86. 再び戻る道 (ふたたびもどるみち)
「――どうせ、入学試験はもう無理だよな?」
ライネルがカミを見下ろしながら言った。
「この前言ってた、冒険者学校のことか?」
「……うん。もう時間が経ちすぎた」
ライネルは、船着き場の方から遠ざかっていく城壁を見ながら答える。
「それに……あいつら、ちゃんとやってるかなって心配にもなるし」
「なんだよ。王国に向かうってのに、心配事が増えてんのか?」
カミは鼻で笑って尻尾を揺らした。
「数日間おとなしかったから、忘れたのかと思ったぞ」
「そんなわけないだろ」
ライネルは小さく笑う。
「俺にとって……大事な仲間だから」
「……それに、冒険者学校もそうだけどさ」
ライネルは一度言葉を切った。
「……俺たちとは別に、動いてる“導き手”がいるってこと、忘れちゃいけない」
カミは視線を落として頷く。
「その辺も、ちゃんと考えてる」
ライネルは短く息を吐き、続けた。
「今すぐ頼れそうな所が……」
「……アルゼンさんに会って、相談するべきかな」
「アルゼン? 誰だそれ」
カミが眉を寄せて訊く。
「王国学校に、俺と仲間を推薦してくれた……王国調査団の団長だ」
「俺の周りで起きてる色々を……知ってるかもしれないと思って」
「……なあ、ライネル」
カミの声が低くなる。
「始祖の宝石は、国の枠を越える代物だ」
「本当に信用できる相手じゃない限り、情報は漏らさない方がいい」
「……どれだけ、お前を見込んでくれた人でもな」
カミはゆっくり首を横に振る。
「結局、お前と王国を天秤にかけたら……王国に傾くに決まってる」
「でも……」
ライネルが静かに口を開く。
「俺たちの持ってる情報が、少なすぎる」
「王国ならきっと……少しでも手がかりがある」
「だから、仲間と合流して――なんにせよ……」
カミがその言葉尻を切った。
「それと、ライネル」
「お前の力。大丈夫なのか?」
ライネルがびくりとして振り向く。
「……なんだ。全部、聞いてたのか?」
「当然だろ」
「ドラゴンの聴力を舐めるなよ」
ライネルはため息を吐く。
「じゃあ、説明しなくて済むな。助かる」
カミは静かに笑った。
「で、その力……完全に捨てるつもりか?」
ライネルはゆっくり首を振る。
「……それを捨てたら、俺には何も残らない」
カミが口元に笑みを作る。
「いい判断だ」
「……どういう意味だよ?」
「別に。なんでもない」
「新しい力を手に入れるのも難しいだろ。……ほどほどに使うのが正解ってだけだ」
ライネルは自分の両腕を見下ろした。
そこにはまだ、馴染みがあるのにどこか異質な気配がまとわりついている。
(俺が、俺でいられるのは……いつまでだ)
◇
ちか、ちか。
闇に沈んだ、どこかの空間。
薄い灯りが、規則もなく点滅している。
その中で、誰かが荒い息を吐きながら駆け込んだ。
「イグナール様!」
立ち止まり、深く頭を下げる。
「東……海の方から報告です!」
「始祖の宝石が放つ波動を、確認したとのことです!」
玉座に座る男が、ゆっくりと崩れていた姿勢を正した。
「……人間界で活性化した信号は、偽りではなかったか」
男は玉座の肘掛けを、
とん、とん、と指で叩く。
「……で、他には?」
報告者は口を噤んだ。
それを眺めていたイグナールが、目を細めて口角を上げる。
「何だ。もったいぶらずに言え」
「し、始祖の宝石の使用者と推定される者が……人間ではあるのですが……」
「……魔族の魔力を扱っているそうです」
「……ふむ?」
イグナールの眉が僅かに動く。
「どういう意味だ?」
「……我ら魔界の者、ということか?」
「確証はありません。ただ……確かに魔族の魔力を用いた、と」
「……まさか」
「フラミエラの側か……?」
イグナールは指を唇に当て、しばし深く考え込むように黙した。
そして続く一言。
「……もう一つある」
「その者と行動を共にするドラゴンがいる、と」
「詳しい話は……ダゴスの勢力が直接、イグナール様に謁見して話したいそうです」
「……今すぐか?」
イグナールの目が細くなる。
「現状、ダゴス側にも被害があり難しく……収拾がつき次第、参上すると」
「……分かった」
「フラミエラの方にも、いずれ情報は入るだろう」
「急がねばな」
短く頷き、命じる。
「ご苦労。下がれ」
「はっ、イグナール様!」
片膝をつき礼を尽くしていた男は、身を低くしてから素早く玉座の間を出ていった。
重厚な廊下を抜け、
重く閉じられた部屋へ入ると、静かに扉を閉める。
誰もいないはずの部屋。
だが男は、確かに“誰か”と話していた。
伝言の魔法。
闇の中、淡く点滅する魔力灯の下で、男は低い声を投げる。
「魔力石の工作は、順調か?」
『えええ、もちろんですよ。
近いうち、良い知らせが届くはずです』
雑音混じりの声が、空中に滲むように広がった。
『思った以上に愚かな人間どもが、嬉々として分け合い……早く広がっています』
『馬鹿な奴ら……』
『自分で首を絞めていくのを見ると、興が湧いてきますねぇ』
「……余計な言葉は要らん、シェルタン」
その瞬間、部屋の気配が冷えた。
シェルタン。
かつてボブル村で。
ライネルが冒険者になる前から、人間界へ潜伏していた存在。
影の組織へ深く潜り込み、人間界の情報を集め、
“キメラ”が完成すると――自分のボスであったレジドを自ら殺し、
そのまま姿を消した男。
そのシェルタンだった。
『はいはい~、ガイナ様。ははっ。お任せください。ふふふ……』
シェルタンの声が、魔法陣の向こうから漂う。
「……それと」
「キメラの方はどうだ。妙な動きはないか?」
『今のところ、特にありません』
『自分の力に酔ってるのか、周りにはあまり興味がないみたいでして』
『人間の伯爵を手駒にするとは……器用ですよねぇ』
『お見事です~』
ガイナの目が細くなる。
「……あの鉱山の場所」
「確か、フレシアン伯爵の領内だったな?」
『はい、その通りです。ですが外部には採掘場の位置を徹底して隠し、周囲も監視してますんで問題ありません』
「よし」
ガイナは静かに立ち上がる。
「指示があるまで……目立つ行動はするな、シェルタン」
「まもなく、我らの望む時が来る」
「……そしてキメラが妙な動きを見せたら、即座に報告しろ」
『はいはい、もちろんです、ガイナ様』
魔法越しの短い会話は、冷たい沈黙の中で終わった。
ガイナは一人、低く呟きながら席へ戻る。
軽薄で、どこへ転ぶか分からないシェルタンを――彼は決して信用していない。
だが、
人間のように完全に擬態できる魔族は、現世では稀だ。
そして、その適任もまた――シェルタンしかいないことを、ガイナは理解していた。
◇
明るい陽光が、大きな窓を抜けて校舎の中へ差し込む。
透明なガラスを通った光の筋が、床に静かに落ちる。
「今から……およそ三百年前の話です」
教師の声が、静かに教壇を満たした。
「当時、魔王とその五人の腹心が、世界を揺るがしていました」
「それに対し、人間界では“勇者一行”が現れ……長い戦いの末、魔王は姿を消したと伝えられています」
「死んだという説もあれば、封印されたという説もあり……別の世界へ飛ばされたのでは、という推測もあります」
「腹心五人のうち二人は戦死、二人は逃亡に成功、そして最後の一人は……行方不明」
「そうして魔界は、しばらく静かになった」
「魔王も、その配下も……まるで約束でもしたかのように、誰一人として動かなかったのです」
「しかし時が流れ……勇者一行は次々と世を去り、彼らが残した強大な力も、次第に薄れていきます」
「そしてその頃から――奇妙にも、魔界の気配が再び感じられるようになった、という話が広まりました」
「人々の間では“魔界が再び目覚めつつある”という噂も流れ……」
「そして、その“日”に備えるために作られたのが――ここ」
「冒険者学校です」
「今もなお、来る日に備えて運営されている、というわけですね」
「……では、次に――」
「アイラ・ブレンテル!」
「は、はい?!」
突然の指名に、アイラは慌てて立ち上がり頭を下げた。
「す、すみません……」
「……私の授業が、そこまで退屈か?」
「……いえ。少し……考え事を……」
「座りなさい」
「……はい……」
アイラは静かに椅子へ腰を落とす。
B級冒険者候補生になって、もう三か月。
彼女は今も、戻ってくると信じる仲間のために、学校の席を守っていた。
そして彼女を隣で静かに案じている仲間――モネロ・ビクスフォン。
三人で王都まで旅してきた彼ら。
だが今、その間には――一つ、席が空いている。
その空白は、思った以上に大きかった。
(……どうして戻ってこないの、ライネル)
残された仲間のモネロだけでは、
埋められないほど――大きすぎる穴だった。
◇
王国学校の中。
静かな廊下を歩く二人。
いつからだろう。
互いに、ろくに言葉を交わさなくなったのは。
アイラは以前より覇気を失ったようで、
何事にも大きく反応しない。
それに、
遠くを見る癖がついた。
モネロはそんなアイラを心配していたが、
彼女にしてやれることが見つからなかった。
ただ、そばにいるだけ。
アイラは最近、
一日に一度ほど――ヘレニアの副官、ペトロの執務室を訪ねている。
だが。
扉を閉めて出てくる彼女の顔には、
いつも活気がなかった。
そして。
その後に続いたアイラの言葉は、
モネロの心を深く沈めた。
「……私、やめる」
「……え? な、何言ってるんだよ、アイラ」
モネロは動揺して言葉を詰まらせる。
「ここまで頑張ってきたし……ラ、ライネルは無事だって」
「きっと戻ってくる途中なんだよ……!」
「どこかで行き違ったら……どうするんだよ!」
今すぐにでも彼女を引き留めたかった。
まだ、間に合う気がして。
けれど。
アイラは、どんな慰めも受け取らない。
「……ライネルのことだけじゃない」
アイラの瞳が、静かに震えた。
「フェイオから聞いたの」
「エルフの村が外部の襲撃を受けて、大変なことになってるって」
「それに……子どもの頃、私に精霊魔法を教えてくれた師匠が」
「そこにいるかもしれないって」
「だから……行って確かめたい」
「もちろん……私がハーフエルフだから、受け入れられるか分からないけど」
「……いや、アイラ。それでも――」
モネロの声が、だんだん弱くなる。
「俺は……俺はどうすれば……」
「……お前まで行ったら……」
語尾が震えた。
本気だった。
耐えられると思っていた限界が、崩れる音だった。
「……だから」
アイラは柔らかく言った。
「モネロ、あなたが残って」
「もしライネルが戻ってきたら……」
「私のところへ、必ず探しに来て」
「……分かった?」
モネロは答えられず、
ただ彼女の背中を見つめる。
遠ざかる足音。
決まってしまった別れ。
そのすべてが、今この瞬間、現実になっていく。
王国もまた、
何か言えない理由を抱えたままライネルを密かに捜索していたが、
今のところ成果はない。
「……ねえ、モネロ」
沈黙の中で、アイラが静かに口を開いた。
モネロはその言葉に、
待っていたかのように振り向く。
「なに? どうした?」
「私に、何を手伝えばいい?」
モネロは本気だった。
沈んだアイラが、もう一度――以前みたいに明るく戻れるなら、
何だってできる気がしていた。




