第6話
二人は御書室を後にし、中庭へ出た。
そこには大きな池があり、向こう岸へ渡れる園路の中程に屋根なしの小亭があった。
琥珀はそこに立ち、銀心は庭園を一望できる楼の一隅からそれを眺める。
二人以外誰もいない静かな空間を心地よい風が吹き抜ける。
琥珀は衣を少しはためかせた後、腰帯に差してあった扇子を差し出すように両手を添えた。
「今宵ただ一度の舞。 どうかその眼に刻みおかれませ」
そして楼に向かって頭を下げた瞬間風が止み、ピンと空気が張り詰めた。
琥珀が顔の前で広げた扇子で天を仰ぐと飾り紐が空中で緩やかに揺れた。
――「土のぬくみと 散りし花」
散りゆく花弁を掬い上げるように、ひらいた扇先がゆっくり弧を描く。
「なお温かく 君思う」
その流し目は胸を掠め呼吸の仕方を忘れさせる。
「行く春を 奪いし疫も 過ぎにけり」
袖が一振り揺れるたび、冷えた胸の内にも柔らかな光が差し込んでくる。
「返り花見よ 今ぞ汝らの」
くるりと回れば花弁が空を舞うかの様に麗らかな舞――
半ば欠けた月の元、幻想的な美しさを醸し出す虎姫の舞。
今はそれがたった一人の為のもの。
時折交わる視線には胸の奥を焦がすような熱を帯びていた。
その刹那、銀心は思わず息を呑む。
そして霞がかった記憶に僅かな色が蘇る。
__(何故、懐かしいと思うんだ?)
それは余りにも曖昧すぎる記憶の断片。
まるで『思い出してはならない』と言われているような息苦しさを感じた。
だが再び意識を舞に向ければ、琥珀の美しい碧青の瞳と細い指先が自分に向いていた。
それは演目上の指捌きであったが、何故か深い水底へと落ちていく自分を引き上げてくれる、救いの手のように見えた。
「銀心?」
心ここにあらずと立ち尽くす銀心の前で、琥珀は心配そうに見上げる。
『起きてるか?』とすぐ目の前で手を振られ、銀心は苦笑した。
「大丈夫だ。 あまりに美しいから見惚れてしまった」
「そうだろ? 秋安国一の美女と言われた母上から習った演目だからな」
『美しい』の言葉に、琥珀は他意など微塵にも思わない。
顔を曇らせた男の目に光を取り戻せた事が只々嬉しくて無邪気に笑うだけだった。
「そうだ、白音にも見せてみようか。 あいつもこれを見れば……」
跳ねるような足取りでくるりと回った時だ。
突然足の感覚を奪われた様に力が抜ける。
「大丈夫か?」
膝をつく既の所で銀心が抱き止めた。
琥珀は呆然と、まるで自分の身体じゃないような浮遊感に戸惑っていた。
「舞を見せるのは俺だけでいい。 あんたこそしっかり休め」
穏やかな声色。
そっと顔を上げると眦を下げた銀心の顔が直ぐ側にあった。
本気で心配しているようで、らしくない彼に琥珀はフイッと顔を背ける。
「首を取るなら今じゃないのか?」
嘲る琥珀に銀心は目を鋭くする。
「弱ってる奴を襲う趣味はない」
「え? きゃあっ!!」
横向きに抱きかかえられ、本当に身体が宙に浮いた。
同時に整った顔が間近に迫り、琥珀はひゅっと息を呑んだ。
「下ろせ! 下ろしてくれ!」
「大人しくしてろ。 落とすだろ」
「私は大丈夫だ! 自分で歩ける!」
「こんな時ぐらい甘えろ」
自分の首を狙うような人に言われたくない。
だが怒りの混じる声に琥珀は口を噤んだ。
やはり今日の銀心はどこか様子がおかしい。
胸がジリジリと痛くなるのを抑えるように、琥珀は銀心の服をギュッと握った。
「……こんな事されては調子が狂うだろ」
「何だ、嫌なのか」
不機嫌そうに問われ琥珀はグッと言葉を詰まらせるが、フッと肩を落とし小さく息を吐いた。
「優しくされて嫌な訳ないだろう。 ……ただそなたは真の婚約者ではない。 こういう事は未来の妻にしてやれ」
「別にいいだろう。 あんたを口説く為にやってるんだから」
「え……?」
思いもよらない返しに琥珀は目を丸くする。
ただ月明かりに照らされた銀心の横顔に笑みはなく、憂いを帯びていた。
妙な色香も混ざって、琥珀の顔はどんどん林檎の様に赤くなっていく。
その様子を見た銀心は、フッと意地の悪い笑みを浮かべた。
「冗談だ。 驚いたか?」
「し、心臓に悪いぞ!!」
「そうか、心臓に悪いならこの手で攻めてみるか。 それなら白虎に噛みつかれることもないからな」
「ぐぬぬぬ……!」
たちの悪いからかいに琥珀は『ぐわーぉ!』と怒りを顕にした。
そして顔を引きつらせた銀心の腹に容赦なく拳を叩き込む。
銀心が呻き力が緩んだ隙をついてそのままぴょんっと地面に降り立った。
まだ足元がおぼつかないが、グッと堪え立ち上がる。
『悪ふざけも大概にしろ!!』
琥珀は白くて丸い耳と細長い尻尾をこれでもかと逆立て牙を剥いた。
だが涙目で顔は未だ真っ赤なまま。
まるで子猫が威嚇しているみたいだ。
「ふ、くく。 くっく……」
至近距離で腹を殴られたのに、何故か銀心は肩を震わせて笑い始めた。
『何故笑うのだ!!』
「いや、くくっ……、可愛いな、と思って」
殴られたのに上機嫌に笑っている銀心を、琥珀は信じられないという目で見る。
駄目だ、もう手に負えない。
琥珀は耳と尻尾を生やしたまま、ものすごい勢いで居室へと逃げ帰った。
◇
そして同じ頃。
琥珀達がいた御書室とは別の御書室で白乃が帳簿をつけていた。
すると夜にも関わらず扉が全開に開く音が部屋中に響き渡る。
「黄花様いますか?! って姉上だけか」
「入ってきて早々に失礼ね。 なにかあったの?」
「いや、いないならいい」
駆け込んできたのは、部屋に塞ぎ込んでいた筈の白音だった。
黄花がいない事に落胆しつつも、すぐに部屋の最奥にある書庫の鍵をガチャガチャと音を立てて開けた。
そこには諸家から献じられた家譜の写本が家名ごとに黒漆の箱に収められている。
「こんな夜中に探し物?」
「うん。 姉上も手伝って!」
「いいけど、何を探すの?」
「西に住む皇族の家譜」
「西の皇族? 何で?」
「帰ってからずっと考えてたんだ。 銀心の事」
いつになく真剣な表情の白音に、白乃は眉を寄せながらも御所室の入口に内鍵をかけた。
「何かあったの?」
「うん。 今日あいつを見てて、気になる所があったんだ」
「気になる所?」
「あいつ、玉佩の扱いに慣れ過ぎてる」
「……そんなの、単に練習してただけじゃないの?」
「いや、一般人ができる芸当じゃない。 そもそも玉佩なんて誰もが持てるものじゃないだろ」
白音の指摘に白乃は灰茶色の瞳を大きくした。
「……じゃあ玉佩をもってる皇族に雇われた、または本人が元皇族だったって事?」
「うん。 どっちにしろ姫様がいうように大物が関わってる」
白音は整然と立ち並ぶ書棚から一箱一箱家名を確認してその紐を解いていく。
そして取り出した写本に目を走らせた。
「だからってこんな膨大な量から関わってる皇族を探すって無謀じゃない?」
「うん。 でも銀心が元皇族だった可能性を疑うなら、出生は限られるだろ?」
「出生……? あ、紫の瞳! だから西の方?!」
「正解!」
察しの良い姉を見て白音はにかっと笑った。
そしてすぐに写本に視線を戻した。
帝都側は主に黒や茶、または青系の目の色が多いが、西側に向かうほど赤味が強くなっていく。
それは古くから赤は『邪気を払う色』と呼ばれているからだ。
そして中間色の紫は月季帝と縁の深い色であり、『紫雲』が瑞兆の現れといわれるほど『邪気が近づけない色』でもあった。
その為赤や紫の瞳をもつ一族は西に多く住むと言われている。
「皇族側に敵がいるなんて考えたくないけど、なんか胸騒ぎがするんだよ……」
普段は眠りこけて護衛にもならないのに、こういうときは勘が冴える白音を白乃はよく知っている。
そんな弟の渋面に白乃はやれやれと溜息をついた。
「確かに一般人の中から探すより遥かに楽だけど、あんたのその探し方じゃ埒が明かないわ」
「え?」
「待ってなさい」
そう言って白乃は一旦部屋を出る。
そして数分後、家名や人名などがずらりと並んだ一枚の紙を白音に手渡した。
「はい。 今私が覚えてる範囲で紫の目を持つ人の家名を書いたから参考にして頂戴」
「うそ! 姉上そんな特技あったの?!」
「あのね、祝儀品の目録は私が管理してるのよ? だから相手がどんな方だったかも頭に入ってるわ」
「さすが姉上!! ありがとうございます!!」
「私も手伝うから早く探しましょう。 そして黄花様にも相談しなきゃ」
「うん!」
「できれば……見つかってほしくないけど」
「……だね」
側近達が主君の幸せを願うのは当然の事。
最近の琥珀の表情を間近で見ているからこそ、二人の関係が壊れていくような事があってほしくないと願わずにはいられなかった。
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