021 人生で必ず出会うことが決まっている人
このひと月も目まぐるしく過ぎていった3月最後の月曜日、この日も慌ただしい1日を終え、日頃の音楽に関する活動の時とはまた少し違った疲労感が否めない稑だったが、そんな状況でありながらも今日のメインの目的はまだ果たしていないと、ピアノ室のソファに落ち着かない面持ちで1人腰掛けていた。稑にとっては、いよいよ章の家で過ごす最後の夜だった。
稑と詩帆は、結局あれから何も進展はなかった。稑はとても焦っていた。するとしばらくして、詩帆がピアノ室にやって来た。
「よッ。メール…、見た。」
「うん。」
稑は夕食の後部屋に戻ると、ひと段落したらピアノ室に来てほしいと詩帆にメールを送っていた。今日は1日稑の引越し作業や部屋の掃除に付きっ切りだった詩帆は、夕食の後に風呂も済ませ、元々ほぼすっぴんの顔はあまり変わりなかったが、服装はすでに部屋着に着替えていた。
わざわざ改まったメールを受け取った詩帆はピアノ室に入ってくるも若干身構える素振りを見せ、意図してソファには座らず部屋の中央に鎮座しているいつものグランドピアノの椅子に腰掛けた。その後詩帆から何か発せられることはなく、その場には奇妙な沈黙が生まれた。すると稑は突然堰を切ったかのようにその場に立ち上がり、そして言った。
「詩帆さんて、やっぱり僕のこと好きだよね?!」
「はあ?!」
あまりにも唐突な発言に詩帆の声は思わず裏返ったが、何とか平静を心掛けながら言った。
「あのねぇ稑、前にも言ったけど、私は恋だの何だのはよく分からないし、そもそも興味もないし、もし私が稑を好きだとしたら、それはもう家族としてだよ。」
"じゃあ、本当の家族になろうよ!僕たちッ。"
思わず勢いに身を任せ稑はそう叫びそうになったが、2人の思いは根本からズレていることは稑にも明白だった。
(鉄壁だ…。もう、到底及ばない…、越えられる気がしない…。)
稑はもはやお手上げだった。そのまま力なくソファに座り込むと、詩帆は言った。
「稑…?今日はさ、稑と過ごす最後の夜だから、思い出に一曲贈るよ。なのでリクエストがあれば、何なりとどうぞ。」
「…。最後の夜とか、言わないで。」
「だってぇ、今日で終わりだもん、稑との共同生活は。」
終始鉄壁、挙げ句フルメタルな上に容赦のない言葉のナイフ、でも詩帆の弾くピアノはそんな詩帆とはまるで違う。それを知っている稑には、すぐに思い浮かぶ曲があった。
「じゃあ…、僕がここで詩帆さんのピアノを初めて聴いた曲、もしかしたらそれが、詩帆さんを好きになるきっかけになったかもしれない曲。それをお願いします。」
「え〜、えっとぉ、何だったっけ?」
詩帆はあっけらかんと言ってのけた。
「…!!!」
稑は思わずソファからずり落ちそうになった。
「嘘ウソッ、ハハハッ。ちゃんと覚えてますよ、これでしょ?」
そう言うと詩帆はあの時と同じように間髪入れず、まるで魔法のように10本の指先から目の前のピアノに命を吹き込んだ。アップテンポでキラキラワクワクするような、それでいて控えめな出だしからやがて一気にボルテージを上げつつ再び瞬間的に伴奏にまわり、そして稑に歌うよう合図を送った。当時はまだ中学一年生だった稑の合唱コンクールの自由曲『涙をこえて』、稑はまだその曲の歌詞を覚えていた。そしてハイハイと言わんばかりに重たそうに腰を上げると、しかしながら満更でもなくその気になり歌いながら詩帆の弾くピアノへと足を進めた。やがてピアノにたどり着くとその屋根に肘を乗せ寄り掛かり、リズムに合わせて首を揺らしながら尚も歌った。その頃には詩帆も一緒に歌っていた。
(やっぱり詩帆さんのピアノってすごいな。沈んだ気持ちもしっかりとすくい上げてくれる。ほんとに…、敵わないな。)
同じ音楽を仕事とする立場の人間として、稑はリスペクトを込めて詩帆を見つめた。やがてその曲が弾き終わると、途端にピアノ室は静寂に包まれた。しばらく沈黙が続くと、まるでその気まずさをかき消すように詩帆が話し出した。
「もう荷造りは完璧?」
「うん、元々私物も少ないし。」
「そうね。あんたのそういう物の管理、ほんっとにしっかりしてるよね。私も見習いたい。」
「だよね。」
稑は少し笑いを堪えて言った。
「え?」
「いや、何でもない。」
するとまた沈黙になってしまった。稑と2人でこのピアノ室にいることは同居生活中も幾度とあり、その時もこんな沈黙はざらにあったはずなのに、詩帆は先ほどからずっと落ち着きがない様子だった。
「ちゃんと食事取るんだよ。」
「大丈夫だよ。昔は自炊してたし、料理人の新んちも近くなるしね。それにランチルームではこれからもあゆみさんのご飯食べれるから。」
「うん、そうだね。戸締まりも、しっかりしてね。」
「それも大丈夫だよ。あのマンションはセキュリティは万全だし、高層階だからベランダから人が入ってくることもないよ。」
「…、そうね。」
「なんかさっきから詩帆さん、僕の母さんよりもお母さんみたいなこと言ってる。心配?」
「そりゃあね!親元離れても、これまではずっと誰かしらが傍にいたし、そういう意味ではこれからは本当に1人で生活していくことになるわけだし。」
「だったら詩帆さんが一緒について来てくれてもいいんだよ?僕は。」
「残念ながら、マネージャーはそこまでする義務はありません。」
「……。」
(…やっぱり鉄壁だ。)
稑はやはりお手上げだった。その場であからさまに脱力すると、くるりと反転し屋根に大きくそり返って天を仰ぎ、それから稑はゆっくりと身体を起こした。すると目の前の本棚の中央に、これまでずっと大切そうに飾られていたあるものに目が止まった。
「詩帆さん、もう一曲、リクエストしてもいい…?」
「うん、もちろん!」
そう答えた詩帆には、この微妙な沈黙から解放される事由ができたことに心なしか少し安堵しているような心情が伺えた。すると稑はその本棚の手前にある2段ほどの階段をゆっくりと上り、そして本棚まで歩み寄ると、中央に大切そうにブックスタンドに立て掛けられている一冊の楽譜を手に取り、その表紙をじっと見つめていた。
「それは…。」
『The End』、詩帆が17才の時に岡崎の家で聞き衝撃を受けた曲、かつて生きる屍にまで落ちた詩帆を再生へと導くきっかけとなった曲のピアノ譜だった。詩帆は思わずその場に立ち上がった。そして詩帆も階段の手前まで足を運び、下からその楽譜を見つめた。稑は階段を降り、そんな詩帆に歩み寄ると、そっとその楽譜を詩帆に渡した。詩帆はその楽譜を受け取ると、やはりそれをしみじみと見つめていた。そしてゆっくりと1頁目を捲った。表紙の裏の下の方には、"From Akira"と筆記体で書かれていた。そして譜面には、赤いペンで修正やら何やらがこれでもかと言わんばかりにビッシリと書き込まれていた。
「これは…、ある映画の最後に流れる曲でね、元々ピアノ譜は存在しないの。この曲は、私にもう一度生きる命を吹き返す力を与えてくれて、譜面が読めない私が本気で音大に行きたいって言ったら、章が書き上げてくれて…。」
「うん…。」
稑はこの曲を以前詩帆がここで弾いているのをピアノ室のドア越しに聴いたことがあった。それがどんな意味を持つ曲なのかを稑がすでに知っていることを、詩帆は未だ知らないままだった。
「私はどうしても楽譜なんて無視して感覚で弾いちゃう癖があったから、同じ曲を弾いているようでも、毎回少しずつ少しずつ違って、その時の気分で弾いちゃうんだよね。でも、そういうアドリブは許されないところもあるから、とにかく章は、楽譜に忠実に弾くことを徹底的に叩き込んでくれたの。」
「うん…。」
「"また違う!そう弾くなら譜面はこう!"って、何度も何度も書き直して、書き足して、でもそうやって、段々と私の頭の中の音と音符が繋がっていって、ようやく理解できるようになって。」
「うん…。」
「あの人は本当にストイックで、母親もサジ投げたのに、章は最後の最後まで、下手したら私より諦めないで付き添ってくれた。」
「"出来るか出来ないかじゃない、出来るために今何をすべきかで悩め。"でしょ?」
「そう!それ!」
「それは今僕にとっても名言だから。」
「ふふふ。」
詩帆はそれを聞くと優しく笑った。
「章がいなかったら、今の私は間違いなく存在していない。」
「それは僕も同じだよ。」
「うん。そんなふうにね、」
そう言いながら詩帆はその楽譜を閉じ胸に抱きしめながら続けた。
「そんなふうに、人には、人生で必ず出会うことが決まっている人が、何人かいるの。」
「うん。」
「章も、あゆみちゃんも、稜太も…、岡崎先生もそう。それに…、稑も。」
そう言うと詩帆は顔を上げ稑を見つめた。
「稑もね、間違いなく、私の人生で必ず出会う人の1人だよ。稑と出会わなかったら、やっぱり今の私はいない…。」
すると稑の顔がみるみる明るくなったが、それを遮るように詩帆は続けた。
「でもね、やっぱり私は稑と同じ"好き"にはなれないよ。それはやっぱり…、違うんだ。」
そう言った詩帆はやんわりと微笑むも、限りなく申し訳なさそうに、そして刹那げにまた俯いた。
「だから…、ごめんね…。」
これまで稑は詩帆に度々アプローチをするも、何度も軽くあしらわれ、誤魔化されてきた。しかしこの時の詩帆の言葉は紛れもなく、誠意のこもった謝罪だった。
「涙をこえて」(1969)シング・アウト




