87. 海上の物語 (かいじょうのものがたり)
「……私、やめる」
「……え、む……何言ってんだよ、アイラ」
モネロは慌てて言葉を詰まらせた。
「ここまで大変だったろ……ら、ライネルは無事だって」
「きっと戻ってくる途中なんだ……!」
「別の場所へ移動して、行き違ったらどうするんだよ!」
今なら、彼女の気持ちを戻せるかもしれない。
そう思って、必死に引き留めようとする。
けれど――
アイラは、どんな慰めも受け取らなかった。
「……ライネルのことだけじゃない」
アイラの瞳が、静かに揺れた。
「フェイオから聞いたの」
「エルフの村が外部の侵略を受けて、ひどいことになってるって」
「それに……子どもの頃、私に精霊魔法を教えてくれた師匠が」
「そこにいるかもしれない」
「だから……行ってみたい」
「もちろん……私がハーフエルフだから、受け入れられるか分からないけど」
「……いや、アイラ。だからって……」
モネロの声が、だんだん弱くなる。
「俺は……俺はどうすれば……」
「……お前まで行ったら……」
語尾が震えた。
本気だった。
耐えられると思っていた限界が、崩れる音だった。
「……だから」
アイラは柔らかく言った。
「モネロ、あなたが残って」
「もしライネルが戻ってきたら――」
「私のところへ、必ず探しに来て」
「……分かった?」
「……いや、アイラ。いったい何を考えて……!」
モネロが背中に向かって叫ぶ。
「そんな遠い場所まで、どうやって行くんだよ!」
「馬車は? 地図はあるのか?」
アイラはゆっくり足を止め、
胸元から小さく折り畳まれた紙を一枚取り出した。
風で、紙がかすかに揺れる。
「……それ、何だ?」
モネロは慎重に近づきながら訊いた。
数日前。
“クラミシュの槍”と呼ばれる四人組のチームは、全員が学校を退学した。
彼らが王国学校へ入学した理由は、もともと
「禁断の区域」を通行できる資格を得るためだった。
だが――
その条件は、卒業とはまったく関係がない。
二次入学試験を突破すれば証票が与えられ、
それだけで目的は達成される。
クラミシュの槍のメンバーは、最初から正統な冒険者ではない。
正確に言えば、彼らはウォーカー(Walker)。
闇の中を歩く者。
「影の冒険者」と呼ばれる存在だ。
地上へは表に出せない、
危険で汚れた仕事を請け負う。
暗殺。
盗掘。
秘密裏に行われる依頼。
表沙汰にできない案件。
それが彼らの専門だった。
無法の世界を生きる者たち。
けれど、そんな彼らでさえ
国家の仕組みという壁は、簡単には越えられない。
身分を偽って国境を越えるのは難しくない。
だが「闇」にも、名声は確かに存在する。
その中で影響力を行使し、
貴族の汚い政治争いに関わり、
それに付随する情報を得る。
それが、彼らの現実だった。
だからこそ、
B級冒険者の資格に未練はない。
王国学校へ入学した経歴だけで、必要な身分は十分だった。
実際、彼らは最短でC級冒険者の資格を取得している。
多くの冒険者にとって
「夢」と呼ばれる、この学校への入学。
だがクラミシュの槍にとっては、ただ
面倒事を押しのけるための道具に過ぎなかった。
去る当日。
フェイオはアイラを静かに呼び止めた。
言葉もなく、折り畳まれた紙を一枚取り出し、
アイラへ差し出す。
「……雑種のお前でも」
「償う機会くらい、あっていいだろ」
冷たく断定的な声。
だがその中には、確かに何かを渡そうとする意志があった。
「我らエルフの最後の聖地――」
「エルカディアンへ通じる手がかりが記された情報だ」
フェイオは目を細め、短く息を吐く。
「俺たちのチームは、もう王都に用はない。……行く」
「お前が本当に自分の根を探したいなら」
「そして、エルフ種の繁栄を願うなら」
「ちっぽけな力でも、貸せ」
言い終えると、フェイオは鋭くアイラを一瞥し――
何も言わず、四人の仲間と共に学校の外へ消えた。
そして今――
アイラはその紙を取り出し、長いこと見つめていた。
指先に、少しずつ力が入る。
紙は、ゆっくりと皺を刻んでいく。
頭をよぎるのは、
胸の奥が嫌になる、クラミシュの槍の連中の顔。
「……私が何をしたっていうの!」
唐突な叫びに、モネロが目を見開いた。
「ど、どうしたんだよ……急に……」
大切な仲間を失って。
そして、よく分からない言葉で罪を背負わされる。
それら全部が、アイラの内側を押し潰していた。
「B級冒険者?」
「それが、そんなに大事なの?」
「仲間ひとりも守れないくせに!」
「それに――」
「よく知らない相手に、いきなり恨み言をぶつけられて……」
「もう、こんなの……やりたくない!」
初めて見る、アイラの爆発だった。
モネロはその場で固まった。
言葉が出ない。
そして――
アイラは最後に一言だけ残す。
「エルフの村へ行く」
そう言い切ると、彼女はその場を去った。
その日以降、
学校でアイラの姿は二度と見えなかった。
そして――
モネロは、もう彼女を引き留められない現実に、静かに擦り減っていった。
胸のどこかで、ずっと握りしめていた小さな火種が、
細く揺れていた。
「……ライネル」
モネロは静かに呟く。
「どこにいるんだよ……」
「お前がいてくれたら――」
「アイラが、こんなふうになるはずなかったのに」
いつからか、
彼の視界にも闇が滲み始めていた。
希望だと信じていた時間は、少しずつ薄れ、
残ったのは――
長く引き延ばされた沈黙だけだった。
◇
「おい。起きろ」
低く太い声が耳を叩いた。
ライネルは目をこすり、ゆっくり身を起こす。
「……もう着いたんですか?」
「“もう”だと? まだ三日はかかる」
「起きろ。飯の時間だ」
ライネルを起こした男は、
髭をもじゃもじゃに生やした大柄な男だった。
声も大きく手も荒いが、どこか情のある口ぶり。
彼らが乗っているのは――
王都、ひいては国家名を冠するル・テルビアン王国へ向かう船。
王国の首都から最大の港へ向かう直行の商船だ。
この船の主は、
ライネルの故郷、ル・テルビアン王国出身の商人。
本来は荷だけを運ぶ商船で、
一般の乗客は乗れない。
だが――
ラフランス王国の交易管理官が直々に頼み込み、
ライネルだけが例外として許可された。
正確に言えば、
「運が良かった」と言う方が近い。
狭い船室。
荷運びのための船。
だからライネルは当然、積み荷のスペースで世話になっていた。
寝心地は悪い。
それでも――
幸い、ライネルは船酔いしない体質だった。
静かに息を整えていると。
「……り、陸は……」
弱々しい声がした。
「……まだ……遠いのか……?」
ライネルは顔を向け、
荷物の隙間に埋もれている小さなドラゴンを見下ろした。
「……あと三日くらい、ってさ」
「うそ……だろ……」
カミの瞳が揺れた。
「ライネル、早く魔力を使って……」
「俺の姿を変えてくれ……」
「もう無理だ……!」
「冗談言うな、カミ」
ライネルはそっと持ち上げる。
「無駄な魔力は使わない」
「少なくとも……こんな所ではな」
カミはぐったりしたまま、
服の山の中へずるずると沈んだ。
「……これは拷問だ……」
小さなため息混じりの愚痴。
ライネルは軽く笑い、
船室の扉を押して外へ出た。
甲板。
天気はいい。
日差しは強すぎず、弱すぎない。
穏やかな潮風が、ライネルの肩に柔らかく乗った。
船は時おり、小さな波で揺れたが、
ライネルにはむしろその揺れが落ち着くように感じられた。
その時――
背後で、船員たちの話し声が聞こえた。
「なあ、あの伯爵領から出るっていう“アレ”さ」
「ん? ああ……最近、王国内で流行ってるっていう赤い石か?」
「そうそう。魔力を増幅させるとか何とか――」
「アクセに嵌めてる奴、けっこういるらしいぞ」
「冒険者が魔物相手に便利だって話もあるしな」
「……そこまでかよ。マジか?」
「マジだって。こないだ商団が取引したら、」
「小っさい石ひとつで金貨八十枚超えたってさ」
「……そんなに……?」
ライネルの瞳が、静かに揺れた。
赤い石。
その言葉が、波音より先に耳に刺さった。
知らんぷりで通り過ぎるつもりだった。
だが――足が止まる。
ライネルは結局、そちらへ歩み寄った。
「……すみません」
控えめに声をかけると、船員の一人が振り向いた。
「“赤い石”って……どういう話なんですか?」
「ん? お前も商売に興味あるのか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて」
「似た物を探してて……」
「赤い魔力石、か?」
「……正確な名前は分かりません」
「ただ、魔力を宿した赤い宝石で」
船員はライネルをじっと見た。
それから、胸元のC級冒険者バッジに気づき、短く笑う。
「ラフランスに長くいたのか?」
「いえ……でも、何か?」
「いやな。最近は流行りっちゃ流行りなんだが」
「お前みたいな冒険者が知らないほど、隠し事でもない」
肩をすくめて続ける。
「最近、フレシアン伯爵の領地で鉱山が見つかったらしくてな」
「そこから出る石だ」
「誰かが魔力を流し込んだわけでもないのに」
「最初からかなりの魔力を内包してるって話だ」
「それを持った冒険者や一般人まで――」
「力が上がっただの、身体が軽いだの」
「噂がよく回ってる」
横の太った船員が口を挟む。
「そのせいで、伯爵領の近くにいたゴブリンの群れも減ったとか」
「周りの冒険者が強くなりゃ、そりゃそうなるわな」
「それにしても伯爵様は運がいいよな」
「腕の立つ冒険者も勝手に集まるし」
「石を求める連中まで寄ってくる」
「金も入る、魔物も減る。……いい事づくめだ」
話が途切れた瞬間、
ライネルは海の方へ視線を逃がした。
フレシアン伯爵。
どこかで、一度は聞いた名。
そして赤い宝石。
(誰も注入してないのに、魔力を宿してる)
その言葉が、
冷たい指みたいに、首筋を撫でた。
ライネルは浅く息を吸う。
始祖の宝石。
その単語が、頭の中で静かに持ち上がる。
(……関係がある)
確信じゃない。
それでも。
似た色。似た性質。
なら――調べる理由は十分だ。
ライネルはそれ以上は問わず、
軽く頭を下げて去ろうとした。
だが。
「おい、若い冒険者さんよ」
背後から呼ばれて、ライネルが足を止めた。
船員たちの顔が、どこか硬い。
「……ちょいと、こっち来な」
◇
日が傾く頃――
甲板の一角で、妙に騒がしい輪ができていた。
「ははは! そんな冒険を?」
「信じられねえな!」
赤ら顔の船員たちに囲まれて、
ライネルは曖昧な笑みを浮かべて座っていた。
いつの間にか人が増え、
十人ほどが集まっている。
輪ができると、酒も飯も回ってきた。
「俺が若い頃はな……龍を見た気がするんだよ!」
「本気出せば一撃だったんだがな! ははは!」
荒唐無稽な武勇伝が、あちこちから飛び出す。
もちろん中には、元冒険者もいた。
だがせいぜいD級以下だ。
大半は、
冒険者をやめて交易へ転じた連中。
そんな中で、
ライネルが経験した“本物”の戦いの断片が、うっかり漏れるたび。
周りはそこに話を乗せたくて、
わらわらと声を重ねてくる。
「俺も似たのがあった!」
「ゴブリン三匹まとめて――!」
「山で雪男に襲われかけてよ!」
酒気。話。笑い声。
夜風と一緒に、
甲板には落ち着かない熱が広がっていった。




