第4節 言い訳
それからさらに数日、セドリックはリディアに会わないまま過ごした。
朝になれば仕事へ向かい、夜になれば屋敷へ戻る。父から渡された書類を読み、商人と話し、貴族の集まりへ顔を出した。
やるべきことは、いくらでもあった。
忙しくしていれば、考えずに済むと思った。
実際、昼のあいだは、あまり思い出さずにいられた。数字を追い、だれかの話へ耳を傾け、次の予定に急かされているあいだだけは、リディアの顔も、あの夜のことも、胸の奥へ沈めておくことができた。
けれど、一人になると、すぐに浮かんできた。
夜、寝台へ横になった時。朝、まだ薄暗い部屋で目を覚ました時。馬車の窓から、流れていく街並みを眺めている時。
何もしていない時間へ戻ると、リディアの声が聞こえた。
『セドリック様がいてくださると安心します』
その言葉が、何度も胸の中へ戻ってきた。
忘れなくてはならない。
終わったことだ。
もう二度と会わない。
そう決めていた。
けれど、決めたことと、心が望むことは同じではなかった。
次の夜会の日が近づくにつれ、セドリックは落ち着かなくなった。
リディアも来るのだろうか。
来たなら、どのような顔をするのだろう。自分を避けるのか。何もなかったように笑うのか。それとも、もう二度と話しかけてはくれないのか。
考えてはいけないと思った。
それでも、気づけば考えていた。
夜会へ行かなければよい。
初めは、そう思っていた。体調が悪いと言ってもよい。別の予定があると断ることもできる。
けれど、父から出席するように言われていた。王家と親しい貴族も多く集まる夜会だった。次期侯爵として、顔を出さないわけにはいかない。
断ることは難しかった。
セドリックは、そのことに少し安堵している自分へ気づいた。
行きたくて行くのではない。
仕事だから仕方がない。
リディアがいたとしても、会うために出席するのではない。ただ同じ場所へ行くだけだ。
そう言い訳ができる。
その時にはもう、自分が何を望んでいるのか、セドリックには分かっていたのかもしれない。
けれど、見ないふりをした。
夜会の日、セドリックは鏡の前で身支度を整えた。
襟元を直し、髪を整え、上着のしわを確かめる。いつもと同じ支度のはずなのに、指先は妙に細かなところまで気にしていた。
最後に、左手へ目を落とした。
婚約指輪が、部屋の灯りを受けて静かに光っていた。
外すことなど考えなかった。
自分はエレノアの婚約者だった。
その事実を、忘れてはならない。
今日はリディアと話さない。目が合っても近づかない。もし向こうから声をかけられても、礼だけをして離れる。
鏡の中の自分へ、何度もそう言い聞かせた。
「今日で終わりだ」
口にしてから、少しおかしいと思った。
終わりにするのではない。
すでに終わっているはずだった。
あの夜だけ。
一度だけ。
これ以上は何もない。
そうでなくてはならなかった。
夜会の会場には、すでに多くの人が集まっていた。
明るい灯り。音楽。笑い声。色とりどりの衣装。杯が触れ合う小さな音。
だれもが、いつもと変わらない顔で言葉を交わしていた。
セドリックも、いつもどおりに振る舞った。声をかけられれば笑い、杯を渡されれば受け取り、父の知人へ挨拶をした。
けれど、話の内容はほとんど頭へ入らなかった。
会場へ足を踏み入れた時から、目は無意識に一人の姿を探していた。
探してはいけないと思っている。
それでも探していた。
明るい髪。
淡い色のドレス。
少し困ったように笑う顔。
見つけたくない。
見つけたい。
二つの気持ちが、同じ胸の中にあった。
しばらくして、人の向こうにリディアの姿が見えた。
セドリックの足が止まった。
リディアは一人ではなかった。父親らしい男性のとなりで、別の貴族と話している。
その横顔は穏やかだった。
何もなかったように見えた。
苦しんでいるのは、自分だけなのかもしれない。
そう思った。
その考えに、少し安心した。
同時に、胸の奥がわずかに痛んだ。
リディアが何も感じていないなら、もう自分を必要としていないなら、その方がよいはずだった。
それなのに、寂しいと思った。
セドリックは、すぐに視線を逸らした。
見てはいけない。
近づいてはいけない。
別の貴族との会話へ戻った。相手が何を話しているのか、ほとんど聞こえていなかった。それでも何度か相づちを打ち、笑うところでは笑った。
意識だけが、ずっと会場の向こうへ向いていた。
リディアは、こちらを見ただろうか。
まだ同じ場所にいるだろうか。
そのことばかりが気になった。
やがて話が終わると、セドリックは人の少ない方へ移動した。
息を整えたかった。
自分を落ち着かせたかった。
庭園へ続く扉の近くまで来た時、背後から小さな声がした。
「セドリック様」
聞き間違えるはずのない声だった。
振り返る。
リディアが立っていた。
遠くからは穏やかに見えた顔も、近くで見ると少し疲れていた。目元にも、笑い方にも、以前とは違うものがあった。
「こんばんは」
リディアは、いつもと同じように頭を下げた。
「こんばんは」
セドリックも礼を返した。
それだけで終わるはずだった。
挨拶だけ。
そう決めていた。
けれど、どちらもその場を離れなかった。
「お元気でしたか」
「ああ」
少し遅れて、セドリックも尋ね返した。
「君は?」
「私も」
短い会話だった。
そのあとへ、長い沈黙が落ちた。
話したいことはいくらでもあるように思えた。けれど、何を言ってもいけないような気もした。
リディアは、しばらく床へ視線を落としていた。
やがて、小さく息を吸った。
「もう終わりにしましょう」
その言葉を聞いた瞬間、セドリックの胸の奥が冷えた。
正しい言葉だった。
自分も、同じことを言うつもりだった。
そうでなくてはならない。
「そうだね」
返した声は、思っていたよりも静かだった。
「あなたには、婚約者がいらっしゃいますもの」
「ああ」
「これ以上は、いけません」
「分かっている」
すべて正しかった。
反論することは何もなかった。
ここで離れればよい。
これで終わる。
終わらせられる。
そう思った。
けれど、正しい言葉を交わしたあとの沈黙は、ひどく苦しかった。
リディアは、無理に笑った。
「今まで、ありがとうございました」
別れの言葉なのだと分かった。
「こちらこそ」
セドリックも答えた。
それで終わるはずだった。
けれど、リディアはすぐには動かなかった。
セドリックも動けなかった。
会場では音楽が流れていた。近くを人々が通り過ぎ、笑い声が聞こえた。
だれも、二人が何を話しているのか知らない。
そのことに、セドリックはまた少し安堵した。
「最後に」
リディアが言った。
「少しだけ、お話ししてもよろしいですか」
セドリックは、すぐには答えなかった。
最後。
その言葉が胸へ残った。
今日で終わる。
これが最後になる。
それなら、少しくらい話してもよいのではないか。
別れの前に、きちんと気持ちを整理するために。
それくらいなら、何も悪いことではない。
そう思った。
「少しだけなら」
答えると、リディアはほっとしたように微笑んだ。
二人は庭園へ続く扉を抜けた。
会場の人声はまだ聞こえていたが、扉を一枚隔てただけで、音楽も笑い声も遠くなったように感じられた。
初めは、本当に他愛のない話をした。
今夜の音楽。飾られている花。出された料理。
以前なら、何も考えずに話していたことだった。
「この花、お好きですか」
リディアが、庭園の花壇を見ながら尋ねた。
「嫌いではないよ」
「では、好きな花は?」
セドリックは少し考えた。
すぐに浮かんだのは、白い花だった。
幼い日に、エレノアへ渡した花。
名前も知らない、小さな花。
「名前は分からないんだ」
「まあ」
「王城の庭に咲いていた、白い花だよ」
そこまで話して、言わなければよかったと思った。
けれど、リディアはやさしく笑った。
「大切な思い出があるのですね」
「ああ」
「婚約者様との?」
セドリックはうなずいた。
リディアは、わずかに目を伏せた。
「すてきですね」
声は穏やかだった。
けれど、その笑顔は少し寂しそうに見えた。
セドリックは、胸に小さな痛みを覚えた。
エレノアとの思い出を話したことで、リディアを傷つけたような気がした。
そんなことを思う資格などない。
傷つけられているのは、何も知らないエレノアの方だった。
それでも、その時のセドリックが見ていたのは、目の前にいるリディアの顔だった。
話題を変えた。
子どものころのことを話した。狩りで失敗したこと。馬から落ちたこと。父に叱られたこと。
リディアも、自分の失敗を話した。舞踏の練習で転んだこと。茶会で砂糖をこぼしたこと。幼いころ、兄のあとを追いかけて迷子になったこと。
二人で笑った。
笑ってしまった。
終わりを告げるための時間だったはずなのに、いつの間にか以前と同じように話していた。
その時間は楽だった。
何も考えなくてよかった。
侯爵家のことも、領地のことも、エレノアとの未来も、ほんのしばらく胸の外へ置いておくことができた。
「最近、眠れていますか」
リディアが尋ねた。
セドリックは少し驚いた。
「なぜ?」
「お顔がお疲れに見えましたので」
エレノアにも、同じことを言われた。
けれど、その時は書類を読んでいたと嘘をついた。
「少しだけ」
今度は本当のことを言った。
「眠れていない」
「私もです」
リディアは小さく笑った。
「目を閉じると、考えてしまいます」
何を、とは言わなかった。
言わなくても分かった。
セドリックも同じだった。
「後悔している?」
気づけば、そう尋ねていた。
聞くべきではなかった。
それでも、答えを知りたかった。
リディアはすぐには答えず、花壇へ視線を向けたまま黙っていた。
「後悔しなくてはならないと思っています」
やがて、静かにそう言った。
不思議な答えだった。
後悔しているのではない。
後悔しなくてはならない。
「では」
セドリックは言葉を選んだ。
「本当は?」
リディアが、ゆっくりとこちらを見る。
その瞳は、泣きそうに揺れていた。
「お尋ねにならないでください」
小さな声だった。
その言葉だけで、答えは分かった。
リディアも忘れていない。
そのことに、セドリックは安心してしまった。
安心してはいけないのに、うれしいと思った。
胸の奥へ、かすかな温かさが広がった。
苦しんでいるのも。
忘れられないのも。
もう一度会いたいと思っていたのも。
自分だけではなかった。
それが、ひどく甘い慰めになった。
遠くで、時計の鐘が鳴った。
リディアが顔を上げる。
「もう、戻らなくては」
「ああ」
終わりの時間だった。
今度こそ、ここで別れなくてはならない。
「では、失礼いたします」
リディアが頭を下げた。
「また」
そう言いかけて、セドリックは言葉を止めた。
また。
あってはいけない。
「気をつけて」
言い直した。
「ありがとうございます」
リディアは、少しだけ笑った。
二人は背を向け、別々の方向へ歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
終わった。
これで終わる。
今度こそ。
このまま会場へ戻ればよい。別の人と話し、夜が終われば屋敷へ帰る。明日からは、またエレノアとの未来を見ればよい。
青いドレス。
二人で選ぶ家具。
明るい色の食器。
いつか暮らす、新しい部屋。
自分が進むべき道は分かっていた。
それでも、足が止まった。
なぜ止まったのか、分からないふりをした。
振り返ってはいけない。
そう思った。
もし振り返って、リディアがもう歩き去っていたなら、それで終われる。
もし、まだそこにいたとしても、自分は会場へ戻らなくてはならない。
分かっていた。
けれど、セドリックは振り返った。
リディアも、こちらを見ていた。
二人の目が合った。
リディアは少し驚いた顔をした。セドリックも、きっと同じ顔をしていた。
どちらも終わらせるつもりだった。
まっすぐ歩き去るつもりだった。
それなのに、二人とも振り返っていた。
しばらく、どちらも動かなかった。
声も出さず、ただ見つめ合っていた。
先に笑ったのは、リディアだった。
「困りましたね」
泣きそうな笑顔だった。
セドリックも笑ってしまった。
「本当だ」
笑えることではなかった。
けれど、ほかにどのような顔をすればよいのか分からなかった。
リディアがゆっくりと近づいてくる。
一歩、また一歩。
そのたびに、終わらせるはずだった距離が縮まっていった。
「今日だけ」
リディアが言った。
声は、とても小さかった。
「最後ですから」
セドリックは答えなかった。
答えれば、何かが決まってしまうような気がした。
けれど、答えないことも、拒むことではなかった。
終わらせたいと思っていた。
その気持ちは本物だった。
エレノアを裏切りたくない。あの笑顔を傷つけたくない。
それも本物だった。
白い花。
丘の上。
婚約指輪。
青いドレス。
二人で選ぶ家具。
どれも忘れてはいなかった。
終わらせる理由は、いくらでもあった。
婚約者がいる。
約束がある。
守るべき未来がある。
自分が間違っている。
リディアを傷つける。
エレノアを裏切る。
どれも正しかった。
どれも、十分な理由だった。
けれど、会いたい理由は一つしかなかった。
会いたい。
ただ、それだけだった。
その一つが、その夜だけは、すべての正しい理由よりも少しだけ重かった。
リディアは、セドリックの前で立ち止まった。
手を伸ばせば届く距離だった。
「少しだけ、お庭を歩きませんか」
断れば終われる。
今なら、まだ終われる。
このまま会場へ戻ればよい。リディアへ背を向ければよい。
それだけだった。
セドリックは、何度も自分へそう言い聞かせた。
けれど、リディアは彼を見つめていた。
不安そうに。
それでも、どこか期待するように。
その瞳を見た時、セドリックはまた、自分が必要とされていると思った。
「……ああ」
うなずくと、リディアの顔がわずかにやわらいだ。
二人は庭園の奥へ歩き出した。
並んで。
けれど、触れないほどの距離を空けて。
外から見れば、ただ夜会の途中で庭を歩いているだけに見えただろう。
何もおかしなことはない。
話をするだけ。
少し歩くだけ。
今日で最後だから。
それくらいなら。
歩みを進めるたび、言い訳は少しずつ形を変えた。
庭園の奥には、小さな控え室があった。夜会の客が休むために使う部屋だったが、今は明かりもなく、人の気配もなかった。
リディアは、その扉の前で足を止めた。
「少し、休みませんか」
セドリックは扉を見た。
断る理由は、いくらでもあった。
疲れてはいない。
会場へ戻らなくてはならない。
二人だけで部屋へ入るべきではない。
エレノアとの約束がある。
けれど、何も言わなかった。
リディアが扉へ手をかける。
蝶番が小さな音を立て、暗い部屋の中へ廊下の細い光が差し込んだ。
リディアは先に中へ入った。
それから振り返った。
「今日だけです」
もう一度、そう言った。
「これで、最後にします」
その言葉はセドリックへ向けられているようで、リディア自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。
セドリックは、部屋の外に立っていた。
まだ戻ることができた。
ほんの数歩、来た道を引き返せばよい。
会場へ。
婚約指輪へ。
青いドレスを着て、自分のとなりに立つ日を待っているエレノアのもとへ。
戻る道は、閉ざされていなかった。
リディアが手を差し出した。
強く求める手ではなかった。
拒まれれば、そのまま下ろすつもりにも見えた。
だからこそ、セドリックは、自分で選ばなくてはならなかった。
手を取るか。
背を向けるか。
だれかに押されたわけではない。
迷っているあいだも、扉は開いたままだった。
セドリックは左手へ目を落とした。
婚約指輪は、外へ立っていた時と同じように、何も知らない光を返していた。
白い花も、丘の約束も、青いドレスも、消えてはいなかった。
そのすべてを覚えたまま、セドリックは右手を伸ばした。
リディアの手を取った。
扉の内側へ足を踏み入れる。
背後で、扉が静かに閉じた。
今日だけ。
最後だから。
これで終わりにする。
その夜、二人は同じ言い訳を何度も重ねた。
けれど、一度目とは違っていた。
知らなかったわけではない。
迷う暇がなかったわけでもない。
戻る道を見失っていたわけでもなかった。
セドリックは、何度も戻ることができた。
挨拶だけで離れることも。
別れの言葉を受け入れることも。
振り返らずに歩くことも。
庭園へ出ないことも。
扉の前で手を取らないこともできた。
そのすべてを知りながら、一つずつ選ばなかった。
終わらせるために会ったはずの時間は、終わらせられなかった思い出になった。
そして二人は、次に別れようとする時にも、きっとこの夜を思い出すことになる。
最後だったからではない。
最後にできなかったから。




