115.対面 (たいめん)
「……はぁぁ……」
アイラは深くうつむいたまま、
止まらない涙を拭う間もなく、しゃくり上げていた。
けれど。
「何があったのかは知らないが、
これから今後の予定について話し合う。出てこい。」
フェイオの口調には
感情的な気遣いなど、ひとかけらもなかった。
アイラは唇をきゅっと噛み、
何も言わずその場から立ち上がった。
かすかに震える指先で
ドアノブを回して外へ出た彼女は、
ゆっくりと円卓の前まで歩いていき、
静かに椅子へ身を沈めた。
顔を上げることもできず、
涙の跡が残る頬だけが見えている。
それでもお構いなしに。
全員が席につくと、
フェイオの説明が始まった。
「現在、世界樹は
五十年に一度花を咲かせる。」
その言葉に、
シレンは目を閉じたまま耳を傾け、
ルイドアンは重い表情で頷いた。
「そしてその時が、
もうすぐそこまで迫っている。」
フェイオは指先で卓を軽く叩きながら続ける。
「都市長はこの世界樹を『汚染』し、
その力を利用して世界の壁を壊すつもりだ。
壁が消えれば、
魔族が人間界を自由に行き来できるようになる。」
「……それはさすがにまずいだろ?」
ルイドアンが深刻な顔をする。
フェイオは首を横に振った。
「いや。その見返りに、
魔族は都市長の命令を受けて
人間どもを『皆殺し』にすると言っていた。」
「皆殺し……?!」
静かだったシレンが、わずかに目を開く。
「……だが都市長を殺せば、
契約者を失った魔族どもは
それ以上、事を進められなくなる。」
フェイオは断言しながら、
懐から小さな金属の道具をひとつ取り出した。
小さく薄い水晶玉。
その中では、かすかな光が揺れていた。
「明日、都市長と会う予定だ。」
彼はゆっくりと、
その水晶玉をアイラの前へ押し出した。
「お前は
都市長に協力するふりをしながら、
この『魔道具』を通じて俺に情報を流せ。」
その言葉にアイラは目を大きく見開いた。
しゃくり上げるのは止まっていたが、
感情の名残はまだ顔に色濃く残っていた。
「……私が……?」
フェイオは短く頷く。
「これは都市長に最も近づける、
つまりお前にしかできない役目だ。
絶対に失敗は許されない。」
とん。
フェイオの指先が水晶玉に軽く触れると、
小さな振動がアイラの指先まで伝わった。
その感覚が、
アイラをもう一度現実へ引き戻すようだった。
「それと。」
フェイオの視線がシレンへ向く。
「シレン。
お前はアイラの護衛を務めろ。」
アイラは驚いたように顔を向けてシレンを見た。
だがシレンはただ黙って頷いただけで、
表情ひとつ変えなかった。
「世界樹の下に保管されているという
『大賢者ムリムリプ』の予言書、
それを回収するのがお前の任務だ。」
フェイオはそう言いながら、
慎重に指先で卓を軽く叩いた。
「もちろん、
前に話したあの『噂』が事実でなければ、
その任務は即座に中止だ。」
シレンは再び、無言で頷いた。
続いて、フェイオの視線がルイドアンと交差する。
「俺とルイドアンは
儀式が完了する前に、都市長を始末する機会を作る。」
その言葉に、ルイドアンもいつもより真面目な顔で頷いた。
「……以上だ。
ここまでにする。」
フェイオは淡々とそう言って、
静かに背を預け、話し合いを締めくくった。
しばし。
静かな沈黙が流れた。
だがその沈黙を破ったのは、
まだ目元の潤んだアイラだった。
「でも……儀式って何なんですか?」
アイラは少し呆れたように瞬きをしながら尋ねた。
そして。
「聞いた話だと、
ハーフエルフを世界樹への『供物』にするってことだったけど?」
ルイドアンが口元をわずかに上げ、
冗談めかして語尾を上げる。
「……えっ?! 何ですって?!」
アイラは目を丸く見開き、
慌てて両手をぶんぶん振った。
「ちょ、ちょっと待ってください!
それって……すごく危ない話じゃないですか?!」
肩がぶるぶると震えている。
「ルイドアン、余計なことを言うな。」
フェイオが冷たい目でルイドアンを射抜いた。
「ははは、悪い悪い。
空気が重すぎたから、
ちょっと冗談を言っただけだよ。」
ルイドアンは笑いながら手を振った。
フェイオは再びアイラを見て言い添える。
「アイラ。
お前は儀式が始まったら
向こうの指示に従って動け。」
「……え? は、はい……」
アイラはきょとんとした目で頷いた。
「俺たちを信じて待っていれば、
すぐに終わる。」
ルイドアンがまたやわらかく笑いながら、
アイラの肩を軽く叩いた。
「ああ、そうだ。」
フェイオが何かを思い出したように言い足す。
「儀式が始まる前に
必ず音声魔道具は起動しておけ。
動かなければ意味がない。」
「はい、わかりました……」
最後に短い静寂が流れ。
フェイオは静かに席を立った。
彼が動くと、
他の者たちも順に立ち上がる。
アイラが静かに部屋へ戻ろうとした、その時。
「アイラ。」
静かだが、芯のある声。
彼女の足が止まる。
振り返ると、シレンが椅子に背を預けたまま彼女を見ていた。
「夢を見たのか?」
「……!」
アイラは驚いたように目を大きく見開いた。
胸が大きく跳ねる。
何かを見透かされたような気がして、言葉が出なかった。
彼女が何も言えず立ち尽くしているあいだ、
シレンはゆっくりと視線を向けたまま口を開く。
「どれだけ遠く離れていようと、
目に見えなかろうと、
大切なものは忘れるな。」
短いのに、重みのある言葉。
その一言に、アイラは胸のどこかが鋭く震えるのを感じた。
「……シレンさん……」
唇が震える。
何か言いたかったのに。
シレンはそれ以上何も言わず、
ただ静かに立ち上がると、
無造作な足取りで去っていった。
彼が消えた場所を、ぼんやりと見つめるアイラ。
「何なの……あの本にでも魔法がかかってるの……?」
彼女は深くうつむき、小さくつぶやく。
つま先だけを見つめながら、静かに目を閉じた。
胸の中によみがえる、あたたかな記憶。
ライネルの笑顔。
モネロのいたずらっぽい目。
「また……会えるよね。
きっと……」
そして心の中で、小さく誓った。
この件が終わったら、
三人でまたもう一度、
あの時みたいに……楽しく冒険したい。
アイラは唇をきゅっと結び、
そっと顔を上げた。
そして独り言のようにこぼす。
「モネロのところへ戻って……
ライネルを探そう。
絶対に。」
小さな決意。
けれどその決意が、
彼女のこれからの道を少しずつ変え始めていた。
◇
都市長の豪奢な外套の裾が風に揺れる。
彼は城壁の先の展望台で顔を上げ、
巨大な世界樹を黙って見つめていた。
世界樹。
今まさに、その荘厳な花の蕾が膨らみ、
いつ咲き誇ってもおかしくないほどに満ちた、巨大な生命の象徴。
その光景を前にして、
都市長エディルアムールは陰気な笑みを漏らした。
「もうすぐ……
私の夢が叶う日が来る……」
まるで祈りを捧げるように、
彼は両腕を広げ、空と世界樹へ向かって叫んだ。
「ははは……!
私は本当に……
運のいい男だ。」
だが、ほどなくしてその笑みは歪んだ。
記憶の奥をかすめる過去。
「あの時……あいつら……
跪いて許しを乞うたとしても、
私は絶対に許さない。」
やがて彼はぎりぎりと歯を噛みしめた。
血に塗れた記憶、
絶望と怒りに染まった過去が
次々と脳裏をかき乱す。
炎に包まれた故郷の村。
侵略者である人間たちが押し寄せ、
肉は裂け、悲鳴が入り乱れる地獄。
あの日、彼には何ひとつできなかった。
剣すらまともに握れなかった幼いエルフたちが
無惨に引き裂かれ、
子を抱いて泣き叫ぶ女エルフたち。
そのすべての悲鳴と絶叫の果てに、
彼はようやく逃げ延びた。
命がけで辿り着いた、エルフたちの都エルフェンシア。
だが。
「お前たちの村は保護できない。」
エルフ王の冷たい宣告。
血走った目で膝をついて懇願しても、
返ってきたのは冷酷な拒絶だけ。
その絶望の中で、彼は初めて知った。
エルフですら、エルフを守らない世界を。
あの夜。
何度も砕け、何度も壊れながら、
自分を責めて耐え続けた日々。
そして。
絶望の果てで手を差し伸べた、あの影。
黒いマントをまとった正体不明の存在。
その手には、赤い光を帯びた宝石がひとつ握られていた。
「力を望むか。
それとも、復讐を望むか。」
問いは単純だった。
だが、それは彼の心を正確に貫いていた。
「この宝石は代価を求める。
だがそのぶん、お前の『意志』を実現してくれるだろう。」
彼はその手を取った。
力を掴み、権力を選んだ。
そして。
エルフの都を売り渡す代償として、
都市の支配権を手に入れた。
「そうして得た機会だ。
今度は世界樹まで手に入れれば、
すべてが完成する。」
都市長の耳元で響いていた過去のこだまを静かに払ったのは、
低く落ち着いた、礼儀正しい声だった。
「都市長様、お約束のお客様が間もなく到着されます。」
黒いマントをきっちりまとった男。
都市長直属の補佐官、アカラディメダラ。
言い終えると、彼はすぐに深く頭を下げた。
その仕草には極度の礼節と服従がにじんでいたが、
同時に隠しきれない緊張も見えた。
その姿をしばらく見下ろす都市長。
エディルアムールは無言で視線を落とす。
その目は、
感情の欠片もない灰色のガラス玉のように
冷たく、無表情だった。
「……そうか。行くぞ。」
短く冷ややかな返答を残し、
彼は何の未練もない足取りで
アカラディメダラの横を通り過ぎていった。
◇
「遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます。」
彼が口を開くと、場の張り詰めた空気がわずかにやわらぐ。
「私はエルカディアンの都市長、エディルアムールです。
こうして皆様にお会いでき、
偉大なる賢者ムリムリプ様の予言を成し遂げる機会を得られたこと、
まことに大きな栄誉と感じております。」
そう言って、彼は丁寧に頭を下げた。
礼を欠かぬ、完璧な所作だった。
「特に今回の件に大きく尽力してくださった
フェイオ・エルード様には、深く感謝申し上げます。」
その視線がフェイオへ向けられると、
フェイオも即座に右手を左胸に当て、
簡潔かつ力強く礼を返す。
「いえ、都市長様。
エルフの栄光のための選択。
当然、私が果たすべきことでした。」
ほんの短い一瞬だったが、
二人のあいだには事前に打ち合わせでもあったかのような、揺るぎない信頼がよぎった。
都市長は再び顔を上げて言う。
「エルード部族はこれまで
我が都市のエルフたちとは疎遠な関係にありましたが、
今回をきっかけに、より近しい関係になれることを願っております。」
その言葉にフェイオは黙って頷いた。
そして。
都市長の視線が、
自然とアイラへ向く。
「では。
予言が示したハーフエルフ、アイムリプ様?」
その瞬間。
「は、はい?!」
アイラは反射的に顔を上げ、うろたえた。
馴染みのない『偽名』に頭が真っ白になり、
それが自分を呼ぶ名だと
否応なく受け入れるしかなかった。
唇をわずかに動かし、返事をしようとするアイラ。
その一瞬のあいだに。
フェイオ、ルイドアン、シレン。
三人の視線が、ぴたりと同時に彼女へ向いた。
表情はそれぞれ違う。
だがその眼差しに込められた意味は、ひとつだった。
失敗するな。
緊張が全身を包んだ瞬間、
アイラは無理やり笑みを作った。
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ。」
エディルアムールはやわらかく笑い、アイラを見る。
口調は親しげだったが、
その笑みの奥には本心の読めない冷たさがあった。
「あ……はい。でも、やっぱり儀式のことを考えると……
少し不安で……」
アイラは無理に笑顔を作りながら、慎重に答える。
瞳は少しずつ揺れ、
胸の奥ではシレンから聞かされたあの『儀式』という言葉が何度もよみがえっていた。
それでも。
表情を崩さないよう、必死に口元を持ち上げる。
「ははは、そうご心配なさることはありません。」
都市長エディルアムールは、アイラの不安など聞こえなかったかのように続けた。
「大がかりな儀式のように話が伝わってしまったのかもしれませんが……
実際のところは単純です。
ただ、
世界樹の花が咲くその時、
そのそばで精霊の力を少し使っていただくだけでいいのです。」
その口調には余裕があった。
まるで昔から用意されていた芝居の台詞をなぞる役者のように。
「その前に、
儀式のための簡単な手順がございます。」
彼が手を動かすと、
静かに後ろに控えていた補佐官アカラディメダラが前へ進み出た。
「アカラディメダラ、アイムリプ様をご案内しろ。」
「はい、都市長様。」
彼はすぐにアイラのもとへ歩み寄り、恭しく手を差し出す。
「アイムリプ様、こちらへご案内いたします。」
ほんのわずかなためらいが、アイラの目に浮かぶ。
一瞬だけ後ろを振り返ったが。
フェイオは相変わらず無表情のまま、ただ小さく頷いており、
ルイドアンは無理に心配を隠すように視線を逸らしていた。
シレンは何も言わず、黙って彼女を見守っている。
その瞬間。
アイラの手が、ゆっくりとアカラディメダラの手に触れた。




