嵐の前
明け方から降り始めた雨は、時間の経過と共に激しさを増していた。
部屋にある水瓶が最後の一つであったノストライアにとっては、恵みの雨だ。塔中にある壺や瓶を外に並べて、雨水を溜める。塔の近くにある井戸は、毒が投げ込まれていて以降使用していない。
井戸の毒や、運ばれてくるわずかな食料に混ぜられている毒。
これらは死んだ王の命令が実行され続けているわけでも、新しく国を支配した九人の王子が仕向けているわけでもない。
この場所に、ノストライアがいること。ノストライアが王の血を引いていること。
その二つの面倒ごとを、片付けたいと考えている者がいる。それだけだった。
雨に濡れながら、ノストライアは雨水が溜まった壺を一つ抱えて塔へと戻った。栄養が足りていない十五の腕では、満杯の水瓶一つ運ぶだけでも体力を使う。それが、あと九つある。溜めておかなければ、自身も、耕した畑も死んでしまう。
なんとか一つを運び込み一階部分に置いて、また外へ出る。
すると不思議なことに、並べていたはずの壺や瓶が消えていた。
ゴトゴトと、塔の中で音がする。
振り返った先で、満杯の水が入った壺や瓶が九つ、最初に運んだ水瓶の隣に並んでいた。
「ありがとう、シャリア」
礼を告げても返事はない。ノストライアは乾いた布で髪と体を拭い、階段を登って部屋へと戻った。
室内に濡れた服を干し、似たような服に着替える。それからそっと、窓の外を覗った。
城と塔の間にある小さな森で、何か話し合っている兵士がいる。唇が『百代続いた血が絶える時だ』『春の嵐の晩に』という言葉を紡いでいる。
——春の嵐の晩に。
ノストライアは、その言葉を忘れないように胸に刻んだ。
植えたジャガイモの芽が土から顔を出し始めた、ある晴れた日。
森を突っ切って塔に向かってくる兵士たちの姿を、偶然窓から見かけた。ちょうど、算学の本を読み終えたところだった。
兵士たちは手ぶらで、食料や物資を持っている様子はなかった。慌てて窓から身を引き、辺りを見回した。高い塔の一室だ。出入りは細い螺旋階段のみで、逃げ場などどこにもない。
腐りかけの木のドアが蹴破られ、硬い足音と共に兵士たちが塔へと入ってくる。
「水瓶がある。まだ生きてやがるのか」
「裏に畑を見つけた。毒を混ぜた飯を食わねぇわけだ」
「部屋は、上か」
祈りも虚しく、兵士たちはあっさりと階段上の部屋の存在に気付いた。
ノストライアは、暖炉の側に置いていた火かき棒を手に取った。
まだ、死ぬわけにはいかない。やり遂げなければならないことが、あるのだ。
塔の書物は知識は与えても、剣の振り方や身のこなし方などは教えてくれなかった。足音は三人分。その中の誰かの剣の一振りで、彼の細い首は飛ぶだろう。
僅かな間、ノストライアは目を瞑った。恐怖を克服する時間が欲しかった。
だが再び目を開けた時、彼の視界は先ほどとは違う光景を映していた。
部屋にいることには、変わりない。ただし、薄く黒い膜を一枚隔てたような、あるいは水の中にいるかのような感覚があった。
ぬっと、背後から丸太のような腕が出てきて、ノストライアを抱え込む。振り返るよりも先に、部屋に兵士たちが侵入してきた。
「誰もいねぇじゃねぇか」
「外にはいなかったから、ここにいると思ったんだがな」
「毒で死んでくれりゃ、楽だったのに」
兵士たちは文句を言い合いながら、部屋の中を細かく探していく。
目の前にいるノストライアには、気付きもしない。まるで、見えていないかのように。
「数日中には春の嵐が来る。それまでに王子を殺して、この塔に武器を運び込んでおきたい」
「王子?俺たちの残飯で生きているような薄汚ぇゴミの間違いだろ?パンドラクス王家の血を引いている奴らは、全員クソだ」
「違いねぇ。よく百代も続いたもんさ。これを滅ぼすのは、まさに天命である。正義は我らに有り、ってな」
兵士の一人が、積まれていた本を乱暴に蹴り飛ばす。
「見ろよ、この本の山。国民はパン一つ買うのにも毎日並ばせておいて、いいご身分じゃねえか」
「小麦も肉も卵も、今じゃ高級品だ。城にゃ、腐るほどあるってのに」
泥のついたブーツで本を踏み躙る。思わず制止の声をあげそうになったノストライアの口が、大きな手のひらで塞がれた。
「あまり長く城を抜けても怪しまれる。戻ろうぜ。ちぃともったいねぇが、決行日までは食事を豪華にして毒を入れろ。まだ十五のガキだ。見たことねぇご馳走でも用意してやれば、引っかかるだろ」
「面倒くせぇな。目の前で食べさせたらどうだ?」
「前にちょいと剣で撫でてやったら、怯えさせちまってな。人がいる間は、隠れて出てこなくなっちまったのさ」
三人で本を踏み散らかし、水瓶を倒して、床も本もベッドも濡らしていく。それを見て笑いながら、部屋から去っていった。
話し声が遠ざかり、塔の中に静寂が戻ってくる。
視界が揺らぎ、ノストライアの目に薄い幕越しではない、酷く荒らされた室内が映った。この様子では、畑も無事ではすまないだろう。
ノストライアは、ようやく振り返った。
フードを被り、髭で顔が隠れた大男が立っている。その表情は一切見えなかったが、彼が影の中に匿ってくれたのだということは一目瞭然だった。
「ありがとう、シャリア。さすがにもう駄目かと思ったよ」
「……俺に、あの兵士どもを殺せと言わないのか?」
「僕が?どうして?」
「今まで俺を利用してきた奴らは皆、邪魔者を消すことを願ってきたからだ」
こんなに近くで男を見上げたのは、五年ぶりだった。もっともあの時は高熱に苦しんでいたせいで、まともに見てはいないが。
ノストライアは、彼の瞳が澄んだ湖面のような深い青であることを、初めて知った。
「……僕には、そんなの必要ないよ。それに君への願い事なら、もう決まっているから」
「願い事?なんだ?言え」
「いつか君が、林檎を売れるようになること」
「馬鹿だろ、お前。何度も言わせるな。俺はここから出られない」
「百人目の王様の百度目の願いを叶えられないから?」
「——……」
ふ、と。何も言わずに、巨躯が影となって消えた。
ノストライアは探すことはせず、部屋の隅で水浸しになっている本の山へと足を向けた。子ども向けのお伽話と、古い書物を拾い上げる。二つともすっかり濡れていて、文字も滲んでしまっていた。
塔には様々な本があったが、子ども向けのものは手にしたこの一冊だけだ。そして、それにも意味があったのだろう。
影の悪魔と、パンドラクスの悪魔。
それぞれ全く別の物語だが、影に閉じ込められるという類似点がある。どちらかが、もう一方を参考にしたかのように。
ここで研究をしていたのか。
それとも、ここが伝承を知る場所だったのか。
ただ一つ、言えるのは。
歴代の王たちは、実在するパンドラクスの悪魔を利用して、その地位を築いてきたのだということだった。
翌日運ばれてきた食料は、ノストライアが知る限りでは母親が生きていた頃以来の豪華さだった。
柔らかいパンと、器に入った温かいスープ、そしてスライスされたハム。王子という立場から考えると質素すぎるが、ノストライアにとってはご馳走だった。
……けれども。
当然食べることは、できない。
飢えが日常となった腹が、食べたいと訴えかけてくる。
葛藤を必死で抑え込み、まずは料理を見つからない場所に埋めた。
それから、自身で作った食事を食べ、しばらくしてから喉に指を入れて並べた皿の周囲に吐き出した。場所は、塔の前。食料が置かれていた場所にした。ご馳走を前にして我慢できずにその場で食べて苦しんだ、という状況を作るためだ。そして地面に四つん這いになり、『這って逃げて行った』跡を作る。塔の中ではなく、森の中へ。こうしておいて部屋に戻った痕跡がなければ、兵士たちは毒で苦しんだノストライアが森へ逃げたと考えるだろう。わざわざ探してまで死体を確認したりはしない。彼らは単に、人目につかない森の中の塔を、秘密裏に占拠したかっただけなのだから。
全ての準備を終えたノストライアは、最後の食料と水を持って跡をつけた方角とは反対の方角の茂みに身を隠した。
雨の心配はしなくていい。
次の雨はきっと、春の嵐の日だろう。




