に立ち上がり叫ぶように言い返した。
「新には分かんないよッ!!」
詩帆は尚も涙を流しながら、新を睨むように見つめそして続けた。
「分かるわけないッ……、こんな気持ち…。…分かられてたまるかッ。」
尋常ではない詩帆の様子に熱は冷め、新は冷静さを取り戻した。しかし尚も引く気はなかった。
「うん、僕には分からない。でもこれだけは分かる。今のままじゃ詩帆さん、いつか絶対に後悔するよ。」
すると新の声は、また穏やかな口調に変わった。
「あんなに食い意地丸出しで、でもなんだかんだで楽しい食卓が囲めるのも、あんなに安心し切った寝顔で、全身を預けることができるのも、誰の前でもあんな自分、晒せるもんじゃない。」
新は尚も諭すように、切なげに続けた。
「稑だからなんだよ?稑だからなんだ、今の詩帆さんが、あんな詩帆さんでいられるのは…。」
新は昨日のたった1日だけでも、やはり2人の間に例えようのない見えない絆を確かに感じていた。
"私も寂しい。私は1人じゃないけど…、でも、やっぱり稑がいないのは寂しい、寂しいよ…。"
一方詩帆も、離れて気付いた今の自分の気持ちをもうハッキリと認識していた。しかしどうしても詩帆は首を縦に振ることはできなかった。詩帆の脳裏には、昨夜ソファで何度強く揺すっても、何度名前を呼びかけてもびくともしない稑の姿が鮮明に思い出されていた。
「ごめん…。」
詩帆は力なくピアノ椅子に崩れ落ちると、かすかに聞こえる声でそう呟いた。
「ううん、僕の方こそごめん…。」
さすがにここが潮時だと新も察した。
「章さんからは"お手柔らかに"って連絡が来てたけど、でも僕は稑の幸せを誰よりも願ってる、だから今日は言わせてもらいました。"たまごにいさん"の件はとりあえず僕からアプローチしてみるよ、多分その方がスムーズに行きそうだし。進捗状況はまた連絡するね、だから今日は、もうゆっくり休んで。」
憔悴し切った詩帆は、ただこくんと小さく頷いた。それを見届けると、新はボイトレ室を後にした。詩帆はピアノ椅子に腰掛けたまま、滲んだ視界の中ただ一点をぼぉっと見つめていた。しかし嫌でも思い起こされる、昨夜の震える手と、おかしくなりそうな呼吸の記憶を掻き消すために、詩帆は自身の両の腕を抱きしめるように力強くギュッと握りしめ一人俯いた。
閑話
その日の午後、メンバーたちは再びダンススタジオに集まった。新は稑を見つけるとすぐさま駆け寄り跪くと、稑に抱きつきズボンに顔を埋めた。まるで何かに怯えているようで、身体はぶるぶると震えていた。
(稑ごめんごめんごめんごめん僕詩帆さん泣かせた詩帆さん泣かせちゃった稑の大切な人なのに、稑のこと大切だから泣かせちゃったごめんごめんごめんごめん、以下無限 Loop)
「え、新はいったいどうしちゃったの??」(優)
「…、さぁ。」(勇)
2人は稑を見つめるも、稑も"何やらさっぱり"といった顔をしていた。
しばらく様子を見るも変わらない状況に、稑は何も言わず、ただそっと新の頭を撫でた。すると、新の震えは次第に治まりやがて強張った顔も安らぎの表情に変わっていった。
「おおおぉ、泣く子も黙らせるGod Hand!」(勇)
「んー、惜しいッ!!言いたいことは分かるけど、ニュアンスがちょっと違う!!」(優)
「えぇ?やっぱ日本語ムズいな。」(勇)
「ドンマイッ!!」(優)
(やっぱ何かあったな。)
一方蓮の憶測は確信へと変わった。




