100. エルフの事情 (えるふのじじょう)
カチリ。
軽い金属音とともに、エルフの少女の首に巻かれていた拘束具が外れた。
「……よし。本物の鍵だ……」
エリセルは安堵の息を吐き、
傍に立つ船長を見上げた。
「どこで手に入れたのかは知らんが……
ひとまず良かったな、エリセル」
船長は慎重に拘束具を持ち上げ、
その粗雑な造りを確かめるように呟いた。
初めて出会った時とは違い、
エルフの少女は今はそれなりに整った服を着せられていた。
だが、まだ。
彼女の存在を知っているのは、船長を含めてエリセルとライネルの三人だけ。
宿の中を自由に歩かせるには、
無理がある状況だった。
「耳……切られた部分は、治せないんでしょうか……?」
エリセルが恐る恐る尋ねると、
船長はしばし黙って視線を外した。
そしてゆっくり首を振り、
低く、断固とした声で答える。
「治療自体はできるだろう。だが……この街の中では絶対に駄目だ」
「下手をすれば……俺たちが隠していたって事実まで
上に全部バレる」
「そうなれば責任を取らされるかもしれん。
俺たち全員がな」
「じゃあ……適当な島に下ろすのはどうですか?」
エリセルの提案に、船長は少し黙り、
それから首を横に振って言い切った。
「それでも……耳を戻せない限り、結局また捕まる」
短い一言。
エリセルの表情は、すぐにしょんぼりと沈んだ。
船長は重い足取りで部屋を出て、
彼女の横を静かに通り過ぎた。
扉が閉まった後、
外から船長の声が聞こえる。
「おい、ライネル! ゆっくり休めたか?」
その名を耳にした瞬間、
エリセルはぱっと立ち上がり、扉を開けて外へ飛び出した。
「ライネルさん!」
虚ろな目で彼女を見ていたライネルは、
疲れたように笑って手を上げ、挨拶した。
「ごめんなさい……
戻る前に会おうって言っておいて、先に宿に入っちゃって……」
エリセルは深く腰を折り、
心からの謝罪と感謝を伝える。
「いいよ。誰であれ……結局、見つけてくれて良かった」
そしてすぐに、彼は問うた。
「それより……あの子はどう?」
エリセルは少し俯きながら答えた。
「とりあえず拘束具は外せました。
でも、まだ……何も話してくれなくて……」
二人は自然に歩き出し、
エルフの少女のいる部屋へ入った。
ライネルは、
慎重に少女の前に腰を下ろす。
「……少しは楽になった?」
優しく声をかけても、
少女は相変わらず俯いたまま、床を見つめていた。
「首の拘束具は外しました。
でも……切られた耳は、まだ治せてなくて……」
エリセルは少女に近づき、
そっと髪を持ち上げた。
傷跡のように残った耳の断面が覗き、
顔をしかめて言う。
「このまま外に出たら……危ないって」
ライネルは頷いた。
「……まずは、もう少し落ち着いて。
それから、また話そう」
「……うん。そうしよう」
二人は静かに向きを変え、
扉の方へ向かった。
その時だった。
「……お姉ちゃんが……」
かすかな声。
少女の口が、初めて開いた。
「……え?」
ライネルとエリセルは足を止め、
引き返した。
少女の前に座り直し、
ライネルが穏やかに言う。
「もう少しだけ……
君のこと、教えてくれる?」
「わたし……リエナ。
リエナ、です」
少女は小さな声で、
自分の名を恐る恐る告げた。
エリセルの顔に、すぐ明るい笑みが浮かぶ。
「リエナ……いい名前。とっても綺麗だよ」
ライネルも頷き、柔らかく続けた。
「……どうしてこんなことになったのか、
話せる範囲でいい。教えてくれる?」
「無理なら、今すぐじゃなくていい」
エリセルがそっと補足する。
「私たちが……
どこまで助けられるか、知りたいから」
リエナはしばらく唇をきゅっと結び、
小さく震える指先を見下ろした。
◇
一年前。
滅びる前のエルフ王国の首都『エルペンシア』近郊の小都市、エレフレン。
「お姉ちゃん!」
愛らしい少女が両腕を広げ、
姉の胸に勢いよく抱きついた。
「リエナ!
だから、遠くへ行くなって言ったでしょ」
シルバレンは、からかうように
リエナの背中をトン、と軽く叩く。
「でも、こんな綺麗な石を見つけたんだよ?」
リエナは小さな掌にきらきら光る鉱石を乗せ、
無邪気に笑った。
姉の心配など気づきもしないその笑みに、
シルバレンは結局、口元を緩めて首を振る。
「ほら、帰ろう」
「もう?
もう少し遊んでからじゃダメ?」
「今日は早く帰らないと」
「なんで?」
頬を膨らませるリエナに、
シルバレンは静かに村の方へ目を向けた。
「族長さまが、今夜……
村で大きな会議があるって言ってた」
「だから外に出るなって。
みんな静かにしてろって」
「じゃあ、パパとママも家にいるの?」
「違う。
両親は会議に出る」
「えー……なにそれ。
私たちも行っちゃダメ?」
「ダメ。
村の大人だけって決まってるんだって」
「今日はお姉ちゃんと家で大人しく待とう」
リエナは名残惜しそうに、
小さな石をきゅっと握り直した。
そうして姉妹は、
少し早い一日の終わりへ向けて家へ戻った。
「おかえり!」
扉が開くと、
母が嬉しそうに振り返った。
「お父さんは?」
リエナが尋ねると、
母は柔らかく笑って言う。
「うん、部屋で会議の支度をしてるわ」
「ママ、ママ!
今日ね、この石を見つけたの!」
リエナは手の中の小石を、
誇らしげに差し出した。
「ん? それ、宝石?
見せてごらん」
母は少し首を傾げ、
受け取って確かめる。
「初めて見る感じの石ね……
どこで拾ったの?」
「森の奥!
滝へ行く手前、でっかい岩の近くで見つけたよ!」
リエナは、にこにこしながら頷く。
その時、
部屋から父が出てきて、外套のボタンを留めた。
「今日の会議は遅くなるかもしれない。
家をしっかり守っていなさい」
扉の前で父は、
二人の娘を愛おしそうに見つめた。
「はーい!」
姉妹は並んで手を振り、
両親は家を出ていった。
扉が閉まると、
リエナは首を傾げて尋ねる。
「ねえ、お姉ちゃん。
なんで会議って夜なの?」
「さあ……帰ってきたら聞いてみる?」
「うん!」
短いやり取りのあと、
姉妹は寄り添うように身体を預け、
長い夜を一緒に過ごした。
そして、
あたたかかった一日の終わりで、
ゆっくり眠りに落ちた。
「ふぁ……」
伸びをしながら、
先に目を覚ましたのはリエナだった。
「ママ! パパ!」
昨夜、両親を待ちながら眠ってしまったせいで、
目を開けるなり呼んでしまう。
でも。
返事はない。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
リエナはぼさぼさの髪のまま、
姉のシルバレンに駆け寄って肩を揺すった。
「ん……両親、帰ってきた?」
「違う! 違う!!」
リエナの必死な声に、
シルバレンは目をこすって跳ね起きた。
「……まだ?」
二人は同時に、
何かおかしいと感じた。
窓から差し込む日差しは、
明らかに朝を過ぎて強くなっているのに。
外が、静かすぎた。
異様なほどに。
「何か……起きたんじゃないよね?」
シルバレンは慎重に、
扉へ歩み寄った。
ギィ。
扉を開く音すら大きく感じるほど、
村全体が静まり返っていた。
リエナは姉の背に隠れ、
小さく囁く。
「なんでこんなに静か……?」
シルバレンは唇を引き結び、
外へ一歩踏み出した。
そして村に向かって声を張る。
「お母さん! お父さん!」
「族長さま!」
――だが。
返事はない。
人の気配も。足音も。
何もなかった。
空っぽの村。
姉妹は言葉を失い、
その沈黙の道を慎重に歩いた。
おかしかった。
どの家の扉も開け放たれ、
子どもすら一人も見当たらない。
その異常な静けさが、
リエナの顔に不安を刻む。
「……お姉ちゃん……」
リエナがそっと手を握ると、
シルバレンは小さく息を呑みつつ、言い聞かせた。
「大丈夫、リエナ。
みんな、きっと遠くへは行ってない」
姉妹は互いを強く抱きしめた。
震える鼓動を隠すために。
その時。
遠くない森の方から、
小さなざわめきが聞こえた。
その音は――
昨日リエナが赤い石を拾った、
滝の近くだった。
「……まさか、昨日の場所……?」
シルバレンとリエナは、
草むらを抜けて様子を確かめた。
そして。
そこで二人の身体が凍りついた。
リエナが叫びそうになった瞬間、
シルバレンは慌てて口を塞ぐ。
「んっ……!」
リエナの目に涙が滲み、
小さな肩が震えた。
目の前にいたのは、見知らぬ者たち。
奇妙な装い。
そして、この土地の者ではない気配。
彼らは周囲を探り、
何かを探しているようだった。
さらに。
その中の何人かの頭には、
短いもの、長いもの――角が生えていた。
『……魔族』
シルバレンは一瞬で理解した。
見た目は人間に似ていても、
それは警戒を下げるための仮面にすぎない。
本質は、
人とは似ても似つかぬ存在。
何より、
頭に生えた一、二本の角が、それをはっきり証明していた。
「リエナ。今から、よく聞いて」
シルバレンは静かに、
だが強い声で言った。
「……私たちは、故郷を離れる」
「……どういうこと?
おうちは? ママとパパは?」
リエナの目尻が赤くなる。
シルバレンは一度目を閉じ、
ゆっくり首を横に振った。
「両親とは……
あとで会えるようにしよう」
「やだ……
今会いたい……」
リエナは、
ざわめきのする方へ身体を向けようとした。
するとシルバレンが、
咄嗟に手で目を覆う。
「なに、なんで目隠すの?
苦しいよ……」
リエナは小さく身じろぎして抗議したが、
シルバレンの手は震えて離れなかった。
「……“いち、に”って言ったら、
お姉ちゃんと一緒に後ろへ下がって、村を抜けるの」
「リエナ、わかったね?」
リエナの肩が、
ゆっくり落ちた。
そして小さく答える。
「……わかった」
そうして姉妹は、
足音を殺し、
村の裏道を駆け出した。
けれど。
走りながら、
リエナはふいに進路を変えた。
「……リエナ!?」
彼女の足は、
姉ではなく――“家”へ向かっていた。
「リエナ!」
シルバレンが必死に呼んでも、
リエナはもう家の中へ入り込んでいた。
「お姉ちゃん、ちょっとだけ!
持っていくものがあるの!」
仕方なく、
シルバレンも後を追って家へ入る。
「……赤い石!」
リエナは部屋の隅から、
大切にしまっていた石を両腕で抱えた。
「……それを取りに戻ったの?」
シルバレンは信じられない顔で聞いた。
「うん。
気に入ったから……持っていきたい」
リエナは無邪気に笑って頷いた。
「……はぁ。わかった。
じゃあ、急いで行くよ」
――だが。
玄関。
影が、すうっと落ちた。
悪意に満ちた気配。
シルバレンとリエナは、
敷居の向こうに立つ“それら”を見た瞬間、
その場で凍りついた。
「……!」
そして。
リエナが気を失い、
次に目を覚ました時。
彼女は、まるで別の場所に横たわっていた。
薄暗い石床。
灯りはちらつき、揺れている。
天井は見えない。
「……ここ……どこ……?」
リエナの視界に最初に映ったのは、姉だった。
シルバレンは、
誰かと低い声で話していた。
その言葉は――
リエナには、まったく理解できない言語だった。
魔族の姿はなく、
姉の表情には複雑な感情が絡み合っている。
「……お姉ちゃん……」
リエナは必死に手を伸ばし、
シルバレンはようやく振り返った。
しばらくして、
シルバレンはリエナを慎重に抱き上げた。
そして。
前方で、淡い光が漏れる空間へ向けて、
重い足取りで歩き出した。
こんにちは、作者です。
こうして皆さまに直接ご挨拶の文章を書くのは、今回が初めてです。
まずは、ウェブ小説100話まで変わらず読んでくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。
この作品は、約1年前に私が頭の中で思い描いていた物語を、メモ帳に勢いのまま書き留めたことから始まりました。
初稿はかなり粗く、語り手の区別や誤字脱字もひどかったため、どこかに公開するのは正直恥ずかしく思っていました。ですが、ちょうどAIの助けを借りて読みやすさや表記を整えることができ、そのおかげで勇気を出して連載を始めることができました。
主要なプロットはもちろん私自身の想像力100%で作ったものであり、登場人物の名前や地名の案など、一部の部分では多少の助けを受けました。
AIという優秀な助手のおかげで、かなり読みやすい作品になったと思います。
閲覧数はそれほど多くありませんが、自分で書いた作品だからこそ、自分の好みにとても合っていると感じています。
1年前に書いておいた文章ではありますが、予約投稿で1話ずつ公開されるたびに、私自身も一人の読者として欠かさず読んでいます。
とにかく、自分の想像力を形にするきっかけになって、本当に良かったと思っています。
100話公開時点を基準にすると、残りはおよそ50話ほどあります。
今は現実の生活が忙しく、執筆の時間を取るのが難しくて、週に1話書くことさえ簡単ではありません。
それでも、遅くても少しずつ書き続けて、一つの小説を最後まで完成させることを目標にしています。
この小説は大きく2部に分かれており、これから迎える第1部の最後である150話あたりで、もう一度ご挨拶できればと思います。
それまでは、1日1話ずつ更新できるよう、引き続き予約投稿をしていく予定です。
読んでくださってありがとうございます。




