85. 帰り道 (かえりみち)
「もう……終わりだ」
老女は手を離し、ゆっくりと息を吐いた。
ライネルは無意識に手を握ったり開いたりしながら言った。
「……今の……何をしたんですか?」
老女は淡々と答える。
「お前の中で眠っている魂の封印を、少しだけ強く結び直したんだ」
「完全な封印じゃない。しばらく目覚められないよう押さえつける程度だ」
「……じゃあ、もう出てこなくなるんですか?」
その瞬間、老女の杖が――とん、と床を叩いた。
「何を言っておる!」
噛みつくように言い放つ。
「どこまでいっても応急処置だ」
「よく聞け」
「今、私が掛けた術は――お前が過度に魔力を使わない、という前提でしか保てん」
「借りて使い続ければ、意志があろうとなかろうと、身体は少しずつそいつを欲しがる」
「魔法を使えば使うほど封印は弱まり――そのうち、完全に砕ける」
「だから……」
老女は目を細め、断固として告げた。
「決して、魔力を使い過ぎるな。それが、お前がお前でいられる唯一の道だ」
ライネルは真剣な顔で、深く頭を下げた。
老女は静かに立ち上がる。
杖を「とん」と突く音だけを残し、無言で扉へ向かった。
扉がきぃ、と開き、細い隙間風が部屋に差し込む。
「……お前がお前でいられるうちに、よく考えて決めろ」
短い言葉だけを残し、老女は扉を閉めて去った。
再び、一人。
ライネルは静かに俯き、ゆっくりと自分の両手を見下ろした。
「……でも……」
唇が勝手に動く。
「この力がない自分なんて、想像したことがない」
それは本音だった。
自分が使う力。
あの歪な魔力。
誰かにとっては恐怖で災厄で、
誰かにとっては期待で祝福だった、それ。
ライネルにとって、その力はただ“自分そのもの”で。
今さら手放すなんて、存在そのものを否定するのと同じだった。
(だけど……)
(このまま使い続けたら……いつか必ず……)
(あいつに喰われる)
膝の上で手をきつく握る。
握りしめた手には、まだ力が宿っていて、
その内側で生きる異質な気配が、ゆっくり……ゆっくり……蠢いていた。
確かに、この力は役に立つ。
この力がなければ生き残れなかった戦いもあった。
守れなかった人もいた。
けれど同時に、
その力はライネルを蝕む毒でもあった。
(……お前は俺を助けてるんじゃない)
(いつでも俺を呑み込む準備をしてるだけだ)
部屋は静まり返り、
外の賑やかな村の音さえ、ひどく遠く感じられた。
その日の夕方。
時間はゆっくり……
あるいは意図的に残酷なほど、流れていった。
ライネルに残された一日は、
これまでで一番、長く重かった。
◇
賑やかな村。
海に面した小さな港町は、
昨日の嵐が嘘みたいに、人の気配で満ちていた。
商人が屋台を広げ、
漁師が網を干しながら大声で笑い、
子どもたちが砂浜を駆け回る。
誰もが明るく、平和そうな顔をしていた。
その中で、ライネルは
村の通りの端を選ぶように、静かに歩いた。
(……この人たち)
(昨夜の怪物のこと、分かってるのか?)
思考はどうしても海へ向かう。
何事もないように揺れる水面。
けれど、その下にはきっと――まだ終わっていない何かが潜んでいる。
そのとき。
「おい、ライネル」
聞き慣れた声。
ライネルの懐から、トカゲみたいな顔がひょいと覗いた。
「不安か?」
ライネルは黙って水平線を見つめ、
小さく頷く。
「……うん。思ったより……大きなことに巻き込まれた気がする」
「俺はただ……」
「静かに旅をして、未知を知っていく……そういう冒険者になりたかったんだ」
カミはすっとライネルの頭の上へ上がり、
尻尾を揺らしながら言う。
「まあ、静かに旅するのは無理そうだけど……」
「未知を知るって意味じゃ、十分じゃないか?」
カミは頭の上でとぐろを巻くように丸まりながら続けた。
「思い通りに全部うまくいく方が、逆につまらないだろ?」
「分からないことがあって、危ないこともあって……それでも一つずつ越えていけば」
「あとで振り返った時、今の方が——ずっと意味がある」
「……カミ」
ライネルはゆっくり手を上げ、
頭の上の小さなドラゴンを、両手で掴んで引き下ろした。
「うわっ、いきなり何……何だよ!」
カミは手の中でじたばた暴れる。
「下ろせ! 何してんだ!」
ライネルは小さく笑って言った。
「いいから黙って、村の人に見られないよう隠れてろ」
「目立ったら、モンスターが出たって噂になるかもしれない」
そう言って、カミを懐に押し込んだ。
「うわっ! 中は息苦しいんだって!!」
「入りたくない! 出せ!!」
ライネルは返事をしなかった。
ただ静かに顔を上げ、もう一度遠い海を見た。
波は相変わらず穏やかで、
潮風は変わらず鼻先をかすめる。
ヒュウゥゥン――!
夜空を裂くように上がった花火の音。
続けて「パン」と弾け、鮮やかな光が散った。
星の間に広がる淡い桃色、金色、青い閃光。
その下で、人々は感嘆の息を漏らして空を見上げていた。
「うわぁ……」
子どもも大人も、笑い声と歓声で通りが満ちる。
ライネルとカミもまた、
その輪の端で、夜空を並んで見上げていた。
「……なかなか、いいな」
カミが小さく呟くと、
ライネルも思わず頷く。
「……うん」
しばらくそうして気を取られていた、そのとき。
ライネルの肩に、誰かの手がとん、と触れた。
「……!」
反射的に振り向く。
そこにいたのは、見覚えのある老人。
数日前、依頼を持ちかけてきた、あの老人だった。
穏やかな表情だが、どこか肩の力が抜けた気配がある。
「王国へ戻る船は、明日の朝に手配できました」
ライネルの目が少し大きくなる。
「あ……そうですか」
老人は静かに頷き、続けた。
「おかげで、村の者に気づかれず、騒ぎも起こさず、行事を終えられました」
「本当に感謝します」
そう言うと同時に、
老人はゆっくり、丁寧に頭を下げた。
ライネルは慌てたように手を振り、首を横に振る。
「い、いえ。そこまでされると……」
「無事に終わったのが何よりです」
「おかげで、なかった船も用意できた」
「互いに良い結果になった——そういうことでしょう」
「……ちぇっ」
そのとき、ライネルの懐から、
小さな不満げな声がこぼれる。
「俺が片づけたのに、手柄はライネルが持ってくんだな。まったく、納得いかねぇ」
ライネルは小さく笑い、
顔を伏せたまま、懐をちらりと覗いた。
「……ごめんごめん」
「忘れないよ」
小さな声だったが、そこにははっきりとした本音があった。
カミはしばらく黙り、
少ししてから、本当に小さく
「……ちぇっ」
と、もう一度舌を鳴らした。
夜空には、また一つ花火が咲いた。
◇
夜明けが来た。
昨日の火花と歓声、賑やかな笑い声は、もう静かな朝日に溶けていた。
窓の隙間から差し込む光が、
ライネルの額をくすぐる。
「うぅ……はぁ……」
大きく伸びをする。
昨夜の緊張が解けたせいか、身体が妙に重い。
その一方で、
カミは相変わらず“弄ばれ中”だった。
「さあ、今度は空を飛ぶ竜! ひゅいーん!」
「……はぁ……」
少女の想像力に終わりはない。
その想像力は、カミの手足を容赦なく振り回す。
目を細め、
両腕を掴まれたまま後ろへ反らされるカミ。
ライネルと目が合った。
「……ぷっ」
ライネルはこらえきれず吹き出す。
カミは何も言わず、
死んだような目でライネルを睨んだ。
痛みを越えた“悟りの顔”。
「……な、なあ……いつ出発だ、ライネル……?」
「……ここでずっと暮らす?」
「……はぁ?! 正気か?!
俺がこの状態なの見て言ってんのか?!
今すぐ出ろ!! 早く行こう!!」
ライネルはくすっと笑い、ふざけたまま膝を軽く叩く。
「なんだよ、カミ。案外あの子のこと好きなんじゃないか?」
「絶対違う!!
あいつは……小さな悪魔だ……
可愛い顔してる怪物なんだよ……」
そんなやり取りの間にも、
外では出航の準備が静かに進んでいた。
コン、コン。
扉を叩く音。
やがて扉がそっと開き、見慣れた老人の顔が現れる。
「……そろそろ、移動の時間です」
聞き慣れた発音、聞き慣れた言葉。
ライネルは起き上がり、頷いた。
「はい。準備はできてます」
隣で中年男も軽く頭を下げた。
言葉は通じなくても、挨拶は通じる。
その瞬間。
「ぱっ!」
カミが、待ってましたとばかりに、
一瞬でライネルの肩へ跳び乗った。
小さな身体に宿る、誇らしさと解放感。
誰が見ても、拷問から解き放たれた捕虜の顔だ。
「助かった……」
その一言に、ライネルは苦笑し、肩を軽く叩いてやる。
家の外へ出ると、
玄関先に少女が両手いっぱいに何かを抱えて立っていた。
中年男が横で小さく説明する。
言葉は全部は分からなくても、気持ちは十分伝わるような表情だった。
少女は楽しげに手を振る。
言いたいことが山ほどありそうなのに、言葉はまるで噛み合わない。
それでも、その無邪気な笑顔は、
どんな言語よりも温かかった。
「本当に、ありがとうございました」
ライネルは包みを受け取り、頭を下げた。
「機会があれば……必ずまた来ます」
「それまで、どうか元気で」
中年男は分かったように、ゆっくり頷く。
ライネルは最後に少女を見た。
まだ興奮した顔で手を振り続ける彼女へ、静かに手を上げて応えた。
「じゃあね」
その挨拶に合わせて、
カミも肩の上から小さく顔を出す。
「……達者でな、人形使い」
小さな呟きは幸い届かず、
少女はカミにも満面の笑みで手を振ってくれた。
老人が静かに踵を返し、
三人はゆっくりだが確かな足取りで、
王国へ向かう船着き場へ向かった。
「ふぅ……」
さらさらと、潮風が頬を撫でる。
その風に髪が揺れ、
ライネルは一瞬、目を閉じた。
柔らかな空気。
塩の匂いの混じる海の香り。
遠くで聞こえる海鳥の声まで。
どれも静かに、妙に胸をくすぐった。
(故郷へ帰るって……こんな感じなのか)
誰かが長い間待っていてくれたみたいな気持ち。
高鳴りが肩から、ゆっくり広がっていく。
桟橋の端。
老人はまだそこに立っていた。
ライネルは船の方へ向かいかけ、
老人に一歩近づく。
「ここで失礼します」
老人は頷くと、
慎重に懐から何かを取り出した。
小さく古びた布袋。
その中から出てきたのは、淡く光を含む銀色の指輪だった。
「魔法堂から、渡すように言われています」
「あなたに……必要になる、と」
「この指輪は、魔力の“火花”を安定させるそうです」
ライネルは驚いた目で指輪を受け取る。
「……こんなものまで……本当にありがとうございます」
老人は無言で頷き、
静かに手を上げて別れの挨拶をした。
ライネルもそれに合わせ、
小さく、けれどはっきりと手を振る。
「お元気で」
そうして船へ乗り込むライネル。
カミはすでに肩の上で居場所を決めたように身体を丸め、あくびをしていた。
「もう眠いのか?」
「波の音は……眠気を呼ぶ呪文なんだよ……」
やがて船長が出航の合図を出し、
船は大きく揺れながら向きを変えた。
風に乗り、
波に沿って。
王国へ向かう航海が、始まった。




