王子と影の悪魔
パンドラクスなる国の王は、その残忍さと同じほど好色なことで有名な男だった。
三人の妻と二十人の側室を持ち、気に入った貴族の娘や使用人がいれば手を出すことを躊躇わない。
逆らう者は断頭台へと送り、媚びへつらう者だけを重用する。
色と暴に狂った男の治世は、約三十年続いた。
その結果、パンドラクスに何が起きたのか。
王子たちによる、下剋上。
今より二年前の冬の出来事だ。
王は玉座にて首を刎ねられ、王国は九人の王子たちのものとなった。
もし彼らの中に一欠片でも良心が存在していれば、未来は良い方向に舵を切れたのかもしれない。しかし現実は、酒池肉林に溺れた権力者が九人に増えただけだった。
最初に、王殺しに加担しなかった優秀な王子や姫が処刑された。それから王妃や側妃が城の堀に架かる橋に、生きたまま吊るされた。
歴史上類を見ない、暗黒の時代。
パンドラクスは、今まさにその闇に飲み込まれようとしていた。
ノストライアは、五十二番目の王子だった。
過去形がつくのは、五十一人いた兄や姉が、半分以下にまで減ってしまったからだ。
母親は他国の商人の娘で、父親と共に商売をしにパンドラクスへと入国し、当時の王の目に留まり王宮入りをした。見初められた、と言えば聞こえは良いが、実際は手籠にされただけの話。娘を助けようとした父親は、王の不興を買い処刑された。
身内に起きた悲劇と王に身を汚された衝撃に、ノストライアの母親は次第に心が病んでいった。それを疎んだ王は、当時五歳のノストライアと一緒に王宮の隅にある小さな塔に彼女を閉じ込めることを決めた。
一人の女が塔から身を投げたのは、その五年後のことだ。
十五になったノストライアは、塔の裏にある小さな畑で土を耕していた。
銀に近い白の髪はボサボサと伸び放題で、服は汚れ、所々ほつれている。靴の先には穴が空いていた。
手にした鍬は、棒切れに割れたガラスを紐で括り付けただけのものだ。硬い石に当たると簡単に割れてしまうため、掘り進める前に小石を除くなどして柔らかくしてある。十日ほど前から日光に当てて、消毒も済ませていた。
浅く穴を掘り、部屋で種から育てていた野菜の苗を植えていく。日に一度王宮から運ばれてくる食事は、腐っていたり傷んでいたりすることが多い。だが種を採るだけなら充分だった。
もっとも、腐っていなかったとしても遅効性の毒を混ぜられていたりして、食べられない場合が多いのだが。
苗に土を寄せて、ぽんぽんと周囲を固める。肥料は刈った草を水と土で堆肥にしたものを使用している。
ノストライアはこれらの知識を、塔にあった書物から得ることができた。彼の母親が商人の娘で読み書きができていたことが幸いした。あるいは彼女は、自分の息子が本を理解できる年齢になるまでは、この世にとどまっていたのかもしれない。
学ぶことは、好きだった。
文字に没頭している間は、自身の身の上を考えずに済む。
五十二番目の王子。
王殺しには加担しなかったが、母親は他国の平民。
小さな塔に閉じ込められて、見窄らしい姿で、惨めに暮らしている。
王子たちを脅かす存在には、なり得ない。
立ち上がり、膝についた土を払う。
足元にある、小さな野菜の苗。ひょろりとして頼りなく、すぐにでも枯れてしまいそうな。
まるで今の自分のようだ、とノストライアは考えた。
……いつの日か、抜け出す道を作ってみせる。
その意思だけが、生存を選択させていた。
「——……」
ふと、塔の入り口の方から、物音がした。
空を見上げると、太陽がちょうど真上に来ている。
食事は日に一度、生活品は月に一度、どちらも太陽が真上に来る時間に運ばれてくる。
少し時間を空けてから、向かうことにした。以前早めに取りに行ったら、物資を運んできた兵士に殺されそうになったからだ。
誰にも見つからないように、ひっそり過ごす。それが生存へ繋がる道なのだと、知っていた。
周辺の草を毟り、日が当たる場所に積んでいく。ようやく日差しに温もりを感じられる季節になった。朝晩の冷え込みはあるものの、薪の残量を気にせずにすむのはありがたい。
小一時間ほど庭仕事をして過ごし、それから表へと回った。
塔にある唯一の出入り口。下の方が割れて隙間ができている木の扉の前に、汚れた袋が置かれている。中には、いくつかの食べ物が入っていた。
慎重に確認しながら、その場に並べていく。塔の中に持ち帰らないのも、理由がある。布に隠されていた毒蛇に噛まれた過去が、用心深さを育て上げた。
一つ一つ、取り出していく。
芽が出たジャガイモ。とてもありがたい。すぐにでも植えてしまおう。
黴で青くなったパン。そのままでは使えないが、堆肥にすれば肥料になる。
表面の水分が抜け切った、小さな林檎。中が無事なら食べられそうだ。
麦の入った袋。新しいものではなさそうだが、これも食べることができるだろう。ただ、食べるのは半分だけにして、残りは種用に残しておきたい。
ひどい時だと全て食べられなかったりするので、今日はラッキーな方だ。ほんの少し弾んだ気持ちで林檎を手に取ると、不意に降って湧いたように、耳元で声がした。
〈良い林檎だなぁ。先に食った方がいいぞ〉
それは低く、陰の気を固めたような声だった。
姿は見えず、気配もない。
けれども、確実にいるのだとわかる。
ノストライアは林檎を手にしたまま、崩れた石壁の影へと向かった。しゃがみ込み、手頃な石で土を掘る。拳一つ分の穴ができたところで、林檎を入れ、上から土を被せた。
すると今度は、押し殺したような笑い声がした。
〈食えば、楽になれたのに〉
それにも応えず、作業へと戻った。
声はもう、聞こえることはない。食べ物が入っていた袋をひっくり返し、危険な物が入っていないか確認を済ませてから、麦だけを袋に戻す。それから黴の生えたパンと芽が出たジャガイモを持って、もう一度畑へと向かった。
畝の端に掘った深めの穴に芋を植え、パンを醗酵途中の堆肥に混ぜる。
掘り返した土の中から出てきた虫を目当てに、小さな鳥が集まっていた。どこから飛んできて、どこへ行くのか。
あの羽があればきっと、城の塀など足元の石ころくらいのものなのだろう。
畑仕事も終え食料も受け取り、今日の用事は終わってしまった。
無駄に動いても空腹の時間を増やすだけなので、さっさと塔に入ってしまう。扉をくぐると内部は吹き抜けになっており、螺旋階段があるだけだった。
見上げると、てっぺんに近い位置に蓋をするように天井があるのが見えた。階段はそこに向かって吸い込まれている。下から見ると天井に見えるそれは、この塔に唯一ある小さな部屋だった。
石でできた頑丈な階段を一歩一歩上っていく。屋根裏部屋のような、あるいは灯台守の部屋のような、三坪ほどの部屋には、古いベッドと傾いたテーブル、そしてたくさんの書物があった。
窓から差し込む太陽光で、室内はそれなりに明るい。
隅には暖炉が備え付けられていたが、今は火は落ちていた。
欠けた花瓶に溜めている雨水を土を焼いて作った皿で掬い、布を軽く浸して手を拭う。残った水には、今日食べる分だけの麦を浸しておく。こうしておけば早く煮えて、薪をあまり使わずに済む。
夕暮れまでは読書をして過ごそう。
しおり代わりの葉を挟んでいた本を手に取り、背もたれのない椅子に座る。算学についての初歩が書かれた本だ。
〈それは嫌だ。昨日の続きにしろ〉
また、声がした。
「……駄目だよ。今日は勉強をしないと」
今度はノストライアも答えた。
本のページを開く。挟んでいた葉が、ふわりと床に落ちた。
「……シャリア、本を返して」
葉を拾いテーブルに視線を戻すと、本がなくなっていた。
〈昨日の続きを読むなら、返してやる。林檎に毒が入っていたことも、教えてやっただろう?〉
「あれを『教えた』と言えるのは、君くらいだよ」
〈気付いたんだから、同じことだ。さぁ、読め〉
「わかった。では交換条件。昨日の続きを読んでから、勉強をしよう」
腰を上げ、積まれていた本の中から一冊を手に取る。この国に古くから伝わる、子ども向けのお伽話だ。
少し間を空けてから、背後で何かが落ちる音がした。床の上に、算学の本がある。
ノストライアはそれも拾い上げてから、再び椅子に座った。
「続きを読むから、姿を見せて」
部屋の隅に向かって、声をかける。
何もなかった場所に突然音もなく、真っ黒な影が現れる。
よく見るとそれが、真っ黒なマントなのだとわかる。
壁際に、フードを目深に被り、見えている顔半分が全て髭に覆われた大男が立っていた。
「影の悪魔の章だね。悪さばかりしていた悪魔が、神様の怒りに触れて影の中に閉じ込められてしまう話だ」
ノストライアが、今日初めての笑みを浮かべる。
ページを開き、ゆっくりと読み上げ始めた。
男は、ノストライアの息の根を止めるべく遣わされた暗殺者だった。
もう五年も前の話になる。
母親が塔から身を投げ死んだ後、王は放り捨てたゴミを火の中に焚べなおす程度の思いつきで、ノストライアを亡き者にすべく指先一つで差し向けた。
あの夜、ベッドの上で首をへし折られて死なずに済んだのは、ほとんど偶然に近かった。
高熱にうなされ、夢と現の区別がついていなかったノストライアは、薄い布一枚よりも、自身の首に回された手のひらを温かいと感じてしまった。そして、何も考えずに素直に言ってしまったのだ。温かい、ありがとう、と。
その後、ノストライアは七日七晩高熱に苦しんだ。ようやく熱が下がった日の朝、自身が生きていることに驚いた。強い空腹を感じてはいたが、さほど喉の渇きを感じなかったせいだ。人は食べる物がなくてもしばらくは生きていられるが、水はそうではない。たった数日でも摂取できなければ、簡単に人を死に至らしめる。しかしながら、どうにも水分を補給した記憶がない。訝しんで首を傾げていると、どこかから低い声が聞こえてきた。
水だけで生き延びるとは、運のいいガキだ。
それは母親以外で初めて、ノストライアに向かってかけられた声だった。
「——こうして、自由になった悪魔は、助けてくれた少年の元で幸せに暮らしました。おしまい」
ぱたりと本を閉じる。何度か読んだことのある話だがページが多いため、朗読に時間がかかってしまった。
ノストライアは窓へと目を向けた。
空はまだ明るかったが、窓から陽が入る時間は終わってしまったようだ。
少し部屋が薄暗くなる。残念だが、算学の本は明日に回さなければならない。
塔の周囲は、木々に囲まれ、小さな森になっていた。時折木陰に何人か兵士が集まって、話していることがある。運が良い時は、その口元から内容を読み取ることができた。木々の隙間からは、絢爛豪華な王宮が見えた。今はまだ静かなものだが、夜になると窓という窓から光が溢れ、音楽と共に騒ぎ声が聞こえ始める。九人の王子たちによる毎夜の宴は朝まで続き、ノストライアが一年かけて手に入れるほどの量の食料が一晩で消えていく。
冷たい風が、伸びゆく影のように流れてきた。
窓にガラスはなく、木枠だけがはめられている。そのため気温が下がると、布を当てて風が入らないにしなければならなかった。
「……悪魔は、何でガキと一緒に暮らしたんだ?影から出て自由になったんだろ?」
部屋の隅の、布と髭の塊から声がした。この問いかけも、いつものことだ。影の悪魔の話を聞いた後、この男は必ずこの問いをする。
ノストライアは皿に入った麦を水ごと小さな鍋に移し、暖炉の前にしゃがみ込むと灰をかき混ぜ残していた火種を探しながら答える。
「自由になれたからこそ、自分で選んだんじゃないかな」
「……俺なら、そんな選択はしない」
「大事なものができたら、シャリアにもわかるかもしれないね」
「——……ハッ、くだらねぇ」
ふ、と姿がかき消える。
これも、いつものことだ。同じ問いをして、ノストライアの答えを嗤い、いなくなる。
その素性も素顔も正体も、尋ねたことはない。シャリア、という名前も勝手につけて呼んでいるだけだ。最初の頃は「馬鹿らしい」と相手にもしてもらえなかったが、最近では返事をしてくれるようになった。
——シャリア。『輝く者』という意味を込めている。
種火を見つけ、慎重に木屑を乗せた。
小さな鍋を沸かせる程度になったところで台を置き、麦の入った皿を乗せる。塔には夜を照らせるほどの灯りはない。陽が沈むまでに食事を済ませ、後はベッドで眠るだけだ。
ほぼ湯だけの味のない麦粥をゆっくりと食べていると、林檎が一つテーブルに落ちてきた。
「王宮の調理場から持ってきてくれたの?ありがとう」
〈……さっきの林檎みたいに毒入りかもな〉
「それは怖いなぁ。毒は、とっても苦しいから」
小さなナイフで林檎を半分に割り、片方を齧る。甘く、瑞々しく、新鮮なものだった。
「おいしい。シャリアもどうぞ」
手のひらにもう半分を乗せ、何もない空間に向かって差し出す。
〈俺には必要ない〉
「でも分けた方がおいしいんだ。母さんもよく言っていた、分け合うと良いことがあるって。商人の心構えらしいよ」
〈俺もお前も商人じゃない〉
「未来は誰にもわからない。君だって、いつか林檎を売る日が来るかも」
さぁ、と半分を差し出す。
すると目の前に黒い影が現れ、中から出てきた手が林檎を取った。
何度見ても不思議な光景だと、ノストライアは思う。
「明日は算学の勉強をしよう。君が林檎を売れるように」
〈……無駄だ。俺はここから出られない〉
その声を、ノストライアは悲しいと感じた。そして同時に、優しい、とも。
王宮から、音楽が聞こえてきた。中でどれほど乱れた宴が催されていようと、楽器が奏でる調はいつだって美しい。
ノストライアは、林檎を食べる全身黒ずくめの男に向かって、微笑みかけた。
「……いつの日か、抜け出す道を作ってみせるよ」
「無理だな。……たかが、人間のガキに」
たった数口で林檎を食べ終えた男が、再び影となって消える。
その姿は、塔に残された古い書物に登場する『パンドラクスの悪魔』によく似ていた。
——……昔々。パンドラクスに、一人の残忍な男がいた。盗みも殺しも平気でする男だった。
ゆうに二メートルは超える身の丈を持ち、丸太のような腕は兵士たちをあっという間に物言わぬ肉塊に変えてしまった。何度も討伐を試みたが、騎兵も馬ごと投げ飛ばされやられてしまう。悪魔の如き所業に、当時の王は嘆き神に祈りを捧げた。
あの悪魔から、パンドラクスをお守りください。
慈悲深き神はその願いを聞き入れ、男を影の中に閉じ込め、告げた。
百人の王の願いを、百度叶えよ。さすればお前は赦され、自由の身となる。『願いを叶える時』以外は、この城の門より中だけがお前の世界となるだろう。
神の言葉に、男は影の中で暴れ狂った。だがその封印が解けることはなく、男は『パンドラクスの悪魔』として王の願いを叶えることで贖罪の日々を送ることとなった。
書物には、その後悪魔がどうなったのかは記載されていない。
王宮の眩い灯りが、窓から室内を照らしている。夜の風は身を凍らせるものではないが、それでも薄布一枚で凌げる季節からは程遠い。
ツギハギだらけのボロ切れを、窓の枠の端と端に結ぶ。気休め程度の防寒をしてから、ベッドへと潜り込んだ。




