116.世界樹 (せかいじゅ)
「……あの……」
アイラはためらいながら、
小さな声で口を開いた。
視線はまっすぐシレンへ向いていた。
「わ……私の護衛も……
一緒に来てもらえませんか。」
その言葉に、応接室の空気が一瞬止まった。
シレンは何も言わず、アイラを見つめている。
都市長も興味深そうに彼女を見たあと、
やがてアカラディメダラへ頷いた。
「許可しましょう。
精霊との繋がりが繊細な儀式ですから、精神的な安定も重要でしょう。」
都市長の補佐官は礼儀正しく身を翻した。
「シレン様もご一緒にご案内いたします。
どうぞこちらへ。」
そうして。
アイラとシレンは並んで、静かに都市長の応接室を後にした。
◇
応接室に残ったのは、三人だけだった。
しばらく沈黙が流れたあと、
都市長エディルアムールが先に口を開いた。
「意外でしたよ、フェイオ様。
エルード部族の方から、我々に手を差し伸べてくるとは。」
フェイオは慣れたように淡々と頷いた。
「先ほど申し上げた通り、
エルフのためになることなら、当然すべきことです。」
都市長はさらに踏み込む。
「ということは……
それはエルード部族全体の総意なのですか?」
フェイオはためらいもなく答えた。
「いいえ。
あくまで……私個人の意思です。」
その言葉に、都市長の目が細くなる。
笑みの消えた顔には、冷たい計算だけが残っていた。
「ふむ……そうですか。
個人的な協力……と。」
短い沈黙。
そして、取引を確かめる問いが続く。
「それで。
我々に望むものはありますか?」
フェイオは短く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「儀式が始まる時、
私と私の従者たちにも、立ち会わせていただきたい。」
都市長の表情が固くなる。
「フェイオ様の従者たちは……
儀式とは無関係の人間ではありませんか?」
冷たい沈黙が流れた。
その沈黙の中で、都市長の声はさらに鋭さを帯びる。
「そのような者たちを、エルフの神聖な儀式に関わらせるというのは……」
フェイオが静かに、だがきっぱりと遮った。
「伝承をもう一度ご覧ください。」
その視線が真っ直ぐ突き刺さる。
「『エルフと人間たちが世界樹の前に集い、精霊へ祈りを捧げた』
そう記されているはずです。
エルフとハーフエルフ、そして人間まで。
その可能性を念頭に置くことは……誤った解釈でしょうか、都市長様。」
都市長は眉間をわずかに寄せた。
目を閉じたまま、しばし思案する。
「……五十年前の開花の際、
エルフと人間だけで儀式を執り行い、
結果として失敗に終わったと聞いています。」
その言葉に、都市長は微笑を浮かべた。
「ほう……そこまでご存じでしたか。」
「もちろんです。」
エディルアムールは再び視線を上げた。
「部族間の感情には長い年月がありますが、
エルフの繁栄という意思には……互いに共感できると思っていますので。」
しばしの沈黙。
やがて都市長はゆっくりと頷いた。
「よろしいでしょう。
同行している人間二名も、
エルフの結界を通過できる魔道具を所持していると聞いています。
それなら、世界樹の近くまで向かうこと自体は大きな問題にはならないでしょう。」
フェイオとルイドアンは同時に立ち上がった。
「では、儀式当日にこちらから人を出します。」
「ありがとうございます、都市長様。」
フェイオは頭を下げ、丁寧に礼を述べる。
ルイドアンも、いつもの茶目っ気を消して後に続いた。
そうして二人は応接室を出ていった。
重い扉を抜け、都市長の館の外へと姿を消す。
◇
その頃。
アイラはシレンとともに、アカラディメダラの案内で
静かな回廊を進んでいた。
「その……今はどこへ向かってるんですか?」
アイラはかすかな緊張を隠せないまま尋ねた。
「今から、
世界樹のある場所へ向かっています。」
「えっ?!
も、もう儀式を始めるんですか?!」
アイラの目が丸くなる。
「私、まだ全然準備なんて……!」
補佐官は静かに笑みを浮かべた。
「……アイムリプ様は面白い方ですね。」
声は軽やかで、きちんとしていた。
「今回の移動は、儀式のための事前確認です。
そこまで緊張なさらなくて大丈夫ですよ。」
「そ……そうなんですね……びっくりした……」
アイラは胸を撫で下ろしながら、ほっと息を吐いた。
少し気まずい沈黙。
やがて補佐官が慎重に話題を切り出した。
「そういえば、アイムリプ様は
人間の都市で冒険者として生活していたと伺っています。」
「はい、そうです。……でも、それをどうして?」
アイラが不思議そうに目を細める。
「フェイオ様から伺いました。」
「フェイオさんから?」
その瞬間、アイラの眉がぴくりと動いた。
補佐官は淡々と言った。
「アイムリプ様がここへ来られる前に、
二度ほどフェイオ様と接触がありましたので。」
その言葉を聞いたアイラの口元には笑みが浮かんでいたが、
胸の内は煮え立っていた。
『何それ……自分だって勝手に動いてたくせに。
私にはあんなに怒鳴っておいて。
しかも二回も接触してたって……?』
アイラはぎりっと歯を食いしばりながら、
無理やり笑顔を保った。
「何かありましたか? お顔が……」
アカラディメダラが静かに尋ねる。
アイラははっとして、慌てて首を横に振った。
「あ、いえ! 何でもないです!
ちょっと……考えごとを……」
補佐官は声を立てずに笑いながら、やわらかく続けた。
「ははは……かなり緊張しておられるようですね。」
「やっぱり……初めてのことなので……」
アイラは気まずそうに笑い、肩をすくめた。
その時、補佐官が足を止めた。
そして。
彼らの前に、ついに『それ』が姿を現した。
アイラは本能的に顔を上げた。
息が止まる。
「わあ……すごく大きい……」
空の果てを貫くようにそびえ立つ巨大な木。
葉一枚、枝一本にまで、静かな威厳をたたえた世界樹。
その光景を前に、アイラは完全に見とれてしまった。
「実に美しいでしょう?」
補佐官が静かに口を開く。
その目にも畏れと誇りの色が宿っていた。
「儀式が始まる頃には
世界樹の花が咲くはずです。」
「補佐官さんは……
世界樹の花を見たことがあるんですか?」
アイラはなおも目を離せないまま尋ねた。
「もちろんです。五十年前、
あの時もこの場で儀式を見届けました。」
アイラは顔を向けて彼を見る。
「じゃあ……その時も成功したんですか?」
補佐官はわずかに首を横に振った。
「結果として、
あの儀式は失敗に終わりました。」
「何か……問題があったんですか?」
思いがけない答えに、アイラは眉を寄せた。
補佐官はしばらく黙ったあと、
小さく息を吐いて言った。
「……もしかすると、
我々エルフは予言書の解釈を誤っていたのではないか。
そう考えています。」
口調は落ち着いていたが、
その奥には不思議な悔しさと責任感がにじんでいた。
彼は再び歩き出す。
「では、ここから先は
世界樹の結界の中へ入ります。
少し気分が悪くなるかもしれませんので、お気をつけください。」
補佐官が手を伸ばすと、
空気の中で淡い光の筋が集まり始めた。
「結界は、生きた精霊の意志で構成された空間です。」
彼は穏やかに説明を続ける。
「純血のエルフは影響を受けませんが、
それ以外の存在は、結界を中和する魔道具を持っていなければ
外へ弾き飛ばされるでしょう。」
アイラは無意識に胸元へ手をやった。
指先が触れたのは、冒険者バッジ。
『よかった……これが中和の魔道具だったんだ……』
小さく息をついたアイラは、そっと後ろを振り返る。
後を歩くシレンは、
相変わらず無表情のまま静かに進んでいた。
アイラは気まずそうに視線を戻した。
そうして、さらに数歩踏み出した瞬間。
びりり……!!
全身に電流が走ったような強烈な感覚が
アイラを包み込んだ。
「うっ……!」
悲鳴にはならなかったが、
苦しげな声が勝手に漏れる。
だがその感覚は
数秒も経たないうちに、少しずつ収まっていった。
そして、目の前に広がる光景。
それまでとはまるで違う世界が、
はっきりと姿を現す。
風は止まり、
空気さえ振動を失ったように静かだった。
奇妙なほど静まり返った空間の中で、
一本の銀色の陽光が木の中心から広がっている。
その中心にあるのは、世界樹。
遠くから見ていた時とは違い、
目の前の世界樹は、むしろ生き物のようだった。
動いてはいないのに生きていて、
音もないのに、何かを語っていた。
「……ここなんですね。」
アイラが息を呑むように呟いた。
「ええ。この様子なら、
二日後には世界樹が開花を始めるでしょう。」
補佐官は穏やかに答えた。
アイラは顔を上げ、世界樹を見上げる。
その瞬間。
緑色のシルエットがひとつ、
木の幹に沿うように絡みつきながら、すばやく消えていった。
「……あの、今、誰か……」
驚いたアイラが指を上げ、世界樹の上の方を指さす。
だがその姿は、
最初から存在しなかったかのように空気へ溶けて消えていた。
「何をご覧になったのですか?」
補佐官が静かに問い返す。
「さっき……緑色に光る何かが動いたんです!
まるで……人みたいだった気もして……」
補佐官は頷いた。
「おそらく世界樹に寄り添う精霊でしょう。
アイムリプ様を歓迎しに現れたのかもしれませんね。」
「本当に……?」
アイラは再び世界樹を見上げる。
そして、おそるおそる付け加えた。
「それなら……よかったです。
でも……私は純粋なエルフじゃないのに……?」
語尾に、ごく小さな寂しさが滲む。
補佐官はしばらく世界樹へ視線を向けたあと、
やわらかくアイラを見て言った。
「どのような姿で生まれるかを、
私たちは自分で決めることはできません。
ですが、
どのような姿で生まれたとしても、
どうか自分を大切にし、愛してあげてください。
私たちは皆、
かけがえのない命なのですから。」
アイラはしばらく瞬きをしたあと、
静かに口元を緩めて頷いた。
その時、補佐官が明るく提案した。
「さあ、近くに子供たちが遊んでいる花畑があります。
行ってみませんか?」
アイラが顔を上げる。
「幼いエルフたちも、アイムリプ様のことをとても気にしているのです。
直接、冒険のお話を聞かせて差し上げてはどうでしょう?」
「……でも……」
アイラは視線を落としながら口を開いた。
「この前、街を歩いていた時は
みんな私を……すごく警戒してました。」
その声には不安と、
まだ消えていない傷が残っていた。
補佐官は少し真面目な顔で頷く。
「それはおそらく、
アイムリプ様がこの都市に来たばかりだったからでしょう。
ここの者たちは、見知らぬ相手に対して
簡単には警戒を解きません。」
彼は慎重に微笑みながら続けた。
「ですが今は、都市長様と都市の管理者たちの発表によって
アイムリプ様に関する噂もある程度広まっています。
ですから、そこまでご心配なさらなくても大丈夫です。
子供たちも今では、アイムリプ様を
『予言の人物』として受け止めているはずですから。」
「そうなんですね……それなら、よかったです。」
アイラは小さく頷き、控えめに笑ってみせた。
だが、胸の奥に残る引っかかりは消えなかった。
あの日、路地の入口で自分を見つめていた冷たい視線。
言葉こそかけてこなかったが、
まるで存在そのものを拒絶するように自分をなぞっていた眼差しは、
今もなお、アイラの記憶に鮮明に残っていた。




