121.焦げた世界樹 (こげたせかいじゅ)
「ユイス。
これ以上の行動は許さない。」
シレンは重いメイスを両手で握り、
空へ向かって高く掲げた。
魔力の振動が広がると、地面が低くうなって震える。
「……ふうん。」
ユイスは目を細めたまま、シレンを見下ろした。
「私は〜、シレン様とはできれば
やり合いたくないんですよお。
怖いお方ですからねえ。」
その背から、二対の黒い翼が広がった。
ひと羽ばたき。
ユイスの体が跳ね上がるように宙へ浮かび、
世界樹のてっぺん近くまで跳躍する。
「逃がすか!」
フェイオが叫ぶ。
「アーススピア!」
大地が一斉にうねり、錐のように鋭く固まった土の槍が幾筋もユイスへ向かって飛んだ。
「おおお、これはこれは。」
ひゅん、ひゅん、ひゅん、ひゅん、ひゅん!
空気を裂く軌道。
だがユイスは体をひねり、すべてをかわしてみせる。
「危なかったですねえ〜
本当に当たってたら痛そうでしたよお〜?」
おどけた笑みを浮かべたまま、ユイスは指先を軽く振った。
「さあ、それじゃあ……
儀式を締めくくるとしましょうかねえ〜〜?」
世界樹の頂へと達した彼は、ゆっくりと両腕を持ち上げた。
赤く染まった空。
血のような色へ変わった満月。
その月光が、ユイスの体へ染み込んでいく。
全身から赤い魔力が噴き上がった。
そして。
ざっ。ざっ。
ぐるるる。
きいっ。
四方から。
茂みのあちこちから。
不気味な気配が押し寄せてくる。
「……インプだ。」
フェイオが歯を食いしばって言った。
「そうだ。魔族の下級悪魔だ。」
ルイドアンが双剣を抜く。
ぎゃあああっ!
きりりりりっ——!
一匹、二匹。
十。二十。三十。
茂みをかき分け、いびつな翼と鋭い爪を持つインプたちが次々と姿を現す。
その数はなおも増えていった。
「いったい……
あんな小悪魔ども、どこから連れてきたんだ……?」
フェイオが歯を食いしばったまま呟く。
周囲ではインプたちが押し寄せ、狂ったように暴れ回っていた。
だが。
アイラを中心とした三人は、息つく暇もなく持ちこたえていた。
ルイドアンは一瞬で三体を斬り伏せる。
きん! がん!
シレンは背後を守りながら、メイスでインプを弾き飛ばし、フェイオは魔力を操って広範囲のインプを押し返した。
その最中でも。
アイラはまともに立ち上がることもできず、なおも体をぶるぶると震わせていた。
「シレン!」
フェイオが叫ぶ。
その声と同時に、彼は空の上、世界樹の頂を指差した。
シレンは黙って頷く。
やがて彼の体の周囲に、聖なる炎が揺らめき始めた。
両手がユイスへ向けられる。
「ジャッジメント・フレイム!!」
激しい聖炎が空を裂き、ユイスへ向かって突き進む。
「……!」
ユイスの両目が大きく見開かれた。
だが。
どおおおん!!
聖なる炎は、何かにぶつかって砕け散った。
炎の欠片の向こうに、ぼんやりと現れる輪郭。
やわらかな淡茶色の髪。
静かな夜のように落ち着いた瞳。
額に突き出た三本の角。
背に広がる四対の悪魔の翼。
その翼の背後には、空中に浮かぶ五つの魔法陣。
圧倒的な姿だった。
「……!!」
フェイオの顔が強張る。
シレンの眉間にも、即座に警戒が浮かんだ。
「四対の翼だと!?」
シレンが叫ぶ。
その目には怒りと恐れが同時に走っていた。
「あいつ……
高位魔族だ!」
その言葉に、フェイオとルイドアンの表情が同時に凍りつく。
「何だって……? 高位魔族?」
ルイドアンが愕然と呟いた。
「もう繋がったのか? 魔界と?」
「いや。」
フェイオが歯を食いしばって首を振る。
「まだだ。
月はまだ完全には黒くなっていない……!」
そして即座に叫んだ。
「アーススピア!」
足元から噴き上がる幾十もの土の槍。
渦を巻くようにテラニコへと襲いかかる。
テラニコは無表情のまま、短く呟いた。
ひゅう。
背後に浮かぶ五つの魔法陣が、不吉な赤い光を帯びて暴走し始める。
「ヘルファイア・インフェルノ。」
どおおおおおん!!
その瞬間。
血のように赤い炎。
五本の火柱が空から地へ、槍のように一行へ降り注いだ。
「全員、下がれ!!」
シレンが叫ぶ。
同時に手を伸ばし、盾の形を描き出す。
「サンクティファイド・バスチオン!」
どおん!
空へそびえ立つ光の砦。
幾重もの聖なる紋様が重なり、赤い炎を食い止めた。
だが。
どん! どん! どん! どん! どん!
テラニコの炎は、ただの火ではなかった。
魂を焼く炎。
意志を削る呪い。
光の砦は、ゆっくりと亀裂を走らせ始める。
「くっ……!!」
シレンの額に大粒の汗が浮かぶ。
「フェ……
フェイオ……
長くはもたない……」
シレンの指先で、聖なる魔力が不規則に揺らいだ。
「わかった。ひとまず退くぞ。」
フェイオの声は落ち着いていたが、唇は固く結ばれていた。
「くそ……
まさかあんな高位魔族まで絡んでいたとは……」
彼は背を向けながら魔力を凝縮する。
「拠点まで退避する!」
「ゲート・オブ・リターン!」
ばちっ!
フェイオたちの足元で魔力の裂け目が走り、光が弾けた。
次の瞬間。
しゅっ!
彼らの姿は一瞬で消えた。
「あらら〜
逃げられちゃいましたねえ、テラニコ様?」
ユイスが宙で身をひるがえしながら降りてくる。
「進行状況はどうだ?」
テラニコが感情のない声で問う。
「うーん、まだフラミエラ様をお迎えするには
魔力濃度が足りませんねえ。
儀式が途中で狂っちゃいましたのでお〜。」
ユイスは残念そうに掌を軽く打ち合わせる。
「惜しいな。」
赤い空が、少しずつ薄れていた。
夜が終わろうとしていた。
赤く燃えていた月は徐々に光を失い、その光の下で魔界と繋がっていた裂け目も、ゆっくりと閉じ始めていく。
「完全に開くまで。
人間界での任務を継続しろ。」
テラニコは背の翼を畳み、静かに地上へ降り立った。
その目の前には、儀式に使われた赤い石が置かれている。
テラニコはそれを拾い上げ、血のように光る表面を見つめると、静かに揺らめく光とともにその姿を消した。
「仰せのままに、
承りましたよお!」
ユイスも口元を吊り上げ、不気味な笑みを残したまま、ゆっくりと姿を消していく。
そして。
その場に残されたのは、すべて焼き尽くされた世界樹と、その周囲を黒く焦がした煤と灰だけだった。
静寂。
沈黙。
死。
かつて多くの者が行き交っていた儀式の場には、もう誰ひとり残っていなかった。
そうして夜明けが訪れようとしていた。
◇
「うう……
頭痛い……」
強い頭痛に顔をしかめながら、アイラがゆっくりと身を起こす。
「ここ……
どこ……?」
見慣れない景色。
白んだ光が木の窓の隙間から差し込んでいる。
体の下には乾いた藁、空気には木の香り。
少なくとも危険な場所ではないと、直感でわかった。
アイラはそっと扉を押し開け、外へ出る。
扉の向こうに広がっていたのは。
静かな森。
白い木々と整えられた家々。
あちこちで風に揺れる細い葉。
典型的なエルフの村だった。
「……儀式は……
それに……
他の人たちは……」
「よー、アイラ! 少しは目が覚めたか?」
遠くから手を振りながら近づいてくるルイドアン。
「……ルイドアンさん……?」
「体の具合はどうだ?」
「……はい、大丈夫です。
それより、いったいどうなったんですか?」
アイラが切羽詰まった声で尋ねる。
「世界樹は、
それにあの都市長は?
エルフたちの街は……
どうなったんですか?」
「うーん……
そりゃあ当然、
無事では済まなかったさ。」
あまりにも淡々としたルイドアンの言葉に、アイラの目が大きく開く。
「それって……
どういうことですか……?」
「それより……
ここは、どこなんですか?」
「おっとおっと〜
そんなに心配するなよ。」
ルイドアンは両手を上げて見せ、静かにアイラをなだめた。
「ここはエルード部族の村だ。
まあ……
ひとまず避難してきたと思ってくれればいい。」
「……じゃあ儀式は、成功したんですか?」
アイラは震える声で尋ねた。
その目には不安と罪悪感、恐れが入り混じっていた。
「心配するな、アイラ。」
静かに響いた声。
アイラは驚いたように振り向く。
「フェイオさん……」
彼は木の柱に背を預けたまま、短く頷いた。
「儀式は成功していない。」
「……本当ですか?」
「そして、失敗したわけでもない。」
「……え?」
「あ〜、わかりやすく言うとだな。
どっちつかずってことさ。」
後ろからルイドアンが茶化すように割り込む。
「そうだろ、フェイオ?」
フェイオはしばらくアイラを見つめてから言った。
「アイラ。
お前が儀式の最中、何を思っていたのかは知らない。
だが結果として、大きな失策は犯さなかった。」
その言葉を聞いた瞬間、アイラは苦しそうに息を吸い込んだ。
指先が震えるほど、ずっと不安で仕方なかったのだ。
「……本当によかった。」
「何より。
俺たちの目的はすべて果たした。」
フェイオの言葉に、ルイドアンが頷く。
「ただ……
まさかあんな人物まで絡んでいたとは予想外だったけどな。」
「……あの都市長……
あの人……
いや、あいつは本当に……
正気じゃなかったです。」
アイラはまだ信じられないといった様子で、言葉を濁した。
フェイオは背を向け、巨大な木々が集まる方へゆっくり歩き出す。
「依頼主である族長に会いに行く。
ついて来い。」
「待ってください。
シレンさんは? シレンさんがいないんですけど……」
「シレンなら先に行っている。」
フェイオが答えた。
「長老たちと、予言書について前もって話すことがあるそうだ。」
そう言ってから、彼はもう一度振り返る。
「余計なことは言わず、ついて来い。」
一行がエルード部族の会議室へ入ると、そこには三人の老いたエルフだけが待っていた。
長い歳月を生きてきた者らしく、その視線だけで重みが伝わってくる。
「ようこそお越しくださいました。」
一番左に座っていた老エルフが、先に立ち上がって言った。
「あなた方のことは、すでにフェイオから聞いております。」
彼は深く頭を下げ、続けた。
「エルード部族を代表して、
心から感謝申し上げます。」
フェイオは黙って頭を下げ、その後ろでルイドアンとアイラも静かに礼をした。
やがて全員が席につく。
話は、エルカディアンで起きたことから始まった。
「都市長。
エディルアムール。」
中央に座る、最も年長の老エルフが口を開いた。
「あの者は、我々が考えていたよりはるかに危険な人物でした。」
「まさか高位魔族と直接繋がっていたとは……」
「それどころか、フラミエラの腹心であるテラニコまで現れるとは、想像もしていませんでした。」
「……あるいは、
この世界に再び大きな危機が訪れようとしているのかもしれません。」
淡々とした声だったが、その中には隠しきれない緊張が混じっていた。
「あの……
お話の途中ですみません……」
その時、アイラがそっと口を開いた。
「エルカディアン……
あの街はどうなったんですか?
あそこのエルフたちは……
無事なんでしょうか?」
その問いに、老エルフは少しだけ目を閉じ、やがてやわらかく微笑んで頷いた。
「ご安心ください、アイラ殿。」
「あなたが最後まで精霊石を世界樹に当てなかったおかげで、
魔界の門は完全には開きませんでした。」
「ですから、街と大半のエルフたちは無事です。」
その言葉に、アイラの肩からふっと力が抜けた。
「……よかった……」
「……ただし。」
静かに言葉を継ぐ老エルフ。
表情は落ち着いていたが、語尾には重い影が滲んでいた。
「世界樹の儀式に近すぎたエルフたち……
彼らは、儀式の犠牲になったと見るべきでしょう。
都市長もその中に含まれます。」
その言葉に、アイラの目が揺れた。
一緒に笑い、話していた顔が、ひとつひとつ脳裏に浮かぶ。
「…………」
アイラは何も言わず、視線を落とした。
「続けますと。」
今度は右に座る別の老エルフが話し始めた。
「我らエルード族の情報網によれば、
世界樹は魔族の気配によって汚染されたと見られます。」
「幸いと言うべきか不幸と言うべきか、あの場所は元より誰もが立ち入れる場所ではありません。」
「現在、都市に潜伏している我らの部族の者たちが、
情報漏洩を防ぎ、市民の安全を確保するための措置を取っています。」
フェイオが小さく頷く。
「でもさ……」
静かな沈黙を破って、ルイドアンが水をひと口飲んだ。
「魔族が人間界へ来るための門を開いたって話なら……
危険なんじゃないのか?」
その言葉に、中央の老エルフが頷いて答える。
「その通りです。
だからこそ、決して警戒を緩めるわけにはいきません。」
「ただし、儀式は今の時点で言えば『失敗』です。」
「魔界の門は完全には開いていません。
不安定な状態のまま止まっているのです。」
「……そうですか。
それなら、まだよかった。」
ルイドアンは安堵の息を吐いた。
だがすぐに、再び表情を引き締めて口を開く。
「でもあいつら……
魔族どもは、
近いうちにまた魔力を集めて、人間界へ通じる門を開こうとするはずだ。」
「いつになるかまでは断言できない。
けど、遠くないのは間違いない。」
「……だとしたら。」
ルイドアンは慎重に顔を上げて言った。
「王都に知らせるべきじゃないのか?
今からでも……」




