018 出張演奏 - 笑顔 -
3月。
ついに、稑が章の家から巣立つ時が来た。しかしその前に高校の卒業式を控えていたが、さらにその前に、いよいよ運転免許取得のための最後にして最大の難関である本免学科試験を迎えようとしていた。しかしその当日、稑は試験会場に向かう前にとある病院へと足を運んでいた。そこはその日詩帆の出張演奏が行われることになっている場所だった。
それは稑が予約した試験日の1週間ほど前、詩帆と稑が久々にピアノ室で各々の時間を過ごしている時のことだった。
「ねぇ稑、この免許の本試験て…、受付が11時からなの…?」
詩帆が手元で稑のスケジュールを確認しながら、珍しくよそよそしい感じで稑に話しかけた。
「ん?えっと、確かそうだよ。なんで?」
「そっかぁ。じゃあ…、ちょっと難しいかなぁ…。」
「え、何が?」
「うん、その日ね、私の出張演奏先でちょっとした企画があって、稑にも是非来てもらいたいなぁって思ってたんだ。でも、本試験の日と重なっちゃったら、もう無理かな…。」
「え、僕も行っていいの?じゃあ行くよ!場所はどこなの?」
「え…、うんとね…、昭和中央病院。」
「え…。」
そこは詩帆にとって、生きている間一生消えることはない悲しみに触れた場所、しかし再生のきっかけとなった場所でもあった。そして今そこは稑にとってももう他とは違う特別な場所になっていた。
「うん、行く。」
「へ?でも試験は…?」
「大丈夫。何とかするし、何とかなる。」
「え、でも…。」
そうは言いながらも、この度の件に関しては珍しく引かない詩帆がいた。
「うん。じゃあ…、何とかなったらで大丈夫だから、もし何とかなったら…!」
「わかった。」
そして稑は本当に何とかした、心強い兄を頼って。
「はぁーい到着しましたぁ。」
「うん、ありがとう。」
病院の駐車場に着くと、稑は逸る気持ちを抑えシートベルトを外すとすぐさま車から降りた。しかし運転席に座っている新は一向に車から降りようとはしなかった。
「あれ?新は行かないの?」
「うん。僕はこの近くでちょこっと用事を済ませてまた戻ってくるから、演奏会には稑1人で行って来てよ。」
「え…、そうなんだ。うん、わかった。」
「じゃ、楽しんできてねッ。」
そう言うと新はゆっくりと駐車場を抜けそのまま通りに出ていってしまった。
(用事って何だろう…。)
そう思いながらも、稑はすぐに踵を返し会場のエントランスへと向かった。
(そりゃあね〜、僕はまだ一度も詩帆さんのピアノ聴いたことないし、めちゃくちゃ行きたかったですよーだ。でもさぁ、稑をこうまでさせるだなんて、もう絶対僕なんかがいちゃいけないヤツでしょ。でもあとでいっぱい話聞いてやるんだからッ。ウッシッシ。)
新は詩帆のその珍しい行動からしっかりと空気を読んでいた。
会場に着くと、席はもう8割は埋まっていた。稑はあまり目立たないように、後ろの端っこの方に座った。すると程なくして詩帆がステージに現れ、そのままグランドピアノの脇のマイクスタンドから挨拶を始めた。
「皆さま、おはようございまぁす。今日は朝早くからこんなにたくさんの方にお集まりいただいて、本当にありがとうございまぁす。何だか回を重ねるごとに段々と聴きに来てくださる方が増えてきて、朝セッティングした時より椅子が増えてる気がする。これ足しましたよね?」
詩帆は慣れた感じで関係者に視線を送ると、目が合ったスタッフが何度も首を縦に振った。
「わぁ、ありがとうございます。」
詩帆はあれから、稜太の父と再会してから、約束通り度々音楽療法士としてここを訪れていた。
「今日はね、何と何と、このステージに新たな出演者が控えておりますのでね、最後まで楽しんでいっていただけたら嬉しいです。では、早速始めることに致しましょう!」
そう言って詩帆はささっとピアノ椅子に腰掛けると一瞬天井を見上げ、一つ大きな深呼吸をした。そして次の瞬間には演奏者の顔に切り替わっていた。稑もまるで自分も演じる側の気持ちになり、思わずお尻がむず痒くなった。稑はこの、いつも雑な詩帆がそれはそれは繊細なピアニストになる瞬間がとても好きだった。そしてそんな詩帆の素を知らない周りの聴衆者たちに優越感すら感じていた。
予定されていた第一部は滞りなく終わった。するとその僅かすぐ後に、小学生くらいの子供からその保護者や関係者と思われる大人など総勢20名くらいの人たちが次々とステージに現れた。
「はい、えー今こちらのステージに上がっていただいた皆様は、何とこの病院のコーラス部の皆様方です。私がここで初めて演奏をさせていただいたのが昨年の8月でしたが、その後回を重ねるごとに、もっと音楽に触れたい、そして関わりたいという医療従事者の方々が集まり、有志でコーラス部を立ち上げられました。そして今ではご家族も巻き込んで日々練習に励んでいらっしゃいます。」
すると会場には温かい拍手が湧いた。その拍手に応え、ステージ上の子どもの中には観客席に向かって手を振る子もいた。するとそれに応えようと、その子の父親らしき人が手を振り返していた。
「本日は、今年が東日本大震災から15年が経過した節目の年であること、そして、このコーラス部にも該当する方が何人かいらっしゃいますが卒業シーズンということもあり、それらに関する2曲を続けてお届け致します。ではまず1曲目、『花は咲く』、どうぞお聴きください。」
詩帆はまたピアノ椅子に腰掛けると、リハーサル通り、といった様子でピアノを弾き始めた。
耳に届くその曲は、被災地に縁のある歌手や俳優、アスリートたちらが、復興を応援し共に寄り添う思いを届けるために歌った曲だった。詩帆の奏でる優しい音色で前奏が始まり、やがてその会場は美しいコーラスの歌声でその空間すべてが優しく包まれた。エントランスであることから生まれる適度な反響から、目を閉じればそこはまるでヨーロッパの教会を思わせた。そして彼女たちの清らかな歌声は、聴衆の心に染み入った。
稑は震災当時はまだ幼く、住まいも名古屋と離れていたため、テレビなどから現地の映像を見ない限りはこれまでとほとんど変わらない日常を過ごしていた。しかし後から哲夫に聞いた話によると、東京でさえも震度5強を経験した。その後に襲いかかるコロナとはまた異なる困難を、悲しみを、日常でなくなった非日常を、その時もまた人々は支え合いながらここまでやってきた。そしてやはり音楽はいつも傍にいた。忘れない、忘れちゃいけない、透き通るような歌声を耳に、稑は改めて音楽の力を噛み締めていた。
(広がってる、前に進んでる、やっぱりすごいな、詩帆さんは…。)
"30代って、そういう年代だよな。俺もなんか分かるわぁ。今やらないでいつやるんだって。多少無茶してでも、頑張りたい時なんだよなぁ。"
稑が免許を取得するために奮闘していた頃、詩帆も自身のできること、そして与えられた使命を全うしていた。稑は後ろで控えめに伴奏を弾く詩帆の姿がキラキラ輝いて見えた。
やがて1曲目が終わった。会場には拍手が湧いた。そしてさほど間を空けずに2曲目の伴奏を詩帆は弾き始めた。
(あ、この曲…!)
それは稑が今月の卒業式で歌う『旅立ちの日に』だった。先ほどの曲もこの曲も、詩帆は章の家では一度も練習することはなかったため、詩帆が弾くその曲を稑はその時初めて耳にした。
"私の出張演奏先でちょっとした企画があって、稑にも是非来てもらいたいなぁって思ってたんだ。"
(もしかして詩帆さんは、今月高校を卒業する僕に、この曲を届けたかったのかな。)
最近学校に登校すると、1日1回はこの曲を歌っていた。しかし生活のほぼすべてを魂狼に全振りしていた稑は、学校での、とりわけ学友との思い出はほぼないに等しかった。同じような立場で現場で顔を合わせる人はちらほらいても、その人と学校で学生時代あるあるの思い出を刻めたかというと、それほどでもなかった。だから稑はいまいちこの曲の歌詞に感情を移入することはできなかった。しかし今目の前で歌っている子どもの中にも何人かがやはり卒業を迎える子がいるのか、彼女たちは目頭を熱くして歌っていた。稑はその姿に急に胸がじんわりと熱くなった。
(そっか、そうだよな…。なんだかんだで、僕も3年間通ったあの高校を卒業するんだ。)
すると急に稑の頭の中に走馬灯のようにこれまで苦労して取り組んできた学業との両立、そしてそれは時に蓮と二人三脚で頑張ってきた稑自身の思い出があれやこれやと思い起こされた。するとじわじわと自分も卒業するのだという実感が湧いてきた。
予定していた2曲の演奏が終わると、詩帆もコーラスのメンバーの端っこに並んで立ち、彼らを称え、そして贈られる拍手に何度もお辞儀をして応えた。
(あぁ、やっぱり詩帆さんのピアノはいいなぁ…。)
しみじみと癒されていた稑だったが、その直後、稑はステージ上の詩帆と突然バッチリと目が合った。それは偶然ではなく、詩帆は意図して稑を見つめていた。そして他の人には気付かれない程度に、稑に向かって何かを発した。
(ん…?)
稑は目を凝らした。すると詩帆はもう一度、今度は分かりやすく一文字ずつゆっくりと言葉を贈った。
"そ つ ぎょー お め で と う"
確かに詩帆はそう言っていた。そして贈られたのはそれだけではなかった。その後に見せた詩帆の顔が、稑の心に刺さった。
「…。」
稑の時は思わず止まった。その直後我に返ると、稑は慌てて左腕の肘の内側で鼻の下からが隠れるように顔を覆った。
(ヤバい…。)
すると次の瞬間詩帆はまた何かジェスチャーを送り始めた。詩帆は自身の左腕の腕時計を右手の人差し指で必死にパチパチ叩いていた。稑は再びハッとした。
(ヤバいッ!試験ッ!!!)
稑はすぐに立ち上がり、人をかき分けてその場を去った。
「稑ッ!!」
建物を出ると、目の前の車寄せに新が車を停めて待っていた。
「新!ありがとうッ。」
「もう遅いからさすがにちょっと焦り始めてた…。」
「ごめん。」
「大丈夫だよ、まだ間に合うから。それより稑、腹ごなしにこれ食べて!」
新は顔は前を向いたまま、紙袋に入った何かを稑に押し付けた。開けてみると、中には美味しそうなサンドイッチが入っていた。
「うわぁ…、美味しそう!え、もしかして、これを買いに行ってくれてたの?」
「うん。いや、最近できた新しいお店で元々気になってたんだよね〜。」
「…新。」
何食わぬ顔でそう言いながらも、送迎だけでなくこんな気配りまでしてくれる新に稑は胸が熱くなった。
「で、どうだったの、詩帆さんの演奏会は。」
「うん…。」
稑はそこまで答えると黙り込んでしまった。
「…え?何?」
「もぉ、ほんとにヤバかった…。」
「はい?え、それはどういう…。」
新はやたら覇気のない稑の様子がどうにも気になり一瞬ちらっと横目で稑を見た。すると稑は、心ここに在らずといった様子でただぼぉっと前を見つめていた。
(詩帆さん、あれは何?もしかして無自覚?あんなの、ただの反則でしかない…。それで勘違いしたって、もう僕だけのせいじゃないよ。)
あの時見せた詩帆の顔は、これまで稑だけに向けられた中では過去に見せたことのない、稑の卒業を迎えるまでの苦労や努力を労う史上最高の笑顔だった。すると稑はそのまま両掌でまた鼻と口を隠すようにすっぽりと覆い、少しのぼせた顔で目を閉じた。
「えぇ〜……。」
根掘り葉掘り聞くつもりだった新は、稑のその異様な雰囲気に思わず言葉を失ってしまった。
その後稑はお花畑になり掛けた脳内を何とか正常に戻し、本免学科試験は無事合格した。
「稑ッ!おめでとう!!」
家に帰ると玄関に滝本家のみんなが揃い稑を温かく迎えてくれた。
「本当に、よく頑張ったな。」
章もやり切った稑を労った。
「ねぇ、せっかくだから車のところで記念写真撮ろうよ!」(あゆみ)
「いいねッ、賛成!!じゃあ稑、若葉マーク持ってさ!」(詩帆)
詩帆はそう言うと、サンダルを履き小走りで玄関を出て行った。
「…。」
「…?どうした、稑。」
「あ、いえ、何でも…。」
再び外に出ると、詩帆は滝本家のアルファードの前でスマホを構えて待っていた。
「ほら稑、そこに立って!」
すると稑は言った。
「いや、僕は詩帆さんと一緒に、詩帆さんの車で撮りたい。」
後から付いてきた章とあゆみは、それを聞くと思わず同時に顔を見合わせた。そしてクスッと笑った。
「うん、そうだな。」(章)
「じゃあ私が代わるから、詩帆、並んで!」(あゆみ)
「えー、私写るの意味あるかなー。」
「あるよ。詩帆さんは、ずっとたくさん支えてくれたから。」
「そっか。まぁ、そうだね!」
詩帆は確かに細やかながらまるで自分事のように稑を応援していた。そしてその思いが叶ったことを素直に嬉しく思った詩帆は、促されるまま詩帆の所有する軽自動車を稑と挟んでスマホに向かって笑った。
(どうか、あの笑顔をもう一度…。)
"カシャ"
夕方、稑が通っていた教習所では、前田がいつものように屋上で午後休憩を過ごしていた。
"ピロン"
前田は着信したメッセージに気付きスマホを開いた。するとそれはLINEに送られた稑からのメッセージだった。
"今日無事に合格しました。"
「おぉ!そうだった!川名君!!無事受かったんだッ!!」
するとその直後に写真も一枚送られてきた。
「おぉ?」
"僕のお世話になっているマネージャーさんです。"
「…え。」
それは若葉マークを構えはにかむように笑う稑と小柄な女性とが軽自動車を挟んで立っている写真だった。前田はその写真をタップするなり稑ではなくもう1人の女性の方を思い切りズームにした。そして食い入るように見つめしばらく固まっていた。
「やっぱりこれ…、橋本じゃん。」
そう呟いた前田の頭の中は、稑が無事免許を取得できたことなどすっかりふっ飛んでしまっていた。
「花は咲く」(2012) NHK「明日へ」東日本大震災復興支援ソング
「旅立ちの日に」(1991) 小嶋登、坂本浩美




