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吾輩は猫である。名前はもう無い。
最愛のご主人、リズリー・フォン・ティファレイトが付けてくれた『ミケランジェロ』という大層な名前があったが、牢獄で一人寂しく冷たい亡骸となった彼女以外、もうその名前を呼ぶ人間はいないので、無いに等しいだろう。
まだ吾輩が子猫だった頃、雪の降る夜に母猫からはぐれて一匹彷徨っているところを救ってくれたのが彼女だった。それ以来、吾輩は彼女の愛猫として生きてきた。
彼女――リズは心の優しい、公爵家のお嬢様だった。
だった、そう、過去形である。
彼女は一つ年下の従妹に利用され、貶められ、『悪女』などと呼ばれながら、最期はこうして王城にある地下牢獄で息絶えた。そんな彼女にずっと寄り添い続けた吾輩も『悪女の愛猫』などと、彼女の心優しい一面を忘れた使用人どもから呼ばれたものである。
本来、吾輩のような猫は死期を悟ると人間から身を隠し、ひっそりと死ぬものだが、吾輩は彼女のそばを最期の場所に選んだ。
だってどうせ、ここには誰も来ない。
石を並べただけの床の上に横たわるリズは、お日様のような金色の髪が土や埃で黒ずみ、体も骨と皮の塊かと思うほどに痩せ細っていた。夕焼けみたいに真っ赤な瞳を、もう二度と見せてくれない彼女に身を寄せて、吾輩も静かに目を閉じる。
悲惨な運命に堕ちてしまった彼女と共に、ただ安らかに眠りたかった。
外はもうすっかり春である。
リズを陥れた従妹と、そんな女を信じた王太子の結婚パレードとかいうのをやっているらしく、天井近くにある小さな窓からも聞こえるくらいに騒がしくうるさい。
ここは真冬のように暗くて寒いのに。
目を閉じてしばらく、外の喧騒が突然プッツリ聞こえなくなった。
気になったけれど、それこそどうでもいいので、吾輩はそのまま目を閉じていた。
「……ミケランジェロ」
囁くような声が聞こえてくる。
――うるさい。もうその名前で吾輩を呼ぶな。
リズ以外に呼ばれたところで、嬉しくともなんともない。
「では、死にかけの猫よ」
――……なんだと?
さすがにムッとして目を開けると、目の前に見たことの無い女が立っていた。
いや、浮いている。しかも全身がピカピカと光り輝いていた。
髪はキラキラの金髪で、瞳はリズにそっくりの赤色。一つだけ違うのは、額に丸い宝石のような赤い石がくっついていたことだ。
人間の姿をしているが、たぶん人間じゃない。魔物の類かとも思ったが、魔物はこんなにキラキラしてないはずだし……。
――なんだこいつ。
訝しむ吾輩を察したように、女はニコリと微笑んだ。
「私は運命の女神・ケセトゥーラ。あなたに頼みたいことがあるのです」
神様ってやつか、初めて見たな。
しかし女神様とやらよ、残念ながら頼み事をする相手を間違っているぞ。
――吾輩はもう死ぬだけの猫だ。出来ることなど何もないぞ。
「いいえ、ありますよ」
女神様は吾輩の考えていることがわかるようで、すごく当たり前に返答をしてくる。
そして、トンデモないこと言い出した。
「過去に戻り、あなたのご主人様を――リズリーを助けて欲しいのです」
――過去に、戻る?
女神様の話によると、本来なら大聖女になるはずの彼女を死なせてしまったこの国は、このままだと滅んでしまうらしい。いい気味だ。こんな国さっさと滅んでしまえ。
しかしそれでは、この世界全体が危なくなるらしく、そのためにも過去に戻って彼女を助けて欲しいのだそうだ。
――そんな回りくどいことせず、今すぐ生き返らせてくれりゃいいじゃねーか。
リズが本物の聖女でこの世界に必要だってなら、そのくらいやれよ。神様だろ。
「我々はこの世界全体に大きな干渉はできても、人間たちの営みに介入はできません。ただ、人間では無い生き物であれば、多少の干渉が可能なのですよ」
――ふーん、神様の力ってやつは、随分と極端なんだな。
「ええ、私もそう思います」
女神様は少し困ったように笑いながら、吾輩の頭を優しく撫でた。
「だから、猫よ。いいえ、ミケランジェロよ、あなたに頼みたいのです」
――いいのか? 猫にできることなんて、たかが知れているぞ?
「ええ。ですが、小さな変化が後に大きな結果をもたらす――そういうこともあります。……やってもらえませんか?」
吾輩はすぐそばに横たわる、動かなくなったリズリーを見つめる。彼女がこんな最期にならない可能性もあるんだろうか。それなら――。
「……ニャーン」
――いいだろう、やってやる。
吾輩が答えると、女神様はニッコリと嬉しそうに微笑んだ。
「では頼みましたよ、ミケランジェロ」
その言葉が終わると同時に、辺り一面がパァッと光りだして、あまりの眩しさに吾輩は目を閉じた。
◇ ◇ ◇
次に吾輩が目を開けると、真っ白な雪の降り積もる、真冬の林の中にいた。
――さっっっむ!!
そういやどのタイミングに戻すとか、あの女神教えてくれなかったな。
自分の前足を見てみると、時を戻る前に比べて随分小さい。
ああそうだ。リズと出会った時、吾輩は母猫からはぐれてミャーミャー探しながら歩き回っていたら、公爵家の敷地に迷い込んだのだった。
周囲に母猫の姿らしいものは見当たらない。多分これははぐれた後だ。
「ミャーミャー!」
――誰かぁ!
叫んでみるが、周囲に人影はおろか、動物の影もない。いやこれ、またちゃんとリズに会えるのか?
幸い雪はもう降っていないが、どうやってリズと出会ったかも吾輩あんまり覚えてないぞ。
少し遠くに公爵家のお屋敷も見えるが、カーテンはどこも閉まっていて、誰かに気付いてもらえる雰囲気すらないし、誰かが出てくる気配もない。
リズと出会わないことには、助けることもできないじゃないか!
「ミャーミャー……!」
――リズー! リズー!
懸命に叫んでみるが、周囲に変化らしきものはない。
うう、さむい……。このままじゃ、もう一度リズと会う前に死んでしまう。
「……ミャー」
――……たすけて。
ああ、だめだ。子猫の体じゃもう鳴く力も出てこない。
せっかく女神様にもらった、リズを助けるチャンスなのに。
諦めかけたその時、バタバタと誰かが駆けてくる音が聞こえてきた。
「あ、いたわ!」
人間の声だ……懐かしい。
それにこれは、リズの声じゃないか!
気付いて目を開けると、優しい金髪に夕陽のような赤い瞳で微笑む少女――リズリー・フォン・ティファレイトがそこにいた。
「寒かったでしょう? もう大丈夫よ」
そう言ってリズは吾輩を柔らかい布で包んで持ち上げる。
「……ミャー!」
――ああ、本当に会えた!
生きているリズだ。
二年半前、吾輩を見つけてくれたリズだ!
またこの声を聞けるなんて、こんなに嬉しいことはない。
「さぁ、暖かい場所へ行きましょう」




