111.ハーフエルフ (はーふえるふ)
「エディルアムール様。」
静かな会議室。
扉が開き、都市長の補佐官が入ってきて、頭を下げた。
「門番トレントからの報告です。
本日正午ごろ、ハーフエルフがこの都市に入ったとのことです。」
「うん? ハーフ……ハーフだと?」
エディルアムールは椅子にもたれかかって座っていたが、その言葉を聞いた瞬間、ぱっと顔を上げた。
「ハーフエルフが?」
忘れていた考えがひとつ、唐突に頭の中を貫いた。
がたっ。
椅子から立ち上がり、目を見開く。
「それは本当か?
誰の子だ?!」
「そ、それはまだ……
正確には把握できておりませんが……」
トレントは語尾を濁しながら、目をしばたたかせた。
「連れてきた者が……」
「何だ? 早く答えろ!」
エディルアムールの声が荒くなる。
「……それが……エルード部族の……
フェイオという者です。」
「……エルード……エルード……!!」
その名が口からこぼれた瞬間、エディルアムールの額に青筋がぴくりと浮かんだ。
「あの忌々しいエルードの連中め……
どうしてここまで這い込んできた?!」
拳が机を叩いた。
重い振動が室内に響く。
「私のすることにいちいち難癖をつけて、しつこく食い下がってきた連中ではないか!
どうせハーフエルフというのも嘘だろう。
適当に痛い目を見せて、今すぐ追い出せ!」
補佐官は深く頭を下げた。
だがその背後に、ごく短い逡巡の気配がよぎる。
「エディルアムール様……!」
エディルアムールは眉をひそめた。
「何だ、私の言葉がわからなかったのか?
適当に懲らしめて追い出せと言っているんだが?」
報告役はひとつ息を整えて、言葉を続けた。
「そのフェイオという者が……
我々の側に転向することを望んでいるそうです。
それで……ハーフエルフを連れてくるという誠意を見せたので、一度会っていただきたいと伝えてきました。」
「……。」
エディルアムールはしばらく何も言わなかった。
机の上で指先をゆっくりと動かし、紋様を描くようにしながら、考え込むようにじっと立っていた。
「……いい。
ひとまず様子を見ろ。
そして変わったことがあれば即座に報告しろ。」
「……はい、承知しました。」
補佐官は礼をして、静かに都市長室を出ていった。
静まり返った部屋の中。
エディルアムールは腕を組み、窓の外を見つめた。
「今さら……何を企んでいる?
エルードが素直に頭を下げるような連中ではなかったはずだが……」
口元が歪んだ。
「ハーフエルフだけ手に入れて、
適当な口実で追い出してやればいい。」
どさり。
彼は椅子にもたれかかるように座った。
その時だった。
すうっと……
闇のように染み込んだ黒い影がひとつ、静かに形を成した。
ばさり、まるでカラスが羽ばたくような気配。
「……!」
エディルアムールは反射的に椅子から跳ね起き、その場に膝をついた。
頭を垂れる。
まるで神の前に立つ司祭のように、身を低くする。
「テラニコ様……このような時間に、いかがなされましたか……」
漆黒の影の前で、エディルアムールは膝をついたまま、両手を揃えた。
すると。
「大魔族フラミエラ様のお言葉である。」
どこから響いているのかもわからない奇妙な声。
共鳴するように空中を巡るその声は、不快なほどに穏やかで、深い低音を帯びていた。
「時は迫っている。
理に従い、手順を踏むがよい。」
「……それは……どういうお言葉で……
愚かな者には、その意を理解できませぬ……」
エディルアムールは慎重に問い返した。
だが、しばらくのあいだ、何の返答も聞こえなかった。
おそるおそる顔を上げ、影があった場所を見る。
「……いない?」
彼は歯を食いしばった。
「何だ……また言いたいことだけ言って消えたのか?
ちくしょう……!!」
勢いよく立ち上がり、そばにあった椅子を思いきり蹴り飛ばした。
どんっ!
重い木の椅子が壁にぶつかり、乱暴に倒れる。
「人を馬鹿にしているのか……
毎回毎回、謎めいた言葉だけ残して消えやがって……
『時は迫っている』だと?」
しばし考え込んだ彼は、やがて目を見開いた。
「……まさか。」
「計画されていたのか……?」
「探しても見つからなかったハーフエルフが、自分からこの都市に入ってきたのも……
あまりにも不自然じゃないか……」
深く息を吸い込み、声を張り上げる。
「誰かおるか!」
しばらくして。
扉が開き、副官のエルフが慌てて入ってきた。
「はっ! お呼びでしょうか?」
「フェイオという者と会う。
奴との会見を準備しろ。
適当な時間と場所を調整して知らせるのだ。」
「はっ、仰せのままに。」
副官が出ていくと。
エディルアムールは壁際にかけられていた、装飾の華やかな都市長の紋章入りのマントを手に取った。
ゆっくりと肩にかけ、鏡の前に立つ。
赤と青の光が入り混じった異質な瞳。
鏡の中の自分を見つめながら、ゆっくりと笑った。
「徹底的に利用してやる。
この忌々しい魔族どもめ。」
その目に、野心がぎらりと光った。
◇
「思ったより大したことないな、フェイオ?」
都市の路地を歩いていたルイドアンが顔を上げ、周囲を見回した。
「こんな都市に魔族どもが手を伸ばしてるって噂、
色あせるくらい平穏じゃないか。」
「見せかけだ、ルイドアン。」
フェイオは硬い表情で答えた。
「表向きはまともに見えても……
この場所のエルフたちは、徹底的にあの男ひとりのために利用されている。」
横目で通りの端を示した。
「あれを見ろ。
ぎこちなく笑っている女のエルフと、周囲をうかがっている子供たちだ。」
白い服をきれいに着飾った女性が、子供ふたりをそばに立たせていた。
周囲を意識しながら、不自然な笑みを浮かべている。
「『私たちは幸せに暮らしています。だから気にしないでください』
まさにあの顔だ。」
ルイドアンは無言で視線を移した。
そして。
「さてな……俺の目にはただ……」
彼の目つきがゆっくりと変わり始めた、その時だった。
通りを歩いていた数人の男エルフが、二人のもとへ近づいてきた。
そのうちのひとりが頭を下げた。
「私はエルカディアン都市長様の補佐官、
アカラディメダラと申しますが。」
見慣れぬエルフの一団が、ゆっくりと前をふさいだ。
「あなたがエルード部族のフェイオ殿で間違いありませんか?」
フェイオは落ち着いて頷いた。
「その通りです。」
そしてその瞬間、ルイドアンへ視線が移るのを感じた。
ルイドアンは一歩前に出て、頭を下げる。
「私はフェイオ様の従者、ルイドです。」
すると、一団の中のひとりのエルフが、値踏みするように尋ねた。
「ふむ……人間の奴隷か?」
フェイオは眉ひとつ動かさず、頷いた。
アカラディメダラは淡々と言った。
「都市長様がお前のために時間を作ってもよいと仰っていた。
いつなら都合がいい?」
フェイオは視線を逸らさぬまま、礼儀正しい口調で応じた。
「まだこの都市に来て間もなく、周囲の整理もできていない状況です。
二日後の正午ではいかがでしょうか。」
その時。
「都市長様が会おうと仰っているのに、二日も引き延ばすつもりか?!」
一団の中のひとりのエルフが怒鳴りながら前に出た。
だがアカラディメダラは軽く手を上げて、彼を制した。
「よい。下がれ。
都市長様は『時間を調整しろ』と仰った。
それで十分だ。」
不満げなエルフは口をつぐみ、後ろへ下がる。
「ひとまずフェイオ殿の意向は理解した。
都市長様に報告してこよう。
それまでのあいだ、ゆっくり過ごされるといい。
不便があれば、近くの同胞に助けを求めれば問題ないだろう。」
「ご配慮、感謝します。」
フェイオは再び頭を下げ、ルイドアンも丁寧に挨拶した。
二人はエルフたちの一団と距離を取り、静かに別の道へと外れていった。
背後から低い声が漏れた。
「アカラディメダラ様、あいつらをそのままにしておいてよろしいのですか?
エルード部族ですが……」
アカラディメダラは首を横に振った。
「余計な行動は慎め。
都市長様が……ひとまず様子を見ろと仰った。」
だが彼の視線は、遠ざかっていくフェイオの背中を最後まで追っていた。
小さな綻びひとつでも見逃すまいとするかのように。
◇
「うまく運びそうじゃないか、フェイオ?」
ルイドアンが肩をすくめながら尋ねた。
だがフェイオは答えず、意味ありげな笑みを浮かべるだけだった。
「まあ、あいつが大人しく従ってくれるなら問題はないだろう。」
そう言って、宿の方へ体を向けた。
後ろを歩いていたルイドアンが、ふざけた調子で応じる。
「へいさっ!」
◇
「わあ……エルフの都市だなんて、すごい……!」
目を輝かせながら、周囲を物珍しそうに見回すアイラ。
半分はエルフの血を引いているとはいえ、人間の都市でしか育ってこなかった彼女にとって、『エルカディアン』の風景は何もかもが見慣れず、新鮮だった。
空へまっすぐ伸びる木の幹。
その上に築かれた高い家々。
木と見分けがつかないほど身を潜めたトレントたちが、周囲を取り囲んでいた。
アイラはきょろきょろと首を巡らせた。
時おり両手で家の壁をこつこつ叩いてみたりもした。
彼女の目には、そこで暮らしているエルフたちですら、異質で美しく映っていた。
問題は。
彼らがアイラを見る目だった。
冷たく無関心な瞳。
ひそひそと囁く者もいれば、あからさまに睨みつける者もいる。
「う……あのエルフたち、なんで私をじろじろ見てるの……?」
不快な視線が痛いほどだった。
「まさか……ハーフエルフだから?
フェイオみたいに、私を軽蔑してるのかな……」
アイラは無意識にうなじのあたりへ手をやった。
短い耳を隠そうとするように、指先が一瞬ためらう。
その時。
ころっ。
何か丸いものが足元へ転がってきた。
白い綿の玉のような、小さな子供のボールだった。
「はい、ボール返すね。」
アイラは優しい笑みを浮かべながら、子供たちにボールを手渡した。
無邪気に笑う子供たち。
「やっぱり……子供は可愛いな。」
ところが突然、大人のエルフたちが近づいてきた。
子供たちの手を乱暴に引っ張り、アイラを睨みつける。
アイラの目の前で、子供たちはそのまま連れていかれてしまった。
「……な、何、今の……?
なんであんな急に……」
呆然とした顔で、アイラはその場に立ち尽くしたまま、子供たちが消えた方角だけを見つめた。
気まずくなった気分を振り払おうと、近くの衣料品店へ足を向けた。
おそるおそる扉を開けて中に入り、店の中の男エルフに声をかける。
「あの……」
「お前に売る品なんてない。
さっさと失せろ。」
言葉が途切れた。
冷たく投げつけられた声。
「え……? 私が何をしたって……」
「この魔女みたいな女。
これ以上口を利きたくない。今すぐ出ていけ。」
男エルフはアイラをほとんど押し出すように、店の外へ追い払った。
ばんっ。
扉が閉まる。
アイラは戸惑った顔のまま、扉の前にぼうっと立ち尽くした。
唇が何度か震えた。
「ま……魔女?
私が魔女だなんて……そんなわけないのに……」
頭の中が真っ白になった。
かっと、胸の奥が煮え立つ。
「なんで……なんで私にだけみんなそんな態度なの……
私が何をしたっていうの……!!」
小さく拳を握りしめ、深く息を吸う。
「大人なんてみんなフェイオみたいな人ばっかり……
話も通じないし……軽蔑するばっかりで……」
その時だった。
背後から、アイラの肩にそっと触れる指先がひとつ。
「人間の都市からいらしたのですか?」
「……!」
驚いて振り返ったアイラは、後ろに立つエルフを見つめた。
落ち着いた表情。
穏やかな眼差し。
今までのエルフたちとはまるで違う気配だった。
「どなた……ですか?」
「私はこの都市の案内役、ラティオメスティアです。」
彼女はエルフ特有の細く長い指先を揃え、丁寧に一礼した。
アイラは思わず首をかしげた。
『今まで会ったエルフたちは、みんな私を無視するか睨むかだったのに……』
「お時間があるようでしたら、
『歴史館』を訪ねてみませんか?」
ラティオメスティアは、自分が指し示した一本の木を手で示した。
ほかの木々とは違い、中が空洞になっているのか、小さな窓と扉の痕跡が見える木だった。
「あ……はい……はい、そうします。」
不思議には思ったが、この機会を逃したくはなかった。
アイラはゆっくりと彼女に従って、木の中へ入っていった。
「……わあ……」
中は外から見たよりもずっと広く、整然としていた。
青い苔と精霊の気配が、ほのかに空気の中へ溶け込んでいる。
「こちらにお座りください。」
ラティオメスティアが手招きして、アイラを導く。
アイラが腰を下ろすと、ラティオメスティアは軽く手を振り、小さな魔法陣を描き出した。
「人間の生活圏から来られた方々にお見せしている……
エルフ族の歴史、その一端です。」
言葉が終わると同時に、空中へ広がった魔法陣の中心を、ひゅうっと風がかすめた。
光の線が交差し、幻影が結ばれ始めた。




