013 短期決戦
"心が一番近くにいる人"
稑にとって詩帆のその言葉は嬉しい以外の何ものでもなかった。しかしそう思わせているのは確かに自分なはずなのに、稑にはその実感がなかった。そこで詩帆のために何か具体的に役に立つことでその実感を確かに得たいと考えていた稑は、自分が運転出来れば詩帆をもっとサポートできたのではないかと思える場面にこれまで幾度となく遭遇してきたため、18歳になった今、そしてまだ章の家で過ごすことができるうちにまず取り掛かりたいと思ったのが車の免許を取得することだったのだ。
「分かった。」
うちに秘めたものがみなぎる稑のその顔に、前田は何かを感じ取った。
「でもなぁ、忙しい合間を縫っての教習となると、こりゃ毎回を一発合格していかないとだぞ?」
「はい。」
「よし。じゃあ無駄話はここまでだ。こっからは気合い入れて行くぞッ。」
「はいッ!」
こうして突如稑の短期決戦が幕を開けた。
前田は出だしこそいい加減そうな人に感じられたが、いざ教習が始まるとその教え方はとても誠実で丁寧だった。なぜそこを気をつけなければならないのか、見落とすとどうなるのか、どう気をつければ良いのかを、1つひとつ具体例を上げて説明してくれた。それは一度聞いたら忘れようもないくらい話術に富んでいて、稑の脳には次々と新しい知識が刻み込まれていった。
「よし、今日のところはここまでだ。じゃ、忘れないうちにしっかり頭の中で復習しておくんだぞ。」
「はいッ。ありがとうございました。」
2人は車を降りた。
「あの…、最後に一つだけいいですか…?」
「おぉ、なんだ。」
稑は自分の前で改めて立ち止まった前田に言った。
「僕、おじいちゃんとおばあちゃんを交通事故で亡くしてるんです。だから、僕は母さんたちを心配させないために、常に無事故でいられるように、真剣に学びたいと思っています。なのでこれからも、徹底的に抜かりなく、ご指導をよろしくお願いします。」
そう言うと、稑はカクッと腰を90度に曲げ頭を深く下げた。
「え…。」
前田は、稑のそんな姿にただただ驚いた。身内の不幸もショッキングな話だったが、学ぶ姿勢と、これほどまでに礼儀正しく言葉と態度で気持ちを表す稑に、前田は思わず言葉が詰まった。
「わ、分かった分かった。とりあえず顔を上げて!」
前田は稑の肩に手を乗せると起こすように促した。そして言った。
「もちろん俺たちは、この世から交通事故が無くなることを常に願って、それを確実に実現させるために、1人ひとり、毎回毎時間、真剣に向き合っているつもりだ。しかし今川名君の言葉を聞いて、改めて思いを新たにしたよ。」
思いが伝わり、稑の顔から安堵した様子がこれまた手に取るように伝わってきた。
「はいッ。じゃあ、また次回もよろしくお願いしますッ。」
稑はそう言うとまたカクッと腰を曲げたがそこを前田が慌てて突っ込んだ。
「いやいやいやちょっと待て。あのなぁ、川名君。君は何か勘違いをしているぞ?俺は君の専属でもなければここは指名制でもない。だから次の技能講習に立ち合うのは必ずしも俺とは限らない。」
「え…。」
そう告げられると稑はあからさまにショックを受けていた。そして言わずともみるみる悲しげな顔になっていった。前田にはそれが先ほどまで稑の頭にピンと立っていた別の生き物の耳が、しょげて垂れ下がってしまった小動物のように見えた。
(なッ、もうなんなんコイツッ!!!さっきからもうほんっとにコロッコロッ、コロッコロッ!毎回こんなん見せつけられたらこちとらほっとけるワケねぇーじゃんよッ!!!)
「ん、んんッ。」
前田は平静を取り繕いながら心を落ち着かせるために軽く咳払いをした。
「川名君、ちょちょちょ。」
すっかり稑に心を鷲掴みされてしまった前田は周りに気付かれないように小さく手招きをし、次稑が教習所に来られる日を確認すると、すぐさま社用のスマホで何か操作をし、その場で予約と承認の手続きを終わらせた。
「あんなぁ、本来こういうことはしないからなッ。君が有名人だからでもないからなッ。川名君は俺が、責任を持ってしっかりと指導するッ、ただそれだけだッ。」
それを聞くと稑の顔は再びぱあっと明るくなった。
「もう君さぁ…。」
(こんなん他の奴らにも振り撒いてたらいつかこの教習所炎上するわッ!!!)
悶える前田は心の中で1人炎上していた。
"新、僕もこの教習所で楽しくやっていけそうだよ!"
"それはよかった"
"稑の運転する助手席、楽しみにしてるからね!!"
ドキドキだった技能講習初日を無事に終えた稑は、その晩早速覚えたことや気付いたことをノートに書き留め復習した。
(あぁ、早く詩帆さんを喜ばせたいッ。)
目的が明確だとこうも変わるものなのかと、普段致し方なくやる学校の課題よりも遥かに熱心に稑は取り組んだ。免許を取得することは、本当はこっそり進めたかったが実際に教習所に通うことを隠し通すことは不可能なため、章はもとい詩帆もこのことは当然周知していた。詩帆は一年で一番忙しい年末を控えたこのタイミングで通い始めることに難色を示すも、くれぐれも無理のないようにと稑の前向きに取り組む姿勢を温かく見守った。
稑は普段ならピアノ室のソファでゴロゴロくつろぎながら取り組むであろうそれらの予習や復習やらを、これに限っては自室で行った。そこには少しでも詩帆を驚かせたいという稑の意地があった。
一方で詩帆はというと、彼女も音楽療法士のことを公にしたことで、その活動の幅や受託件数が大幅に増えていた。マネージャーとして魂狼に迷惑は掛けまいとしながらも、必然的にそれ以外の時間をほぼその活動に割くことになり、詩帆は章の家で過ごす時間がめっきりと減った。コーラスの伴奏を引き受ければ、その練習段階から同席することも増えていった。そのことで詩帆が練習会場まで赴くこともあれば、なんと岡崎の自宅のピアノ室を利用させてもらうこともあった。練習場所として使わせてほしいとの詩帆の要望に、岡崎は二つ返事で快諾した。さらにはそんな詩帆に岡崎は、新たにグランドピアノを手配するとまで言い出したが、さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないと、詩帆は自身の貯金を切り崩して中古のアップライトを購入し、それを岡崎邸のピアノ室に置かせてもらうことにした。それぞれの"あの日"を境に、2人の生活は大きく変わった。稑は3月までに何としても免許が取得できるよう、学科講習も含め、魂狼、学業、教習所と3本立てのスケジュールを何とか調整し、それから奮闘の日々が続いた。
閑話
『世間はやはり狭かった。』
とある日の国際電話。
岡崎「そういう事情であの部屋を使ってもらうのは全然構わないけど、今あそこにピアノないわよ?」
詩帆「そうなんですよねぇ。なのでこの際ドドーンと、景気付けに一台購入しようかと。」
岡崎「そう…。でもあなたの給料ってすずめの涙なんでしょ?美帆から聞いたわ。」
詩帆「な…ッ、もー!だからそれはぁ!?」
(ちょっとお母さん!!肝心なところ端折らないでよッ!!)
岡崎「嘘ウソ、今のは冗談。あなたは滝本家とはもう家族みたいなもんだからね〜。そのおかげでうちの留学生も助かってるわけだし。あの部屋のレイアウトもそっくりそのまま同じ間取りで作りたいだなんて、普通だったらあり得ない話よ?でもその章君も、その道でしっかり成功してるんだから、やっぱりそこはあのギラギラ親父の血だわね。」
詩帆「えッ、岡崎先生て、迅さんのことも知ってるんですか?」
岡崎「えぇ。そりゃあだって知ってるも何も、うちの契約してるハウスキーパーさんは迅さんのとこの方々だし、それに私は彼の起業当時からの超VIP顧客ですからね?あ、そういうわけだから、あの家のカギも迅さんから受け取ってね。マスターキー預けてるから。」
詩帆「へー…、了解でぇす。」
(世間てほんとに狭ッッッ。)




