107. もう一つの物語 (もうひとつのものがたり)
「ぐはっ……!」
血を吐きながら、ゴブリンの指揮官が膝をついた。
霞む視界で周囲を見回すが···
共に来ていたオーガとゴブリンはすでに全滅しており、
魔法部隊もとうに姿を消していた。
どこかへ逃げたのか、痕跡すら残っていない。
ライネルが地上へ降り、
指揮官とセリアンのもとへ静かに歩み寄った。
「……どうして人間の村を襲ったんだ?」
ライネルは冷たい目で
指揮官の最後の表情を見ながら問いかけた。
「何を言う……!」
指揮官は血を吐きながらも歯を食いしばった。
「ぐっ……! 先に、お前たち人間が……
勝手に……俺たちの縄張りへ踏み込んで……がはっ……」
言い終わるより先に。
ドッ!
別の木の根が地面を割って突き上がり、
残っていた命を完全に断ち切った。
ライネルがはっとしてセリアンを見る。
「……聞く必要ない」
セリアンは無表情のまま呟いた。
「それに、逃げた連中も追う必要はない」
「……でも、理由くらい聞いておいたほうがよかったんじゃないか?
もし残党がまた村に来たら···」
ライネルが困ったように言いよどむと、
セリアンはきっぱりと言い切った。
「もう来ない」
「……どういう意味だ?」
セリアンの視線が森の奥へ向いた。
「彼らは二度と、この村へ戻れない」
◇
「力を集めて……また復讐する、人間……」
「絶対に……許さない……」
血の気を帯びた声。
敗走したゴブリンの残党たちが木々のあいだを逃げながら、
歯ぎしりしていた。
群れの後ろでは、傷ついたオーガたちも何体か、よろめきながらついてくる。
「ぐるる……同胞をまた集める……」
そのとき。
どこからともなく、重たい声が響いた。
「それは難しそうだけど?」
残党の頭目がびくりと振り向く。
「誰だ! 人間か!」
ガサッ。
木の陰から姿を現したのは、人間……のように見える何かだった。
背で蠢く虫の羽。
指先から流れる赤い気。
それは明らかに、人間ではなかった。
「お前……何者だ?」
頭目が槍先を向ける。
「俺?」
その存在が、ふっと笑った。
「どうせ死ぬやつらが、俺の名前を知ってどうする」
羽がぶるりと震えた、その瞬間。
「魔法部隊、全員火球を放て!!」
「ファイアボール!!!」
数十の火球が一斉に飛び、
そいつの立っていた場所へ正確に叩き込まれた。
ドォォン!
爆発とともに煙が立ちのぼる。
「やったぞ!」
残党の頭目が吠えた。
「愚かなやつめ……俺たちはただのゴブリンじゃない。
強力な魔法を操る魔導士なんだ!」
得意げに歩き出そうとした、そのとき。
背後から、短い声がした。
「甘い」
「何だと……!」
頭目が振り返る。
煙の向こうからはっきりと姿を現したのは――
赤い髪をなびかせたセリアン。
「な……なんだ、お前は……!」
残党の頭目が後ずさる。
さっき森で見た、あの赤髪の少女。
だが今の表情は――
「その顔」
セリアンが歪んだ笑みを浮かべて一歩近づく。
「怯えてるね?」
彼女の足元から幾十もの根が伸び、
ゴブリンたちの足に枷のように絡みついた。
「動けな……うああっ!!」
「生意気な……人間!!」
頭目が歯を食いしばって叫ぶ。
「俺たちの同胞が、いつか……必ず……
お前たちに死を与える!!」
セリアンは首を横に振った。
「そんな日は来ない」
指先から赤い魔力が漏れ出す。
ゴブリンたちの体が燃えるように、ゆっくりと発光し始めた。
「うああああっ!! なんだこれは!!」
「体が……俺の体が燃えていく!!」
悲鳴が森を引き裂く。
だが根に縛られた体は、ぴくりとも動けない。
そのとき。
濃い闇の中から、ゆっくりと姿を現すアルガス。
虫の羽がざわりと広がり、
歪んだ双眸が赤く光る。
「何度見ても……ゴブリンにしては、なかなかいい栄養分だ」
「来るな!! あっちへ行け! 来るな!!」
アルガスがゆったりと笑った。
「残念だけど……それを決めるのはお前じゃない」
指先が赤く染まる。
ゴブリンたちの悲鳴は次第に小さくなり、
森はその声を飲み込むように静まり返っていく。
外には、何ひとつ漏れなかった。
◇
「本当にすごかったです、先輩! 今日も助けてくれてありがとうございました!」
「もう死ぬかと思いましたよ……うぅ」
ギルドの建物の中。
端に設けられた食事スペース。
三人の冒険者は、今日あった出来事を振り返りながら食事をしていた。
「それより、セリアンっていう女の子。俺たちと同じくらいの歳に見えたのに……本当にすごかったです」
「そうそう。才能があるって……ああいうことなんですね……羨ましいな……」
エティオが匙を置き、鼻をすすった。
ライネルは二人の少年を見ながらやわらかく笑った。
「大丈夫だよ。努力すれば、お前たちも立派な冒険者になれる」
それから少し考えるように、言葉を継いだ。
「セリアンも……きっと普通の女の子じゃない。
たぶん、とんでもない師匠のもとで、ずっと鍛えられてきたんだろうな」
「じゃあ俺たちも……そういう師匠を見つければいいってことですね!」
ギルロットが目を輝かせて叫ぶ。
「まずは師匠探しだ!
もちろん……先輩がなってくれるのが一番ですけど!」
二人の少年が同時にライネルを見つめた。
ライネルは両手を振って笑う。
「悪い悪い。俺はだめだ。
まだやることがたくさんあるから」
「ちぇっ……残念だな……」
ギルロットが口を尖らせ、
エティオもつられたようにうつむく。
ライネルは最後に残っていたパンを手に取り、
二人のあいだへ分けてやりながら言った。
「でも、いつかきっともっとすごい師匠に会えるよ。
お前たちには、その資格がある」
「明日には出発するんですか……?」
「うん。王都へ行かないと。
そこには……俺の仲間たちが待ってるから」
「先輩の仲間って……きっとすごい人たちなんでしょうね?」
「その人たちの弟子になろうかな……?」
ギルロットとエティオは想像を膨らませながら、くすくす笑った。
ライネルは肩をすくめて笑ってみせる。
「あはは···勘弁してくれよ、お前たち」
賑やかな声。
会話はいつも、最後には笑いで締めくくられた。
翌朝。
商人からもらった紙が、ほのかに光り始めた。
出発の時間だった。
ギルドの前。
名残惜しい別れのひととき。
「先輩のそばで、本当にたくさん学べました」
「また絶対会いましょう!
その時には……俺たち、今よりずっと強くなってます!」
二人の少年は目を輝かせながらライネルを見つめた。
その眼差しには、尊敬と信頼が宿っていた。
ライネルも微笑みながらうなずく。
「楽しみにしてるよ、ギルロット、エティオ。
立派な冒険者になってくれ」
「はいっ! 先輩!!」
二人の少年が深く頭を下げた。
ライネルは静かに手を振って応える。
またいつか会おう。
今よりもっと、立派になった姿で。
「ずいぶん楽しそうだな、ライネル?」
胸元からカミが顔を出した。
「ああ。久しぶりに昔のことも思い出したし……
本当に久々の冒険だった」
「ふん、俺だって活躍したかったのに……
我慢するのがどれだけ大変だったと思ってるんだ?!」
カミが頬を膨らませて文句を言う。
ライネルは笑いながらカミを撫でた。
「悪い悪い。王都まではちょっと我慢してくれ。
あっちに行けば、きっとお前にも出番がある」
「ちっ……本当だろうな?」
ぶつぶつ言いながら、カミはまた胸元へ潜っていった。
ライネルは少しだけ空を見上げる。
陽射しが頬を軽く撫でた。
そのとき。
少し離れたところで、馬車が出発の支度をしていた。
御者の隣に立つ商人が、大きく手を振る。
「ライネルさん! 早く来てください! もう出ますよ!」
「はい! 今行きます!」
ライネルは笑みを浮かべて足を速めた。
冒険は終わり、
また別の旅が始まろうとしていた。
◇
騒がしい酒場の中。
男たちの喚声で、天井が揺れそうだった。
それぞれ杯を傾け、自分こそ主役だと言わんばかりに武勇伝を語り散らしている。
「だからよ! あいつと三回も鉢合わせたんだって!
拳を握ってぶん殴ったらよ···」
大げさに腕を振り回す男。
その芝居がかった動きに、周囲はどっと笑って杯を打ち鳴らした。
そんな連中から少し離れた席。
そこだけは、妙に静かだった。
この場の空気と噛み合わない、重たい沈黙。
三人。
少し前までは四人だったこともあったが、
今はまた元の形に戻っていた。
「ユイス……あいつも薄情なものだ。目的を果たした途端に消えるとは」
『クラミシュの槍』所属の戦士ルイダンが、静かに杯を傾けた。
「最初から気に入らなかった」
金髪に尖った耳。
鋭い顔立ちのエルフ、フェイオがぼそりと呟く。
「むしろ、いなくなってせいせいした」
そして静かな声。
無表情の神官にしてリーダー、シレンが問う。
「……あとどれくらいだ?
本当に来るんだろうな?」
「おい、フェイオ。そろそろ飽きたぞ」
ルイダンが椅子を傾け、露骨に退屈をにじませた。
「もう俺たちだけで出発しようぜ」
フェイオは答えない。
ただ黙って杯を見つめていた。
そのとき。
酒場の一角から、じっと視線を向けている男がいた。
フェイオと目が合う。
「何だよ、あの感じ悪いエルフは?」
男は顔をしかめ、勢いよく立ち上がった。
その足で、まっすぐフェイオへ向かってくる。
「おい、よそ者。お前がどんな奴かは知らねえがよ」
顎をしゃくりながら嘲る。
「澄ました顔で座ってんじゃねえよ」
フェイオは黙って彼を見上げた。
「この街の礼儀を知らねえみたいだな……少し教えてやろうか?」
男が腕まくりをする。
続いて仲間たちも近づいてきた。
酒の勢いか、ただの虚勢か。
目だけがぎらついていた。
フェイオが長く息を吐く。
目を閉じ、無言のまま軽く首を振る。
その瞬間。
「おい、あんたたち」
ルイダンが杯を置き、ゆっくりと立ち上がった。
「こっちは仲間のことで、少し気が立っててな。
大人しく席に戻ってくれないか?」
視線を上げ、男たちを睨む。
重く鋭い目だった。
「戻れ。でなければ……怪我をするぞ」
周囲が少しだけ静まった。
ルイダンは腕を組み、見下ろすような目で男たちを見ている。
その視線が気に障ったのか、男の一人が鼻で笑った。
「ふん、ずいぶん自信満々じゃねえか」
彼は嘲るようにフェイオの胸元へ目をやる。
「金の縁取り……Cランクのバッジか?
ってことは……王都でBランクにもなれず追い出されたってことだろ?」
フェイオはゆっくり目を開き、男を見た。
そして、喧嘩を売ってきた男の胸に光るBランクのバッジが目に入る。
見せびらかすように、やけに派手な服装だった。
「騒ぎは好まない。戻れ」
フェイオの声は淡々としていた。
すると男は、いきなり笑い出した。
「ぶはははは! 見ろよ、見ろ! このエルフ、ビビってんじゃねえか!」
手を振り回しながら嘲笑う。
「ああ、今日は特別に見逃してやるよ。
これからは気取った真似はやめて、大人しくしてろ」
周りの男たちも一緒になって大笑いする。
「さすがエルフ様だな。臆病なとこまでそれっぽい」
「だから都市ごと滅ぶんだよ。ははは!」
卓から飛ぶ嘲笑。
エルフという種族そのものを見下す冗談まで混じっていた。
その瞬間、ルイダンが静かに、ふっと笑った。
「馬鹿な連中だ……穏便には済まなくなったな」
そして。
フェイオが杯を置いて立ち上がった。
表情のない顔。
だがその瞳には、冷たいものが宿っている。
重い足取りで男たちの卓の前まで歩み寄り、短く告げた。
「相手をしてやる」
「何だ? プライドでも傷ついたか、かわいいエルフ様?」
嘲りを含んだ口調。
中でも一番体格のいい男が勢いよく立ち上がる。
「俺の実力が気になるなら……直接見せてやるよ」
男が両腕を大きく伸ばして、肩を鳴らす。
周囲の男たちは呆れたように顔を見合わせ――
「ぶははははは!!」
酒場に爆笑が弾けた。
「何言ってんだあいつ? 怯えすぎて頭でもおかしくなったか?」
「舌でももつれたのか? おい、もう一回だけ言い直すチャンスをやるよ」
男たちの中心にいたリーダー格の男が、杯を手にゆっくり近づいた。
フェイオの前で立ち止まり、
そのまま杯をフェイオの頭の上へ傾ける。
ちゃぷ···
杯の酒が、ゆっくりとエルフの頭上から流れ落ちた。
しっとり濡れていく金色の髪。
酒はそのまま服へ伝い、裾を濡らしながら床へ落ちる。
それでも。
フェイオの顔には、
欠片ほどの感情も浮かばなかった。




