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今ここであなたと出会えたことは 本当の家族編  作者: 安田 木の葉
最終章

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026 一人じゃないけど

 それから各々の時間を過ごし、時刻はまもなく22時を迎えようとしていた。稑はピアノ室で1人悶々としていた。


"しんどいな…

しんどいなったらしんどいな

あぁしんどいな…"


 稑はそんな季語も情景もまるでない俳句擬きを心の中で何度も唱えながら、ソファの上に体育座りをし、膝に顔を埋め尚も打ちひしがれていた。


(そろそろ光君は詩帆さんの部屋に行くのかな…。)


 夕食後に光がリビングを去る時、2人はそんな約束をしているのが稑には聞こえていた。齢9才の少年相手に、稑はガチでジェラシーが剥き出しになっていた。それ故理性がコントロールできなかったがためにいつもなら率先して手伝うはずの洗い物をスルーしてしまったことに対しても、稑は後悔の念に駆られていた。


(全く、大人気ないな…。詩帆さんは別に何も悪くないのに。それにあのミートボールだって…。)


 静まり返ったその部屋で、稑は音も視界も一切をシャットアウトしてこれでもかと言わんばかりに小さく縮こまった。




「…く?!稑!!」


 どうやら稑はそのまま寝てしまったようだった。ゆさゆさと片方の腕を強く握られ大きく揺さぶられながら何度も呼ばれる自身の名前に気付き、稑は重たい瞼をゆっくりと開いた。


(あぁ…、そっか…。やっと明ちゃんが寝たんだね。)

「お疲れ様、新…。」


 そう言いながらまだもわんとする視界のまま顔を上げると、そこにはまるでカマキリのような大きな目玉でギョロリとこちらを覗き込み凝視する詩帆がいた。


「……?!?え?!詩帆さんッ?!?え??あれ!?」


 ついに幻覚まで見るようになってしまったのかと自身を疑うも掴まれた腕はリアルに痛くて、稑は一瞬で目が覚めた。しかしその喜びも束の間、実はさらに新もいるのではないかと慌てて周りをキョロキョロと見渡したが、どうやら今ここにいるのは詩帆だけのようだった。詩帆は掴んでいた腕を離すとまるで脱力したかのようにドサッと稑の隣りに腰掛けた。詩帆も詩帆で、なぜか少し放心状態のままただぼぉっと前を見つめていた。


「詩帆さん…?」

「えッ?あ、うん。」

「あれ、光君は…?」


 時計を見ると、実はあれからまだ10分ほどしか経っていなかった。


「あぁ、なんかね、私の部屋に来たら3分で帰ってった。やっぱり自分の部屋が一番落ち着くって。」


 稑は全く予想もしていなかった結果に驚くのと同時に光が詩帆の部屋に入ってから帰る決断に至るまでの思考が手に取るように伺え急に笑いが込み上げてきた。


「は?何そのリアクション。感じワル。」

「や、ごめんッ、ちょっとッ。」


 稑は尚も笑いを必死に堪えていた。しかし今日ほど詩帆がガサツでヅボラな性格であることが良かったと思えた日はなかった。そしてそのおかげで今日ここで詩帆との時間を過ごせることになるなんて、稑は考えただけでそのままロケットの如く天窓を突き破って飛んでいってしまいそうな気分だった。しかしそんなことになってはとても勿体ないと、稑はすぐに平常心を取り戻した。そんな稑の心情など露知らず、詩帆は己を振り返り言った。


「でもさすがにちょっと改めるかぁ、家長もうるさいしなぁー。」

「いや、詩帆さんはこのままでいてよ。お願い。」

「……。」


 冗談ぽく言ったその言葉に対し、稑は思いの外真剣な眼差しで返した。そんな稑に詩帆は少し困惑してしまった。しかし自分の音楽を必要としてくれたり、思わず人が引くような短所もそのままで良いと言ってくれる稑に、昼間はハッキリと気付かなかった胸の奥が少しだけほわっとする感覚を、今度はハッキリと認識した。


(あれ、まただ。………。)


 しかし詩帆はその感覚は敢えて深掘りせずに続けた。


「稑って寛容だよね。」

「寛容?え、そうかな。」


 稑はきょとんとしていた。


「まぁ、寛容な人が自分のこと、"寛容です"なんて言わないか。うん、稑もどうか、そのままでいてください。」


 そう言いながら詩帆はペコッと頭を下げた。


「??…うん。」


 そうは答えても、稑はそのために今後も自分が心掛けるポイントは何なのか、やはりよく分かっていないようだった。そんな稑に詩帆はクスッと笑った。


「一人暮らしはどう?もう慣れた?」


 詩帆はその流れのまま世間話を始めた。


「いや、あんな大口叩いてたけど、意外としんどい。やっぱりここが快適過ぎた。世の一人暮らしをしている人たちを尊敬する。そのひと言に尽きる。」

「ハハハッ、やっぱりそうだよねぇ、ここはもう天国だよねぇ。でも稑はちょっと生真面目過ぎるところがあるから、もう少しいろいろ手を抜いても全然大丈夫だよ。私ぐらいヅボラに…は、ちょっと言い過ぎだけど。」

「うん、参考にする。」


 気付けばそこにはまだ一緒に住んでいた頃の、ここでよく2人で過ごしていた和やかな時間が甦っていた。その流れに乗り、さらに詩帆は続けた。


「……。」


 しかし、言葉が思うように出てこなかった。


(ん!なんで?!なんで続かないの?!伝えたいことは山ほどあるのに!おかしい!とっかかりがいまいち掴めんッ!!)


"ありがとう"

"ごめんね"

"嬉しかった"


 極月並みなそれらの言葉はもう喉まで出かかっているのに、途端に詩帆は黙り込んでしまった。するとそんな詩帆の心情を知らない稑が続けた。


「それにね、一人暮らしはやっぱり寂しい。寂しいよ。」


 ぼそっと呟くように言ったその声は、先ほどまで温かく感じられたその部屋を一瞬でひんやりとした空気に変えた。詩帆にはそう感じられた。


(詩帆さんがいないのは、やっぱり寂しい。)


 稑からはひしひしと言いようのない寂しさが伝わってきた。すると詩帆は、またいつもの如く反射的に答えていた。


「よしッ!じゃあ今日はもう一曲、稑のために何か弾いてあげるッ。」

「え…。」

「何かリクエストしてッ。」

「でも…、詩帆さん疲れてるでしょ…?…ほんとに、いいの?」

「うん、私は大丈夫だよ!ほら、何がいい?」


 すると稑の顔はみるみると明るくなった。


「じゃあ、去年の紅白で歌った曲の、ピアノバージョンをお願いしますッ。」


 あまりにもあっさりと、もう予めそう答えることを決めていたかのように稑が即答したので詩帆は少し驚いてしまった。しかしポップな曲調がピアノによってバラードにアレンジされたその曲は、この寝静まる夜にまるで子守唄のような選曲で、詩帆の目も稑と同じようにキラキラと輝き出した。


「おっけぇーッ。」


 そう言うと詩帆は素早くピアノの方へ移動し、その僅かすぐ後には指は鍵盤を捉えていた。そしてこの時にはすでに、その眼差しには魂を注ぐ気迫が感じられた。詩帆はこの切り替えが本当に早かった。やがて耳に届くその旋律は、好きで好きで好きで仕方がない人へ伝え切れない想いをストレートに綴った、究極のラブソングだった。


 詩帆は心を込めて弾いていた。それは彼女にとって他意はなく、詩帆がピアニストだから、それが彼女の使命だから、稑にはそんなことは分かっていた。しかしその詩帆の生演奏を独り占めできる喜びに、稑は瞳を閉じ酔いしれた。


(伝われ…、この想い……。)


 稑は声に出して歌いこそしなかったが、その歌詞の一言ひと言を自分の思いに置き換えそして祈った。




「稑…?おーい。もう…、自分からリクエストしたくせにどこまで聴いてたんかぁーい。」


 腕を組み肘掛けに頭を預け完全に寝落ちしている稑に向かって、詩帆は若干おちょくるように言った。


「稑…?」


 詩帆は改めてそっと名前を呼んでみた。そして自分の膝に手を乗せ前かがみになりながら、本当に稑が寝ているかをしばらく観察していた。そしてようやく納得すると、詩帆はそのまま床にペタリと座り込んだ。


「稑の方が、よっぽど疲れてるのに…。」


 詩帆は尚も稑を見つめ、そして彼の身を案じた。稑は4月から一人暮らしを始め、同じ月に始動した新プロジェクトにもほぼ主軸で関わっていた。そして本来の活動のペースも落とすどころか加速し、8月には勇がニッジと交わした約束をついに果たすべく、いよいよあのアメリカの歴史ある野外フェスに単独ライブで初参戦することが決まっており、それに向けて入念な準備が進められていた。そしてその渡米を気に彼らはそのまま2ヶ月を掛けてアメリカの主要都市をツアーでハシゴする。稑はこの期間をさらに有意義なものにするために、隙間時間があれば英会話の向上に勤しんでいた。そして帰国後はすぐに国内でただいまファンミーティングを開催し、気付けばまた年内最大の過渡期である年末を迎える。当然その間にも新曲をリリースするため歌詞やパート割り、振付、フォーメーションも次々と頭に叩き込み、収録、発表、宣伝、プレス対応、メディア出演と予定はすでに目白押し、好きでやっていることではあるにしても、下手をすると当人まで少し怖気付いてしまうような、稑にはそんな過酷なスケジュールが待ち構えていた。


(今日はそんなタイトな合間を縫って来てくれたのに、それなのにあんな態度取っちゃって…、ごめん…。本当は、すごく嬉しかったよ、ありがとう、稑…。)


「稑…。」


 詩帆は再び名前を呼んだ。


「稑の運転する車、乗りたかったな…。」


 そう言いながら、寝ている稑の頭をそっと撫でた。昔は事ある度によくふざけて頭をくしゃくしゃにしたりしていた稑に自分から触れたのは本当に久しぶりだった。見た目よりも柔らかい髪質がとても懐かしく感じられる一方で、今となってはもう別の人みたいに新鮮にも思えた。


"一人は、寂しいわよ?"


 詩帆は甦る篠山の言葉に首を横に振った。


「うんん、私もね、寂しいよ。私は一人じゃないけど、それでもやっぱり寂しい。稑がいないのは、寂しいよ…。」


 そう言うと、詩帆の目にはうっすら涙が滲んできた。それに気付いた詩帆は慌ててソファで寝ている稑の手前の空いたスペースに、組んだ両腕を乗せると思い切り突っ伏した。


(……。新が来るまで、あと少しだけ、ここにいてもいいよね…。)


 詩帆も詩帆で今日1日全力を出し切り残っている体力は残り僅かだった。うっかり目を閉じれば、詩帆もそのまま眠ってしまいそうだった。しかし詩帆は、もしかしたらもう二度とやって来ないかもしれないこの穏やかな時間を全身で噛み締めていた。

 すると突然、ぽんっと詩帆の頭の上に何かが乗っかった。詩帆の身体はビクッと強張り、一瞬で眠気が吹き飛んだ。そして全神経が頭に集中した。それは決して重くはなく、その接し方には優しい温もりが感じられた。そしてそれはやがて詩帆の頭を撫で、それは稑の手であることに気付いた。詩帆の涙はピタリと止まった。そして恐る恐る顔を上げ稑の方に視線を移した。稑もやはり詩帆の顔を見つめていた。


「稑……?」

(え…、起きてたの?え、うそ。どっから聞いてた…?!)


 詩帆はもはやパニックになっていた。しかし身体はまるで金縛りにでもあったかのように固まっていた。一方稑はと言うと、詩帆とは全く異なり動揺するそぶりもなくただ穏やかにぼぉっと詩帆を見つめていた。言ってしまえば起きているのかいないのか、見た限りではハッキリと分からなかった。詩帆は固まったまま、次の出方に思考を全振りした。地雷を踏めば、詰む。そう思うとどうすれば良いのか分からなかったし、どうすることもできなかった。それは恐らくものの5秒くらいだっただろう。しかし詩帆にはその時間が果てしなく長く感じられた。しかし次の瞬間だった。稑はそのまま少し身体を起こすとなんの躊躇いもなくまるで父親が子どもを抱き上げるように詩帆の両脇に自分の手をすっと挟み込むと、そのままふわりと持ち上げ一気に自分の方へと抱き寄せた。そしてまたいつかのように両の腕と足とでガッチリと詩帆をホールドした。詩帆は気付くとまるで飼い主に愛でられる犬のようになっていた。






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