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百度目の願い

 ついに、その日がやってきた。

 春の嵐だ。

 夏の先触れとしてパンドラクスの空に流れてくる巨大な嵐雲は、毎年国に大きな被害をもたらす、災害の一つだ。歴代の王たちは暗君ではあったが、徴収する税が減ることを恐れ、春の嵐については常にそれなりの対策をしていた。

 ……だが。

 九人の王子は、全員が「誰かがやるだろう」と考え、何もしなかった。

 複数箇所で発生した鉄砲水が村を押し流し、町へと流れ込む。広がり続ける洪水が、国全体を飲み込もうとしていた。


 雨は夜になっても止むことはなく、滝の中にいるかのように真っ直ぐ、天と地を隙間なく繋いでいた。

 緊急を知らせる鐘が、延々と鳴り響いている。

 春の嵐の最中だというのに、今夜も城では宴が開かれていた。流される村や町の情報が、耳に届いていただろうに。

 ノストライアは雨の中、塔に運び込まれた武器を手に進軍していく人の群れを見ていた。既に、足首まで水に浸かっている。すぐにでも移動しなければ身動きが取れなくなるに違いない。

 全ての武器が運び出されたのを確認してから、ようやく茂みが出た。ずぶ濡れのまま、塔の中へと入る。部屋に上がると、あの日荒らされたまま時間が止まっていた。

 猛烈な勢いで雨が吹き込んでいる窓から身を乗り出し、王宮の様子を窺う。

 悲鳴も、怒号も。何もかも雨音に消されて、ここまでは届かない。だが、時折ちらつく灯りと赤く染まる窓ガラスに何が起きているのかを想像することはできた。


 ようやく、願いが叶う日が来たのだ。


 森の中で革命を起こす計画を立てる者たちを初めて見かけた時から、ずっとこの瞬間を待ち続けていた。

「——……シャリア、出てきて。話をしよう」

 何もない場所に向かって、声をかける。するとすぐに空気が揺らぎ、影と共に大男が現れた。変わらぬ様子に、ノストライアは安堵する。

 実のところ、三人の兵士が来た日に無言で消えてしまって以来、食料は持って来てはくれるものの、姿は見せてもらえなかった。しかし呼んで出て来てくれたということは、関係を続ける気はあるのだろう。それが、とても嬉しかった。

 ところがノストライアの気持ちとは裏腹に、男は少し苛立っている様子だった。

「なぜ逃げない?洪水と革命で、城の警備は死んだも同然だ。今ならお前のようなガキでも、正門から逃げ出せる」

「……僕を、逃がそうとしてくれているの?」

「事実を言っただけだ。さっさと行け。この雨じゃ、じきにお前の背の高さまで水が来る」

 その言葉は、ノストライアの胸を満たすのに充分な温かさを持っていた。やはり自分の選択は間違っていなかったのだと、亡き母にも伝えることができる。

 数歩の距離をゆっくり進み、男の前に立つ。ノストライアから滴る水が、床を濡らしていた。

 マントに隠された、手をそっと取る。男は、振り払ったりはしなかった。

「シャリア。僕の願いは、君が林檎を売れるくらい、自由になることなんだ」

 先代のパンドラクス王は、『悪魔』が生まれてから数えて百代目の王だった。

 そして塔に残されていた記録書を調べた限りでは、前王は三十四度の戦争に勝ち、十七個の秘宝を手に入れ、二十人の貴族の資産を徴収し、二十八人の暗殺者を返り討ちにした、とされている。

「僕の父が五年前、君に命じた百度目の願い。それを達成すれば、君は自由になれる」

 ぴくり、と男の身体が揺れた。

「君が何者かなんて、僕にはどうでもいい。ただ、今夜でパンドラクスの血は全て消えてしまうだろうから。その前に君を自由にしたいと思った。長い間苦しんだだろう、君を」

 ノストライアは、男の手を自身の首に触れさせた。

「だから、僕を殺して。……大丈夫、君はもう文字の読み書きも、算術もできる。影から出ても、生きていける」

「……俺に、面倒な勉強を無理やりさせていたのは」

 ようやく、男が言葉を口にする。声を聞くのは久しぶりに思えた。

「言っただろう?いつか林檎を売るかもしれない、って」

 さぁ、と首に手を押し付け目を閉じる。

 強い力で、男がノストライアの手を振り払った。

「いやだ、できない」

 それは、途方に暮れる子どものような声だった。

「今夜しかチャンスがないんだ。早くしないと」

「むりだ。ばかだろ、おまえ。いやだ、いやだ」

 何度も首を横に振り、後ずさる。

「シャリア」

「名前をくれた。笑ってくれた、林檎を分けてくれた。温かいと言ってくれた。クソみてぇな生まれで、クソみてぇな生き方をして、最期は王に嵌められて人間でさえなくなった俺に、お前は」

「シャリアには、僕の分まで生きてほしいんだ」

「嫌だ。お前が逃げろ。俺はここにいる。影に囚われている限り、死にもしないし飯もいらない」

「それだと君が救われない。僕を何度も救ってくれた君を、助けてくれた君を、僕は救いたい」

「もうやめろ。それ以上言うなら、俺は影に戻る」

 その言葉に、ノストライアは声を詰まらせた。影の中に入られてしまったら、追う術はない。

 ノストライアの沈黙に自分の要求が通ったと思ったのか、男の声が幾分柔らかいものになった。

「制約のせいで『願い』とは関係ない戦いはできないが、門までなら影に入れて守ってやれる。雨にも濡れない。さぁ、風邪を引く前に乾いた服に着替えろ。革命が成功して混乱が収まれば、逃げにくくなる」

 今度は男の方からノストライアに触れてくる。頬を、指の背で撫でられる。

「城の様子を見てくる。すぐに戻るから、準備をすませてろ」

 影の中へと消えていく。それだけでなぜか、耳に届く雨の音が大きくなった気がした。

 ノストライアは、自身の計画がこれ以上進められない事実に、思わず座り込んでしまった。

 断られることは、想定していなかった。

 『パンドラクスの悪魔』が自由になるための願いは、当人により拒絶された。願いを叶える気がない限り、城の外にも出られない。

 今はまだノストライアが生きているから、心変わりをしてくれれば自由になれる機会はあるが。死んでしまえば、永久に願いは凍結されることになる。

 ノストライアは、本当の孤独を知らない。十歳までは母親がいた。彼女が亡くなってからは、シャリアがいた。

 彼の不器用な優しさをノストライアは知っている。

 例えば、毒が入った食料。ぶっきらぼうに、時にからかうような口調で、それでも正確にどれに毒が入っているのかを教えてくれた。

 例えば、寒さに震えていた夜。いつの間にか部屋の隅に薪が積まれていたことが何度もあった。

 例えば、物語を朗読して楽しんだ時間。流れる時間は穏やかで、温もりがあった。

 

 彼を独りにするとわかっていて、ここから逃げられるわけがない。


「……別の方法を考えよう。何かあるはずなんだ」

 呟いて、窓の外を見る。ふと、暗がりから誰かがこちらに走ってくるのが見えた。

「クソっ!アイツら、舐めやがって!」

 大きな音と共に、塔の扉が開き人が入ってくる。比較的若い、男の声だ。

「無人の塔か。……しばらくここに隠れて、やり過ごすしかないな」

 ザブザブと水を蹴る音。どうやら外の水が塔の中にまで入ってきているらしい。

 ノストライアは、扉を開け階段からそっと下の様子を窺った。

 開け放たれた入り口から差し込む微かな光が、侵入者を照らしている。淡い金髪の青年だ。濡れそぼってはいるが、薄く上質な生地の服を着て、腕や指にこれでもかと装飾品をつけている。

 実際に顔を見たことはないが、九人の王子の中の誰かであろうとノストライアは考えた。

「——……」

 同時に、卑劣で残忍な計画が弾けるようにして頭の中に生まれた。

 それを実行すれば、この先二度と「真っ当に生きてきた」とは言えなくなるほどの。

 我欲に生き息子たちに裏切られて死んだ王と同じ、愚かな存在になってしまうだろう。

 ……だが、それが何だと言うのか。

 ノストライアにとって大切なものは、傍にいてくれた存在を守ることだけだった。

 小さく息を吸い、それからできるだけ弱々しく聞こえるような声を出した。

「……だ、誰かいるんですか?」

 声を聞いて、王子は初めて塔に階段があることに気付いたようだった。

 ノストライアがいる部屋は、一階部分よりももう少し明るい。それを頼りに、王子が階段を登ってくる。

「なんだ、貴様は!なぜここにいる!?」

 怒りと苛立ちを隠しもせず、部屋に入って来る。何の躊躇もなく、ノストライアの痩せた身体が蹴り飛ばされた。窓際まで吹き飛び、壁に身体が打ち付けられる。なおも蹴り続けようとした王子の足が、ノストライアの髪を見て止まった。

「ん?その見窄らしい白い髪……。貴様、幽閉されているという残り滓の王子か?」

 どうやら、そのようなあだ名で呼ばれているらしい。

 相手が先に気付いてくれたのは幸運だった。ノストライアは横になったまま痛みに怯えるように縮こまりながら、小さく頷いた。

「は、はい。そうです……。先程やってきた人たちにも、同じことを聞かれました」

 さりげなく、質問を誘導していく。予想通り、王子は「やってきた、だと?」と眦を吊り上げた。

「なぜ死んでいない!?奴らは叛逆者だ!兄弟や近衛兵たちは、みな殺されたというのに!まさか貴様も仲間か!?」

 今度は腹を蹴られる。胃が空なせいで何も吐かずにすんだが、口の端から呻き声と共に唾液が溢れた。

「な、仲間では……ありません。僕が五十二番目の王子だと知ると、『王家に虐げられていた王子を助ければ、革命の正当性に繋がる』と、そのまま立ち去って行ったんです……」

「なに……?」

 ノストライアの言葉に、王子が何事かを思案し始める。やがて「よし」と納得し、ノストライアの胸ぐらを掴むと無理やり身体を起こさせた。

「心底不愉快だが、仕方がない。貴様の服をよこせ。代わりに俺の服を着せてやる。第三王子の身代わりとして死ねるのだ、残り滓の最期としては上等だろう」

 にたり、と狡猾な笑みが浮かんだ。

 逃げるふりをしたノストライアを、王子が殴り付ける。粗末で汚れた衣服を無理やり剥ぎ取り、代わりに絹織物でできた衣装と、動くだけで音が出るほど重ねていた宝飾品をノストライアに投げつけた。

「さっさとそれを着ろ、クズめ」

 諦めたようにのろのろと豪華な服を着込む痩せた身体を見下ろしながら、王子が満足気な顔をする。

「いいか、これからお前は雨の中適当に喚きながら走り回れ。身分の低い馬鹿共は、俺の顔など知りはしない。服装だけを見て、お前を俺だと勘違いするだろう」

 なんとも身勝手で、傲慢な言い分だ。だがノストライアは逆らわず、装飾品も全てつけ終えた。

「汚く伸びた髪くらいは、切っておくか」

 床に転がる皿の近くにあった小さなナイフに、王子が手を伸ばす。

 だが刃物に届くその寸前で、王子の腕を掴む者がいた。

「な、なんだ、貴様は……!?」

 いつ、どうやって現れたのか。

 王子の前には、影のように真っ黒な大男が立っていた。

 貧弱な王子の腕など一握りで潰してしまえそうなほど大きく硬い手のひらが、決して逃すまいと掴んでいる。黒いマントの隙間から見えた二の腕は、山のように盛り上がり、太い血管が浮き出ていた。

 焦ったように周囲を見た王子が、自身が服装をボロ布に変えていたことを思い出す。

「お、俺は五十二番目の王子だ!俺のことは殺さないと約束もしている!」

「……五十二番目の王子?お前が?」

「そうだ!俺を生かしておけば革命に正当性が出る、と。そう話がついている!」

 大男から返事があったことに、王子は心の中でほっとしていた。バケモノの類ではないかと疑っていたが、古びたマントを見て、叛逆者の仲間だろうと勝手に結論付ける。

 男の視線が王子から逸らされ、煌びやかな衣装を着たノストライアへと向けられた。

「そ、そいつが第三王子だ!ここまで逃げて来て、俺を殺そうとした!助けてくれ!」

「……本当か?」

 男がノストライアへと問いかける。すぐ側から睨むような王子の視線を受け、ノストライアは答えた。

「はい。僕は第三王子で、この人は五十二番目の王子です」

「……それはパンドラクス王家の血に誓えるか?」

「誓います」

「ち、誓う!!」

 ノストライアと王子、二人の声が重なる。

 男は、分厚い筋肉で覆われた硬い腕を伸ばし。

 ——汚れた服を着ている方の首を掴み、高く吊り上げた。

「…、がっ、…ぉ、ぐ」

「……王は、お前の名を知りもしなかった。ただ、五十二番目の王子を殺せ、と言っただけだった」

 男の目は、苦しむ王子を見もしない。ひたむきに、ノストライアを見つめていた。

「俺は何の躊躇いもなく、この手を握り、枝のような首をすり潰してしまえる。なぜなら俺は、悪魔だからだ。……でも、お前は、お前は違う」

「違わないよ、シャリア。僕も父の血を引いている。君を利用し続けた歴代の王の血を」

 ノストライアは、男を背後から抱きしめた。あまりにも違いすぎる体格差のせいで、ほとんどしがみつくような形になっていたが。

「第三王子がここに逃げて来た時、僕は歓喜したんだ。僕にとって、一番望ましい結果にできる、って。それがどんなに卑怯で残忍な方法だとしても、僕は選ぶ。——……一緒に、行こう。僕は、君と生きたい」

「……ノストライア」

「名前、やっと呼んでくれたね」

 ノストライアは、影が逃げてしまわないようにギュッと力を込めた。

 粗末な服を来た青年の喉からは、もう声は聞こえてこなかった。痙攣を繰り返す足の下に、赤と黄色が混ざった水溜まりが広がっていく。

 男の身体から、黒い影が溶けるように消えていくのが見えた。


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