99. 甘い提案 (あまいていあん)
エリセルとカイルは、
街の外縁に沿ってゆっくり歩を進めていた。
二人の後ろには、
いつものようにカイルの護衛が数名、
距離を取って静かに付き従っている。
話題は相変わらず、
カイルが好んで持ち出す――神秘の品々についてだった。
「それでですね。昔は、こんな物もあったそうですよ。
腱に触れるだけで反応する、正体不明の結晶です!」
身振り手振りを交えて興奮気味に語るカイルに、
エリセルは半分笑いながら頷いた。
「本当に不思議ですね。
いったい、どこでそんな物ばかり見つけてくるんですか?」
「それがまた……趣味でして」
話が盛り上がっていた、その瞬間。
ドォォォンッ!!!
遠くから、巨大な爆発音が響いた。
エリセルはびくりとして、
反射的に振り返る。
「何か起きたみたい……!」
その声に、
カイルも同じ方向へ視線を固定した。
無言。
ほんの、ほんの一瞬。
その場に立ち止まったまま、爆音の方角を見つめる。
「……心当たりのある場所なんですか?」
恐る恐る問いかけるエリセルに、
カイルは短く息を吸った。
「あ……いえ。
そういうわけではありません」
軽く首を振り、
そしてすぐに話題を変えるように言った。
「それより、エリセルさんは今、船乗りの生活をしているのでしょう。
……大変ではありませんか?」
予想外の質問に、
エリセルは首を傾げてから答えた。
「うーん……たまに大変なこともありますけど。
あちこち回るのも悪くないし、
面白い物もよく見られるので。
私は、けっこう満足してます」
その言葉に、カイルはどこか惜しむような笑みを浮かべた。
「……そうですか。残念ですね」
「え?」
エリセルの目が丸くなる。
カイルは一度、咳払いをして付け足した。
「んん……実はですね。
エリセルさんを……スカウトできないかと考えていたんです」
「え……?」
思いもよらぬ提案に、
エリセルの目がさらに大きく開く。
「ですが今の生活にも満足しているのなら、仕方ありません。
この話は、ここまでにしましょう」
「……スカウト、って言いました?」
エリセルが慎重に尋ねると、
カイルは短く笑って頷いた。
「ええ。まあ……
もちろん、エリセルさんの気持ちを動かすのは簡単ではないでしょうが」
エリセルは一歩遅れて、
唇をきゅっと結んでから、小さく口を開いた。
「……それじゃ。
もし私がスカウトされたら……どんな仕事をするんですか?」
カイルは少し考え、
顎を軽く撫でながら言った。
「そうですね……まずは我が家の競売場で、
品を鑑定する仕事を任せてみようかと……思っています」
「この街は、ご存じの通り
毎日のように大量の品が行き交います。
偽物を見抜くのが、悩みの種でしてね」
「エリセルさんのギフトがあれば、
大きな助けになると思いまして」
その言葉に、エリセルは少し緊張した顔で頷いた。
「……でも、また船に乗らなければならないかもしれませんね」
その瞬間。
「待ってください!」
エリセルが足を止めた。
カイルは意外そうに目を細め、彼女を見る。
「……どうしました?」
エリセルは呼吸を整え、
慎重に言葉を選んだ。
「カイル様の下で……
働くのも、ありかもしれないって……思いました」
カイルの表情が、
かすかに驚きの色を帯びる。
「おや。そうですか。
それで……結論は出ましたか?」
エリセルは小さく頷いた。
「はい。
そんな……光栄なお役目を任せていただけるなら……」
「……ぜひ、やってみたいです」
カイルの目元が、わずかに緩む。
「……意外ですね」
「私はもちろん……大歓迎です」
一度息を整え、落ち着いた声で続けた。
「ただ……船長さんとは相談が必要でしょうね」
エリセルは少し顔を逸らして言う。
「あ、もちろん……私の能力のせいで
反対されるかもしれないですけど……」
喜びと不安が、彼女の表情に交差する。
しかしカイルは静かに首を振り、微笑んだ。
「それは心配いりません」
「金銭が必要なら、十分に補償いたします」
「他のものを望むとしても、
できる限りこちらで合わせましょう」
エリセルは驚いたように瞬きをした。
「……そこまでしてくれるんですか?」
カイルは真剣な目で答えた。
「もちろんです。
この街の経済の流れの中で、
エリセルさんのような人材は、とても重要ですから」
「どうか……ぜひ、
こちらへ来ていただきたい」
「本当に……ありがとうございます……」
エリセルは深く頭を下げ、礼を述べた。
その時。
後ろにいた護衛の一人が、
カイルの傍へ近づき、小声で何かを囁いた。
カイルの表情が一瞬、硬くなる。
だがすぐに平静を取り戻した。
「エリセルさん、申し訳ありません。
用事ができましてね。少し行ってきます」
「もしかして……探していた物が見つかったんですか?」
「いえ。そういうわけではありません」
カイルは笑って首を振る。
「とにかく、
船長さんとはぜひ一度、お話ししていただきたい」
「それと、二日後に開かれるプライベート競売。
必ず出席してください」
「滞在先には、
あらかじめ人を向かわせておきます」
「はい! ありがとうございます!」
エリセルは両手を大きく振り、
晴れやかな笑顔を見せた。
足取りは軽く、
表情はすっかり上気している。
小さな足音が、
街の路地の奥へと少しずつ遠ざかっていった。
エリセルは宿へ向かい、
弾むように歩いていた。
ふと、
正午に落ち合うはずだったライネルのことが頭をよぎる。
「……私がいなかったら、
適当に気づいて戻ってくるよね」
小さく呟き、
今日市場へ出た本来の目的を、そっと置き去りにしたまま
宿の近くへと近づいていく。
◇
その頃。
カイルは、爆発音のした
街の一角へ向かっていた。
現場へ着く頃には、
先に到着していたネバスが足早に寄り、状況を報告する。
「坊ちゃま。
どうやら……襲撃があったようです」
カイルの眉がわずかに歪む。
「……商品は?」
「全て……無事です。しかし……」
ネバスが言葉を濁した。
カイルの声が低く沈む。
「……何だ。言え」
「警戒中だった人員の一部がやられ、
施設の一部も破壊されました」
「それから……
管理者の部屋からマスターキーが消えたそうです」
瞬間。
カイルはきつく目を閉じた。
指先が小さく震える。
「……一度、屋敷へ戻る」
「侵入者を目撃した者は全員、
洗い出して屋敷へ連れて来い」
「承知しました、坊ちゃま」
ネバスは短く一礼すると、
闇の中へ静かに身を溶かした。
カイルは血走った目で、
歯を噛みしめる。
「……ちくしょう。
このカイル様のビジネスに、よくも手を出したな」
「見つけ出して……粉々にしてやる」
拳に力がこもる。
そして、到着した馬車へ乗り込んだ。
ガタン。
冷たい鉄の扉が閉まると同時に、
彼の怒りは一瞬だけ、深く底へ沈んだ。
◇
「船長! 船長!」
宿の入口を勢いよく開けて、
エリセルが慌てて船長を探した。
「なんだ、その騒ぎようは。エリセル」
「あっ、船長! その……
お話があって!」
頬を赤くしたエリセルは船長を呼び出し、
人目のない場所で、カイルから受けた提案を説明した。
「うーむ……だが、うちの船には
お前の力が必要なんだがな」
船長が重く口にすると、
エリセルはすぐに被せるように言った。
「カイル様の下で働けば、
不思議で高価な品を、本当にたくさん鑑定できます!」
「それに、一番大事なのは……
船長が探している物も、
優先して回してもらえるようお願いできます!」
船長は腕を組み、困ったように眉を寄せた。
「うむ……」
「それと!
金銭面の支援もしてくれるそうです!」
「これ、完全に……
両方得する話じゃないですか?」
エリセルは期待に満ちた声で言った。
「まあ……お前の言う通りにいくなら、悪くはない」
船長はゆっくり頷く。
「よし。
出航は少し延ばすとしよう」
「その代わり、
その“カイル”という方と一度、直接会う場を用意してくれ」
「もちろんです、船長! 本当にありがとうございます!」
エリセルは手を合わせ、
抑えきれない笑顔をこぼした。
すると船長が、ふと首を傾げて尋ねる。
「ところで……
一緒に出たライネルはどうした?」
「確か、同じ市場に出たんじゃなかったか?」
「あ……それが……」
エリセルは遅れて焦ったように頭を掻いた。
「嬉しくて……
先に戻っちゃいました」
「でも、この街にもだいぶ慣れたみたいだったし……
ちゃんと戻ってきます。たぶん!」
船長は眉をひそめ、
しばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……そうか。戻るだろう」
正午を大きく過ぎた頃。
宿の廊下に、聞き慣れた足音が静かに響いた。
エリセルは、
何かを感じたようにすぐ外へ飛び出す。
そして。
遠くからゆっくり歩いてくるライネルの姿が目に入った。
「ライネルさん……!」
エリセルは申し訳なさそうに駆け寄り、
慌てて言葉を探す。
「本当にごめんなさい……
正午に会う約束だったのに……」
「私、浮かれて……先に宿に戻っちゃって……」
「だから、明日のお昼……
高い所で奢ります! お詫びに……」
――しかし。
ライネルは何も答えなかった。
ただ静かに。
エリセルの手に、何かを握らせると、
無言のまま部屋へ入っていく。
「……すごく怒ってるのかな……」
エリセルは小さく呟き、
手に渡された物を見下ろす。
「これ……何?」
そっと掌を開くと、
そこには小さくて重い金属片があった。
奇妙な形に加工された装置。
触れただけで、
軽く扱ってはいけない存在感が伝わってくる。
「……まさか……これ……」
エリセルの目が、
じわじわと大きくなっていった。
◇
日が傾き始めた遅い午後。
カイルの屋敷へ、荷馬車が一台到着した。
人夫たちが降り、
木箱を慎重に運び出してカイルの秘密の部屋へ運び込む。
箱の中から、一人の男がぐったりと転がり出た。
満身創痍の姿を見たカイルは、
唇を震わせて顔を歪める。
「自信があると言ってアジトの仕事を任せたら……このザマか」
男は荒い息をしながら、やっとのことで呟いた。
「も……申し訳……ありません……」
カイルは怒りを含んだ目で一歩近づき、
男の頬を軽く蹴った。
「使えない犬は、どう処理するのが正しい?」
男は床に座り込み、身を縮める。
声は震え、指は床を掴んだままだ。
「お許しください……二度と……
こ、こんなことは……」
男は床に額を押しつけ、
泣き混じりに懇願した。
「ぜ、絶対に……もう……!」
カイルはしばらく見下ろしてから、
静かに頷いた。
「いいだろう。……なら、もう一度だけ信じてやる」
ゆっくり背を向け、
机の下の引き出しを開けて黒い箱を取り出す。
コトン。
箱が開くと、
中の物が鈍く光を放った。
赤く輝く魔力石――マグレイ。
その魔力を宿した首飾りと、腕輪の一対が
不吉にきらめいている。
「お前に……少し貸してやる。
今度こそ、ちゃんとやれ」
男は涙を溜めた目で、深く頭を下げた。
「は、はいぃ……必ずぅ……!」
カイルは静かに微笑む。
「三日以内に。
できれば生かして連れて来い」
「そいつが絶望する顔を、直接見たい」
そして顔を上げ、
背後で待機していたネバスを呼んだ。
「ネバス。こいつを適当に治療して、
すぐ投入できるよう準備しろ」
「承知しました、坊ちゃま」
ネバスは倒れた男に近づき、
肩を担ぐように腕を引っ掛ける。
よろめきながら引きずられていく男。
その背後で、鉄の扉がガチャンと閉まり、
秘密の部屋は再び静寂に包まれた。
カイルは秘密の部屋の奥。
薄い灯りだけが瞬く、湿った地下へゆっくり歩いた。
足が止まったのは――
錆びた鉄格子の前。
苛立ち混じりの息を吐く。
「まだ口を割らないつもりか?」
低い声。
だが、いつ爆ぜてもおかしくない怒りが奥に潜む。
「どうやって妹の方を抜き出したのかは知らんが……」
鉄格子の中。
血まみれで横たわるエルフの少女を見下ろす。
「結局、お前は俺の手の中から逃げられない」
鉄格子の向こうのエルフは、ぴくりとも動かない。
体は傷だらけ。意識も薄い。
それでも――
彼女は、何も言わなかった。
代わりに聞こえるのは、
短く、不揃いな呼吸だけ。
カイルは眉を寄せ、顎を上げて冷笑する。
「……いい。
黙るのが、お前の最善だと言うなら……」
鉄格子を一瞥し、
ゆっくり口角を上げた。
「その先がどうなるか……直に見せてやる」




