117.魔族との契約 (まぞくとのけいやく)
しばらくして、世界樹からそう遠くない花畑の上。
やわらかな陽射しの下、
揺れる花びらのあいだから
子供たちの笑い声が広がっていた。
ぱっと咲いたような笑顔、きゃっきゃとはしゃぐ声。
その真ん中でアイラは
子供たちと一緒に駆け回っていた。
花畑の上を転がりながら
ひとりの子が叫ぶ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん! この花見て!」
少し離れたところでは
別の子が手を振っている。
「お姉ちゃん、こっち来て! 珍しい鳥がいるよ!」
アイラは子供たちの輪の中で
明るく笑っていたが、
心の中は少しずつ曇っていった。
『この前会った子たちも、
今みたいに私を警戒したりはしなかった……』
『でも大人たちは……
どうしてあんなふうに線を引くんだろう……』
小さな手をぎゅっと握って駆け寄ってくる子供たちに
笑いながら手を振ってやりながらも、
彼女の胸のどこかには
冷たい影が差していた。
その時、
ひとりの男の子がそっと近づいてきて
目を輝かせながら尋ねた。
「アイムラフお姉ちゃん、
ドラゴンって見たことある?」
アイラは少し驚いたように
目をぱちぱちさせたが、
やがて微笑んで頷いた。
「うーん……直接見たことはないけど、
旅先の村で
赤いドラゴンの話を聞いたことならあるよ」
「本当!? どんな話?」
子供たちが興味津々の目で集まってくる。
アイラは少しだけ遠くへ目を向けながら答えた。
「ひとりの少年とドラゴンの友情の話だったの。
その時は一緒に冒険してた友達のライネルがいて、
その子が村長さんから
もっと詳しく聞いてたんだ」
そう話すあいだにも、
目の前を懐かしい顔がよぎった。
「あっ! じゃあ木みたいな怪物もいるって聞いたけど、本当?」
子供のひとりが目をきらきらさせて尋ねる。
その言葉にアイラはまばたきして、小さく笑った。
「あっ、うん。確かにいたよ。
その時は私とモネロっていう友達が
あの蔓のせいで
すごく大変だったんだ」
言い終わるより早く、
いたずらっぽい表情と騒がしい笑い声。
モネロの姿が脳裏をかすめる。
「……モネロ……」
小さく、口の中でこぼすように漏れたその名前。
けれど子供たちは止まらない。
「わあ! じゃあそれも見たの?」
「本当に本物なの? 怪物が木みたいな見た目なの?」
「じゃあ戦ったの? 逃げたの?」
次々と飛んでくる質問。
だがアイラは
もう子供たちの方ではなく、
頭の中を巡る思い出の中に閉じこもっていた。
『……ライネルも……モネロも……
今……どこで何をしてるんだろう……』
その時、
そばで静かに様子を見ていた
アカラディメダラがやわらかな声で口を挟んだ。
「みんな、アイムリプお姉ちゃんはお疲れみたいだ。
今日はもう戻ろう」
彼の手招きに
子供たちは名残惜しそうな顔をしながら
ひとり、またひとりと花畑を離れていった。
「アイムリプ様。
だいぶお疲れのようですし、少しお休みください」
アカラディメダラは後ろに立っていた
大人のエルフたちへ
小さく頷いてみせる。
すると彼らは自然に近づいてきて
静かに、だがどこか固い空気をまとったまま
アイラを都市庁舎に用意された宿へ案内し始めた。
その様子を見ていたシレンもまた
別に用意された場所へ
静かに足を向けた。
*
「お待ちしておりました、アイムリプ様」
きちんとした姿勢で頭を下げるラティオメスティア。
アイラが泊まる宿の前で彼女を迎える。
「こんにちは! ラティ……ラティオ……何だったっけ……」
「ラティオメスティアです、アイムリプ様」
少し慌てたアイラが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんなさい……
私、ちょっと物覚えが……」
ラティオメスティアはやさしく笑った。
「この都市のエルフたちは
少し長い名前を使うことが多いので、
外から来た方には馴染みにくいのです。
無理もありません」
そう言って手を差し出し、続ける。
「それでも呼びにくければ、
ラティオと呼んでください」
「じゃあ……
ラティオ様?」
「はい、そう呼んでくださって構いません。
さあ、こちらへどうぞ」
彼女は自然な動作で
アイラを促しながら、特別な部屋の方へ向き直る。
だがアイラは
一歩踏み出しかけて、ふと立ち止まり
振り返って尋ねた。
「あの……
私、一人で行くんですか?」
「もちろんです」
ラティオは大したことでもないように頷く。
「シレンさん……
じゃなくて、私の護衛は?」
「ああ、あの方のことですね?」
少し笑いながらラティオが答える。
「男性は入れない区域なんです。
アイムリプ様がお泊まりになるお部屋は
精霊の儀式に特別に使われる空間ですから……
シレン様にも別の場所でお休みいただけるよう
案内が入っております」
「でも……」
何となく胸騒ぎがするのか、
アイラは少しうつむいたまま
そっとシレンの方を見る。
だがシレンは
何でもないという顔で
ゆっくり頷きながら
ただ静かに彼女を安心させるように見つめていた。
シレンと離れたアイラは
大きな扉をくぐって部屋の中へ入った。
入口とは比べものにならないほど
広く、整えられた空間。
そこにはすでに六人の女エルフたちが
静かに彼女を待っていた。
アイラが姿を見せると、
彼女たちは一斉に頭を下げて挨拶する。
「ようこそお越しくださいました、お嬢様!」
「あ……
はい……私ですか? えっと、はい……よろしくお願いします、ははは……」
予想もしていなかった歓待に
アイラは戸惑った笑みを浮かべた。
心の中では
『え、何これ、本当にどういう状況なの……』
と、呆然とした気持ちを隠しきれなかった。
その時、ラティオメスティアが一歩前へ出る。
「本日よりアイムリプ様には
儀式のための短期教育を受けていただきます」
「え……
教育まで必要なんですか?」
おそるおそる尋ねるアイラに、
ラティオは微笑みながら頷いた。
「はい、そこまで複雑なものではありません。
簡単ないくつかの動きと
儀式に向き合う心構えについて、お伝えするだけです」
そう言ってラティオメスティアが
二度、手を打った。
ぱん、ぱん!
たちまち六人のエルフたちが
言葉もなくアイラのそばへ寄ってくる。
「う……うわああ!?」
髪を触られ、肩幅を測られ、指先を見られ、
文字通り四方八方からアイラを取り囲み始める。
「こ……こういうのがあるなら先に言ってよ……!!」
外には届くはずもない、
胸の奥からの悲鳴を上げながら
彼女は短期教育という名の正体不明の渦へ巻き込まれていった。
◇
「そのハーフエルフはどうなった?」
重々しい声が響く。
「はい、都市長様。問題なく
ラティオメスティアへ引き渡されました」
補佐官の報告に
エディルアムールは短く息を吐く。
「……そうか。手違いのないよう、きちんと準備しておけ」
「はい、都市長様」
短い会話が終わると、
部屋の中は再び闇に沈んだ。
だがその静寂を切り裂くように、
闇の中から別の存在が姿を現す。
大魔族フラミエラの腹心、テラニコ。
からん。
彼が足を踏み出した瞬間、
空気に腐った苔の臭いと血の気配が広がった。
「問題なく進んでいるのか?」
そのひと言に
エディルアムールは反射的に
膝をついた。
「は、はい……その通りです」
「今回は……
必ず成功させてみせます」
額には冷や汗が浮かんでいる。
「……もしや、大魔族フラミエラ様から
新たな神託でも……?」
テラニコは答える代わりに
短く笑いを漏らした。
「ただ、
注意を与えに来ただけだ」
「……
前回のような失敗は
決して繰り返しません」
主へ忠誠を誓う獣のように、
エディルアムールはさらに深く頭を垂れた。
その姿の上で、
テラニコの黒く長い爪が
ゆっくりと光を反射する。
*
現エルフ最大の都市、エルカディアン。
ル・テルビアン王国内に存在しながらも、
エルフ固有の文化と自治権を守るため
人間の都市とは一定の距離を保っている街。
長いあいだ外部との接触を避け、
自分たちだけの秩序を守ってきたこの地の現都市長。
それがエディルアムールだった。
だが彼もまた、
最初から特別な人物だったわけではない。
平凡なエルフの家に生まれ、
慎ましく暮らしていた、ただの一市民にすぎなかった。
そんなある日、
人間たちによって家族が攫われ、
王国の奴隷として売られる事件が起きた。
噂を辿ってたどり着いた王国の奴隷市場。
そこで彼が目にしたのは
すでに自害していた家族の亡骸だった。
彼は必死にもがいた。
だが家族は、結局自ら死を選ぶしかなかったのだ。
彼は絶叫し、怒り、無念を訴え、
助けを求めた。
王国の役人たちに、
自分の苦しみと真実を伝えようと必死だった。
だが返ってきたのは、
冷たく突き放すような視線だけだった。
「エルフ風情が、人間の財産に口を出すつもりか」
「ただの事故にすぎません。無用な騒ぎは慎んでください」
人間社会は彼を排斥し、
エルフであるという、それだけの理由で
彼の真実を踏みにじった。
結局、彼は最後の希望だと信じて
エルフの都エルフェンシアへ向かった。
彼は信じていた。
せめて同胞なら、
この理不尽をわかってくれるはずだと。
「頼む……
どうか助けてくれ! 同じエルフじゃないか!」
彼は喉が裂けるほど叫んだ。
だが返ってきたのは
またしても拒絶だった。
「我々は人間との対立を避けなければならない」
「お前一人の感情に都市全体を巻き込むわけにはいかない」
人間との衝突を避けようとした
当時の都市長の政治判断によって、
エディルアムールの訴えは何度も握り潰された。
あれほど信じ、頼っていたエルフ社会でさえ
彼を見捨てたのだ。
エルフたちまでもが自分の苦しみを見ようとしなかったという事実は
彼の中に消せない怒りと絶望を残した。
打ちのめされた夜。
日ごとに崩れていく意志。
彼が闇の中で静かに
すべての希望を手放そうとしていた、その時。
見知らぬ存在が、彼の前に姿を現した。
「お前の……
絶望の声が
私をここへ導いた」
その言葉とともに、
背後から奇妙な声が響く。
エディルアムールは
その声のする方へ
ゆっくりと視線を向けた。
全身を黒いマントで覆った異邦の者。
赤い眼光を閃かせながら、手を差し伸べる存在。
テラニコ。
大魔族フラミエラの腹心。
彼は言った。
「お前の怒りと絶望、
それが我らを呼び寄せたのだ」
そうして、魔界との契約が始まった。
エディルアムールが望んだものは、ただひとつ。
独立したエルフの国家を築くこと。
エルフたちが人間の顔色を窺いながら
王国の枠の中で生きることに、彼はもう耐えられなかったのだ。
彼は腐りきったエルフェンシアの滅びを求め、
魔族は彼に力と魔法、そして権力を与えた。
契約が結ばれた後、
エルフェンシアは炎に包まれ、
エルフ社会は激動の時代へ突入した。
彼の影響力は一気に広がった。
五大部族のうち四つの部族が彼を中心に結束し、
エルカディアンはエルフ最大の都市として台頭しながら
王国とは少しずつ、独立した流れを持つようになっていった。




