113.小さな過ち (ちいさなあやまち)
「ふぁあ……。」
「話を聞きすぎて、すごく疲れた……
宿に戻って、ぐっすり寝よう……」
アイラはあくびをしながら、のろのろと宿の扉を開けて中へ入った。
「ただいまです〜」
だが。
扉が閉まる音と同時に、冷たい声が彼女を打った。
「どこへ行っていた。」
「……!」
フェイオだった。
聞き慣れた低い声。
だが、その口調は明らかに鋭かった。
「ただ……退屈だったから、そのへんを少し……
歩いてきただけです。」
アイラは本能的に相手の顔色をうかがいながら、小さく答えた。
だがフェイオは、納得する気配をまるで見せなかった。
「どういう理由で一人で動いた?」
「それは……その……」
言葉を濁すアイラ。
何かに追われるように視線を逸らす。
「お前の単独行動で
計画が狂うかもしれないとは考えなかったのか。」
フェイオは静かに、だがはっきりと言った。
その目は氷のように冷えきっていた。
「それは……ごめんなさい……」
声がすぼむ。
言い訳より先に、謝罪が口をついた。
フェイオがゆっくりと近づいてくる。
足音は重くない。
それなのに。
一歩、一歩ごとに
確かな圧がこもっていた。
アイラは反射的に、深くうつむいた。
一触即発。
フェイオの冷たい気配が、部屋全体を押し潰していく。
その時だった。
「あはは、そこまでそこまで。」
聞き慣れた、軽くて気楽な声。
「アイラだって、なりに俺たちのために情報を探ろうとしたんだろ。
散歩ついでって感じでさ、そうだよな?」
ルイドアンが間に割って入り、両手を上げて空気を和らげる。
アイラは少し顔を上げ、遠慮がちに頷いた。
だが。
「誰に会った。」
フェイオは視線を逸らさなかった。
口調は完全に尋問だった。
「道を……歩いてたらエルフの子供たちに会って、
お店のおじさんに会って……」
「それだけか?
怪しい者が近づいてきたりはしなかったのか。」
「その……この都市の案内役だっていう
ラティオメスティアさんにも会いました……」
「……ラティオメスティア?」
フェイオの目が鋭く光った。
「はい……エルフの歴史の一部を教えてくれて。
予言書のことも……」
その言葉を聞いた瞬間。
「あいつは都市長の人間だ!!
お前は重大な失敗をしたんだ!!」
フェイオが激しく怒鳴った。
アイラはびくっと肩を震わせ、思いきり身をすくめる。
「はは……これは困ったな……」
ルイドアンは肩をすくめ、疲れたような顔でシレンの方を見る。
「シレン、ちょっと止めてくれない?」
静かに座っていたシレンが、ようやく口を開いた。
「フェイオ、もうやめろ。」
短いが、きっぱりとしていた。
「もうこぼれた水は戻らない。
なら……アイラから詳しい話を聞く方がいいんじゃないか。」
フェイオは黙って彼を見たあと、短く息を吐いた。
そして苛立ちを含んだ視線で一行を見回した。
「あの雑種の話なんか。
お前たちで聞いていろ。」
フェイオは冷たい一言を吐き捨て、そのまま宿の外へ出ていった。
ばんっ。
扉が閉まる音は、決して小さくなかった。
「……いや、自分だって一人でうろついてるくせに……」
アイラは深くうつむいたまま、消え入りそうな声でぼやいた。
「ははは〜、アイラ、そんなに気にするなよ。」
ルイドアンがのんびり笑いながらなだめる。
「フェイオのあいつ、短気ではあるけど
お前のことを思ってるからこそだと思うぞ。」
「でも……あんなに怒鳴らなくても……」
「でもな、アイラ。」
ルイドアンの口調が少し真面目になった。
「チームで動く時に、相談もなしに単独行動するのが危ないってことくらいはわかるよな?」
「……はい。」
「単独行動は、仲間全員を危険にさらすことだってある。
そこはお前が悪かったのは確かだ。
あとでフェイオが戻ってきたら……
ちゃんと丁寧に謝れ。」
そう言いながら、ルイドアンは指先でアイラの額を軽くつついた。
それから椅子に深く身を預ける。
「おい、シレン〜」
彼は椅子を後ろへ傾けながらシレンを見た。
「なんで止めなかったんだ?
二人きりで残ってたんだろ?」
「瞑想していて気づかなかった。」
シレンの返事はきっぱりしていて、視線すら向けなかった。
「いやいや〜、それシレンも悪いだろ?
気にかけて止めてやるべきだったんじゃないのか〜」
ふざけた調子で笑ってみせたが、シレンはまた目を閉じた。
何の反応もない。
部屋へ戻ったアイラは、そのままベッドに身を投げ出した。
「ほんとに……ルイドアンさんみたいに
もうちょっと優しく言えないのかな。
フェイオのやつ……いつか私がでこぴん一発、
思いきりくらわせてやるんだから!
ああ〜〜腹立つ!!」
ごろごろ。
布団をくしゃくしゃにしながら、なりに鬱憤を晴らした。
翌朝。
アイラは目をこすりながら、宿の居間へ出てきた。
彼女を除く全員が、すでに円卓を囲んでいた。
「アイラ、起きたか?」
明るくてやわらかい声。
やっぱりルイドアンだった。
「はい……」
アイラはこくりと頭を下げ、気まずそうに歩み寄る。
「座れ。」
フェイオの声。
彼は相変わらず、アイラを見ようともしなかった。
「はい……」
しおれた声で、アイラは静かに席についた。
「昨日聞いたことを、全部話せ。」
フェイオの口調は相変わらず厳しかった。
「……フェイオさんがしてくれた話と、そんなに違いはありませんでした。
世界樹を通してエルフの本当の力を解放するために、
エルフと人間が一つになった……ハーフエルフが必要だって言ってましたし……」
それを聞くフェイオは目を細め、アイラを鋭く射抜くように見た。
何か隠しているのではないかと疑うような目だった。
「それと……三百年前に魔王を倒した七勇者の話です。
大精霊使いナレイラ様と、大賢者ムリムリプ様の話もしてくれました。」
「……くだらない雑談をしてきたわけか。」
フェイオがため息混じりに言った。
「こちらの情報は。
何か漏らしていないだろうな?」
「私は聞いただけです……」
アイラは小さく首を振る。
「……ならいい。」
フェイオはそのまま続けた。
「これから先、単独行動は禁止だ。
ルイドアン、今日も俺と一緒に動く。
シレン。
あいつが勝手に動かないようによく見張れ。できるだけ外へ出すな。」
そして最後に。
「明日、都市長と会う予定だ。」
「行くぞ、ルイドアン。」
フェイオは短く言い捨てて席を立った。
「はい! ぼっちゃま!」
ルイドアンはおどけたようにアイラを見る。
ぱちりと目が合うと、
口元をにっと上げてウインクを送り、
軽い足取りでそのまま後を追っていった。
「……はぁ……」
アイラはその背中を見送りながら、小さくため息をついた。
「フェイオさんも、ルイドアンさんの半分でも見習ってくれたらいいのに……」
独り言のようにこぼして、ぶつぶつ文句を言う。
「ほんとに……神経質なんだから……うえっ!
もう最悪、ほんっとムカつく!」
そこでふと。
隣にシレンが座っていたことを思い出した。
「……!」
瞬間、顔がかっと赤くなる。
視線も合わせられず、深くうつむいた。
そんな彼女に向かって、
シレンがほんのわずかに口元を上げた。
『何……今の、私の話聞いて……笑ったの……?』
アイラはこっそりシレンの表情を盗み見ながら思う。
『どうしよう……フェイオさんが戻ってきたら……
告げ口されたりしないよね……』
ひとりで勝手に恥ずかしくなり、顔を覆った。
その時ふと。
王都まで一緒に旅をしてきた二人の仲間のことが脳裏をよぎった。
いつも励ましてくれたライネル。
殴り合いながらも笑い合っていたモネロ。
『……会いたいな。
元気にしてるかな……』
ライネルは無事に王都へ戻れたのだろうか。
それとも……まだ行方不明のままなのだろうか。
いくつもの感情が入り混じる、その時。
静かに目を閉じていたシレンの口が、ゆっくりと開いた。
「アイラ。」
沈んだ声。
「精霊魔法について……
お前はどれくらい知っている?」
「……え?」
予想もしなかった問いだった。
アイラは目を丸くしてシレンを見た。
「シ、シレンさんが私に話しかけるなんて……
初めてじゃないですか?」
驚きのあまり、テーブルに両手をつき、半ば身を起こしてしまう。
シレンは腕を組んだまま視線を逸らし、そっけなく言った。
「そんな目で見るな。
ただ……お前が寂しそうに見えたから、声をかけただけだ。」
「……えへ。」
アイラは気まずそうに笑い、また席に座り直した。
「精霊魔法は……まだ基礎くらいです。
基本的な攻撃魔法と、初級の回復魔法くらいでしょうか……?」
「ふむ。そういう意味で聞いたわけじゃない。」
「じゃあ……どういう意味で……?」
アイラが首をかしげる。
「精霊魔法の『力の根源』について知っているか?」
「それは……えっと……どう説明したらいいんだろう……」
アイラは語尾を濁しながら、頭をかいた。
「……なんていうか……願えば叶う、みたいな……?」
「……師もなく、感覚だけで身につけたようだな。」
「ち、違います!
師匠ってほどじゃないですけど、誰かに……
教わった魔法です。」
アイラは両手をそろえ、慎重に答えた。
「そうか……わかった。」
シレンは頷くと、傍らに置いてあった本を一冊取り出した。
「この本は。
勇者一行の聖女、クレセリアが自ら残した記録だ。」
彼はさらに一枚ページをめくり、しばらく表紙を見つめる。
「残りの時間で、読んでみたらどうだ。」
「……え? あ、はい。
その……せっかくなら読んでみます。」
アイラは少し戸惑いながらも、その本をそっと受け取った。
シレンが再び目を閉じ、瞑想に入るのを確かめると、
アイラは静かに立ち上がり、本を抱えて自分の部屋へ向かった。
机に座り、本を開くアイラ。
「うーん……」
その瞬間、アイラの気づかない静かな魔力の気配が、周囲にほのかに広がり始めた。
本を読みながら、アイラは小さくつぶやく。
「クレセリア様って、三百年前に魔王を倒した勇者一行の聖女だとは知ってたけど……
王都の図書館じゃ、関連する本なんて見たことなかった気がするな……」
不思議に思いながら、アイラはゆっくりとページをめくった。
『魔法は、精霊魔法、魔族魔法、人類魔法。
この三つに分かれる。』
『このうち人類の魔法は、
魔族の魔法を変質させたものである。』
『始祖の人類魔法使いである『エコ』という大魔法使いによって
人間界へと広められた。』
『彼は魔界で魔法に関する全般的な知識を学び、
人間界へ渡る時……ひとつの赤い宝石を持ち帰った。』
『彼の死後、
その宝石は五人の弟子へと断片として分けられ、散っていった。』
「何これ……魔法の歴史?
精霊魔法の本じゃないんだ……?」
アイラは興味をそそられたように、わずかに目を輝かせながら、再び本へ集中した。
『エコの五人の弟子のうち、ひとりの記録によれば。
その赤い宝石は、もともと魔界の物である。』
『赤い色を帯びたこの宝石は、
持ち主の肉体能力と魔力を増幅させる役割を持つ。』
『だが使用者の波長によっては、
増幅ではなく『魔力の暴走』を防ぐ
抑制装置としての役割も果たす。』
『この五つに分かれた宝石は。
三百年前、聖女クレセセリアが使っていたと伝えられている。』
『聖女は始祖の宝石を通じて
魔王の魔力波長を乱す方法を知っており……』
「……乱す方法を……?」
アイラの指先が、文章をゆっくりとなぞる。
だが。
まぶたが少しずつ重くなり始めた。
「……うぅ……眠い……」
疲れのせいか。
それとも、本に宿るかすかな魔力のせいか。
アイラの顔が少しずつ、静かに本の上へ傾いていく。
指先はまだページをつかんだまま、
もっと何かを読みたがっているように名残を残す。
本を閉じることもできないまま、
寝息だけが静かに続いていた。




