第10話
「なぁ黄花、ちょっとお願いがあるんだが……」
桂邑へ向かう準備も整い、明後日出発する事に決まった日の夜のこと。
湯浴みも済まし寝る支度を終えた琥珀は、琥珀の寝室を出ていこうとする黄花を引き止めた。
「何でございましょう」
「私と一緒に酒を飲んでくれないか?」
てっきり銀心に会いたいとでも言うのかと思っていた黄花は思いもよらない誘いに目を丸くする。
「黄花は酒を飲んで、私は酸梅湯で付き合うという意味だ! その、黄花と一緒に飲みたいな、と思って……駄目か?」
こてんと小首を傾げ甘えるように琥珀が尋ねる。
幼い頃から仕えている帝姫の可愛い誘いを断れる訳がない。
黄花は目を細め、でも淡白な声色で返す。
「ならば私も酸梅湯でお付き合い致しましょう。 先にお休みになっていて下さい」
「ありがとう」
琥珀はホッとした表情で笑った。
それは黄花にしか見せない顔だった。
すっかり夜も更け、部屋の明かりは油灯が一つと窓から差し込む月明かりだけ。
その橙色の柔らかい光がふっと揺れると、淡い紅色の飲み物が入った瑠璃杯を二つ持って黄花が姿を見せた。
酸梅湯は勲した梅と甘草を煮詰め、金木犀の香りを移した甘酸っぱい飲み物。
一口飲むと、それだけで胸のつかえを落とすような心地になる。
琥珀はふっと一つ息をついて目を伏せた。
「黄花、本当にすまない」
「……何をです?」
「色々、私の我儘に付き合わせてしまった」
「全くですよ。 特に暗殺者を花婿にしようとするなんて、ご両親が聞いたら何を言われるか」
「だろうな。 私もびっくりだ」
そう言いながらも琥珀の表情はこれまでの事を思い返すように柔らかだった。
黄花はそんな表情をさせるあの男が少し疎ましく思いつつも、見ることはないと思っていた主の顔が見れて嬉しくもあった。
だからこそ伝えねば、と黄花は自分の瑠璃杯をそっと卓に置いた。
「あの男の出自におおよその見当がつきました」
黄花の言葉に琥珀は動じることなく酸梅湯を口にする。
「そうか。 やはり西の出の者か?」
「はい。 名は『冬銀雲』。 冬家の長男です」
「冬家……?! あの『裏切りの一族』と呼ばれた彼らの末裔か?!」
「名前が似ているというだけで当の本人は記憶喪失ですから定かではありませんが」
「……そうだな。 それに冬家は皆亡くなったと聞いた」
「えぇ。 ですので写本にも冬家の名は一人も残っておりません。 ですが、書庫に保管してある家譜には『冬銀雲』の名だけが残っていたのを白音が見つけました」
淡々と語る黄花に、琥珀は目を大きくした。
冬家は桂邑の治める皇族、端木家直下の元貴族。
桂邑に住む男達は半兵半農で、悪鬼の襲来に備えて辺境軍とはまた別に辺境衛府として鍛えられている。
そんな彼らを労い統治していたのが冬家の当主で、領民達から多くの信頼を得ていたのも彼等の方だった。
そして彼らの評判は帝都でも広まり、先々代の帝姫はこの功績を称え冬家に玉佩を授けていた。
しかしそんな彼等が突如異質な行動に出たと噂が立った。
冬家の者が桂邑で悪鬼の祠を破壊し逃げ出したというのだ。
『そんな筈がない』と誰もが耳を疑い、母も自らの目でそれを確かめに走ったが、母の口から真実を聞くことは叶わなかった。
そして事態が収束した後ようやく、領民の証言によりそれが事実だった事が判明。
領民達を捨てて逃げ出した彼らは『裏切りの一族』と言われるようになったのだった。
「あの時銀心だけが運よく逃げ延び、排斥派について姫様を狙う側になったという線が一番濃いでしょう」
真っ当な考察に琥珀は目を伏せた。
「写本を書き換えてまで彼の存在を消したのだから、確かにあり得るな。 だが、それなら何故彼にその記憶が無く、背に呪文が掘られているのだ?」
「それも偽りで、初めから我々を謀っているのかもしれませんね」
「……それもそうだな」
そう言いながらも琥珀の目には昼間の彼の姿が焼き付いて離れなかった。
本当に偽っているなら、何故わざわざ排斥派を裏切ってまで事実を伝えようとしたのか。
何故自分を排斥派の目から遠ざけようとしたのか。
何故自分を引き留めようとしたのか。
(そう、彼の御霊はまだ汚れていない……)
琥珀は瑠璃杯をそっと傾けた。
酸梅湯の中の氷が灯りを受けてほの暗くきらめいた。
「……姫様、如何なさいます?」
「今はそっとしておこう。 我々を謀っているのなら必ず桂邑で本性を表す筈だ」
「……それもそうですね」
琥珀の気持ちを汲んでか、黄花はこれ以上銀心について憶測を語る事はしなかった。
さすがは長年連れ添った女官。
そんな優しい黄花に琥珀は笑みを向ける。
「せっかく敵の方からのお誘いだし、こっちから尻尾を掴んでみせよう。 ただ一つ別の気がかりもあるんだ」
「気がかり?」
「銀心の呪紋だ。 裏切りで発動するということは排斥派に『道家』の者も関わっているとは思わないか?」
「確かにそうですが、彼らは悪鬼を祓う道士の集まり。 他人の行動を制限するような行いは禁忌とされています。 ましてや生きた身に紋を刻むなど以ての外です」
「となると正統派ではない者の仕業か……。 うーん、頭が痛いな」
「ならばその道の従事者に伺うのが一番かと」
「……となると……あやつか? まともに話ができるだろうか」
「まともにできなくても何とかするのが貴女様の使命です」
「うぅ……、胃まで痛くなりそうだ。 だが何とかせねばならんな」
琥珀は苦いものを流し込むように残りの酸梅湯を一気に飲み干し、氷だけになった瑠璃杯を卓に置いた。
余程苦手な相手なのか、まだ苦虫を噛み潰したような顔をしている。
気の利く女官はそこへ新しい酸梅湯を注いだ。
「それほど迄にあの男を慕っておいでなのですね」
呆れたように黄花が指摘すると、琥珀は勢いよく白くて丸い耳と細長い尻尾を出して顔を真っ赤にさせた。
『ち、違う! 私はただ帝姫としての使命を果たそうとしているだけだ!』
「そんな耳や尻尾を生やして言われても、只の言い訳にしか聞こえませんよ」
『違う違う! 最近上手く制御が出来んのだ! だから決してあやつを慕ってるなんて……』
認めてはいけない。
認めれば今の関係を壊し自分の命を差し出してしまいそうになるからだ。
だが自分には国を守るという使命がある。
一人の男に命を捧げるなどあってはならない。
そんな琥珀の葛藤を見透かすかのように黄花は目を細めた。
「……どんな立場であっても、思うだけなら自由です。 それすら無下にするという事は、共に過ごした時間さえも否定する事になりましょう」
『……それは、嫌だ』
銀心の大胆すぎる行動にはいつも驚かされるが、不意に見せる優しさには胸が締め付けられそうになる。
そして自分の身を呈して守ろうとしてくれた事には感謝しかない。
一ヶ月程の間に、随分と知らない自分を引き出された気がしていた。
「で、どうなさいますか?」
『ちゃんと……大事にする』
「それでこそ帝姫です」
黄花はフゥ、と小さく溜息をつき笑みを零す。
だが琥珀の表情は冴えない。
『……黄花は嫌じゃないのか? 私が……銀心の事を考えるなんて……』
しゅんと丸い耳と尻尾を垂らして聞いてくる琥珀に、黄花は思わずフフッと笑った。
「そこはとっくに諦めておりますよ。 貴女様がこうして私を話し相手に選んで下さるだけで私は十分幸せです」
『只の話し相手ではない。 私の中ではいつだって黄花が一番だ!』
「……それはそれは、身に余る光栄です」
眦を下げる黄花につられ琥珀も破顔する。
そして今度は琥珀が黄花の瑠璃杯に酸梅湯を注いだ。
瑠璃杯に残っていた氷が揺れてカラン、と音を立てる。
「あらあら、帝姫に注いで頂くとはなんて贅沢なのでしょう」
「二人きりなのだから、今は『身内』でいいだろう」
「それもそうですわね、琥珀様」
名前を呼ばれて琥珀は満足げに笑みを浮かべる。
それを見た黄花も、琥珀を慈しむような優しい目をしていた。




