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吾輩を抱えたリズは、すぐに屋敷の浴室へ連れて行き、温かい水で全身を洗い始めた。
「お、お嬢様! そこは私に任せてください!」
「気にしないでキイラ。私が連れてきたんだもの」
リズは侍女が止めるのも聞かずに袖を腕まくりし、ドレスの裾を濡らしながら湯桶に入った吾輩を優しく丁寧に洗う。
石鹸の泡の匂いと、ゴシゴシと体全体を撫でる細い指が気持ちよくて堪らない。こんなふうに撫でてもらうのはいつぶりだろうか。
お湯に浸かりながらウットリと目を閉じていると、横で見ていたキイラが戸惑うような声を上げる。
「この子、猫なのに水をまったく嫌がりませんね」
「確かにそうね。……きっと、すごく賢い子なのよ」
「ミャゥ」
――その通り、吾輩は賢いからな。
この温かい水は浸っていると体中がポカポカして気持ちがいいのだと、巻き戻る前に知ったから平気なのだ。
――水が平気なのも、リズのお陰だったな。
前回の時は、リズが「怖くないよ」と何度も優しく声を掛けて、丁寧に少しずつお湯に慣らしてくれたものだ。だからそのうち、ちっとも怖くなくなってしまい、自分から湯船に飛び込んだこともあるくらいである。
「さぁ、これで最後よ」
リズがそう言って、お湯をざぶんと頭から掛けられた。さすがにビショビショのままは気持ち悪いので、体をブルブル振るわせて水を跳ね飛ばす。
「きゃっ! み、みずが!」
「あはは、元気な子ね」
嫌がるキイラとは対照的に、リズは跳ねられた水に濡れた顔で嬉しそうに笑い、吾輩を布で包んで拭いてくれた。そうしてすっかり綺麗になった吾輩を見て、リズは何かに気づいたような顔をする。
「あらあなた、真っ黒なのかと思ったら違ったのね」
そう言ってリズは吾輩の体のあちこちを確認し始める。
「お鼻の周りと胸元とお腹、あと前足が白いわ」
「尻尾の先も白いみたいです」
キイラが吾輩の長い尻尾を指して言った。
まぁ、雪と土の混じった泥でぐちゃぐちゃだったから、黒猫と思われても仕方がなかろう。
リズはジッと吾輩を見つめると、ギュッと腕で包むように抱きしめた。
「ふふ本当ね。……可愛い。見つけられてよかったわ」
そう言ったリズが、自分の額を吾輩の額にコツンと当てる。だから吾輩も、狭い額をグリグリと押し付ける。
リズは知ってるんだろうか。これは猫にとって愛情表現の一つだというのを。
「ふふ、くすぐったい」
「ミャウ……」
――吾輩も、また会えて嬉しいぞ。
ああ、言葉が通じないのがもどかしい。時間を巻き戻せるくらいなら、人間と意思疎通ができるようにしてくれたらいいのに。使えない神様だな。
「さぁ、戻りましょうか」
「もう、お部屋に戻ったらすぐお着替えですよ!」
「ええ分かってるわ」
吾輩はリズに抱かれたまま浴室を出た。
周囲を見回すと、ただの廊下だというのに天井は高く、柱や扉は煌びやかな装飾が施され、壁には絵画がところどころに飾られている。
公爵邸の室内の凄さは見た目だけではない。おそらく魔法の力だと思うが、暖炉のない廊下でも暖かいのだ。この世界での魔法はとても一般的なものではあるが、魔法の力を持った道具などはそれなりに高価だったはず。
だというのに、建物全体があったかいなんて。この公爵家がいかに金持ちなのかがよくわかる。
浴室などのある一階から二階へ、そしてリズの自室がある三階へ繋がる階段を上がろうとした時だった。
「あら、お従姉様。いかがされたの? そんなにずぶ濡れで」
ハッとしてリズが振り返るので吾輩も見る。そこには妙に派手な雰囲気のある、薄い桃色の髪にリズより少し暗い柘榴みたいな赤色の目をした、あの悍ましい女がいた。
アイネ・ビナー・ティファレイト。リズより一つ年下の従妹である。
リズがあの冷たい牢獄で最期を迎える羽目になった、元凶ともいえる奴だ。
「……アイネ」
「まったく、高位貴族なら服を乾かす風魔法くらい使えるのが普通ですのに、お従姉様は相変わらずその程度も出来ませんのね」
アイネが軽蔑のこもった目でこちらを見下し、細工の派手な扇子を広げて口元を隠しながら言う。
そう、心優しく教養の深いリズだが、実は貴族なのに極端に魔力量が少ない。あったとしても、明かりをつけるため、ロウソクに火をつける火魔法程度が精一杯なのだ。
「そんなに出来損ないなのに、どうしてお従姉様なんかが未だに王太子殿下の婚約者なのかしら? たまたま公爵家嫡男の娘に生まれただけで、何もできませんのに」
アイネの言葉にアイネの専属侍女たちがくすくす笑う。
こんなふうにアイネが嫌味ったらしく言う理由は、アイネ自身が公爵家を継いだリズの父親の、弟の娘だからだろう。
アイネは両親が事故で亡くなり、リズの父親が公爵家に引き取ってきた存在だ。しかしリズと違って貴族らしい魔力があるせいか、アイネに好意的な公爵家の使用人の一部は、リズを見下している。
「ああ、もしかして殿下も、女神様そっくりのその容姿で誘惑されたのかしら? 学園でもたくさんの男性に囲まれていますものね。男性に媚びを売って回るなんて、公爵家の人間として恥ずかしいわ」
「私はそんなことしていないわ!」
リズは気丈に反論するが、アイネは聞く耳を持たない。
「あら、無意識になさってるの? まるで娼婦か悪女ですわね」
アイネはひとしきり侍女たちと笑うと、チラリと吾輩に視線を向け、ニヤリと悪魔のような笑顔になった。
「ああ、その猫がずぶ濡れの原因かしら? このままですと学園でも“男性や殿下の気を引くために猫を利用してる”って噂になりますわよ? だからその猫は、私が貰って差し上げる」
そう言ってアイネはパチンと扇子を閉じると、風の魔法を使って吾輩を空中高くに放りあげる。
「やめて!」
リズの叫び声を聞いて、吾輩は思い出した。
そう、前回の時もアイネはこうやって、リズから吾輩を一度取り上げたのである。
何も知らなかった小さな吾輩は、そのままアイネに連れて行かれたのだが、すぐに飽きたとばかりに飼育放棄されたのだ。そしてそれに気付いたリズがまた助けてくれて、ようやくリズの猫になった。
やはり全ての出来事は、前回と同じように進んでいく。
しかし、今の吾輩は未来を知っているのだ。
――今度は間違えないぞ!
空中に放り出された吾輩の体を、アイネは風魔法で器用に捕まえると、とても満足そうな顔で言う。
「さぁ、私の猫におなりなさい。『悪女の愛猫』なんて、あなたも嫌でしょう?」
「シャ――!」
――誰が貴様のものになどなるか!
吾輩はすぐに全身の毛という毛を逆立てて、歯を剥き出しにし、めいっぱい威嚇する。それから隠していた爪をシャキンと出すと、まだ短い前足をその凶悪な笑顔に向かって振り回した。
「キャアッ!」
放り投げるようにパッと手を離されたが、吾輩はくるりと一回転して床に着地する。
「だ、大丈夫?」
リズが慌てて床に落ちた吾輩を庇うように抱き上げてくれた。
「……この、クソ猫め!」
猫の攻撃に驚いたと同時に、心底ムカついたんだろう。
アイネが顔を真っ赤にして手を振り上げ、吾輩ごとリズを叩こうとした、その時だった。
「何を騒いでいる!」
階段の上のほうから騒ぎを聞きつけたらしい男がやってきた。




