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堕落  作者: Atelier Lotus


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4/9

第4節 言い訳

 それからさらに数日、セドリックはリディアに会わないまま過ごした。

 朝になれば仕事へ向かい、夜になれば屋敷へ戻る。父から渡された書類を読み、商人と話し、貴族の集まりへ顔を出した。

 やるべきことは、いくらでもあった。

 忙しくしていれば、考えずに済むと思った。

 実際、昼のあいだは、あまり思い出さずにいられた。数字を追い、だれかの話へ耳を傾け、次の予定に急かされているあいだだけは、リディアの顔も、あの夜のことも、胸の奥へ沈めておくことができた。

 けれど、一人になると、すぐに浮かんできた。

 夜、寝台へ横になった時。朝、まだ薄暗い部屋で目を覚ました時。馬車の窓から、流れていく街並みを眺めている時。

 何もしていない時間へ戻ると、リディアの声が聞こえた。

『セドリック様がいてくださると安心します』

 その言葉が、何度も胸の中へ戻ってきた。

 忘れなくてはならない。

 終わったことだ。

 もう二度と会わない。

 そう決めていた。

 けれど、決めたことと、心が望むことは同じではなかった。

 次の夜会の日が近づくにつれ、セドリックは落ち着かなくなった。

 リディアも来るのだろうか。

 来たなら、どのような顔をするのだろう。自分を避けるのか。何もなかったように笑うのか。それとも、もう二度と話しかけてはくれないのか。

 考えてはいけないと思った。

 それでも、気づけば考えていた。

 夜会へ行かなければよい。

 初めは、そう思っていた。体調が悪いと言ってもよい。別の予定があると断ることもできる。

 けれど、父から出席するように言われていた。王家と親しい貴族も多く集まる夜会だった。次期侯爵として、顔を出さないわけにはいかない。

 断ることは難しかった。

 セドリックは、そのことに少し安堵している自分へ気づいた。

 行きたくて行くのではない。

 仕事だから仕方がない。

 リディアがいたとしても、会うために出席するのではない。ただ同じ場所へ行くだけだ。

 そう言い訳ができる。

 その時にはもう、自分が何を望んでいるのか、セドリックには分かっていたのかもしれない。

 けれど、見ないふりをした。

 夜会の日、セドリックは鏡の前で身支度を整えた。

 襟元を直し、髪を整え、上着のしわを確かめる。いつもと同じ支度のはずなのに、指先は妙に細かなところまで気にしていた。

 最後に、左手へ目を落とした。

 婚約指輪が、部屋の灯りを受けて静かに光っていた。

 外すことなど考えなかった。

 自分はエレノアの婚約者だった。

 その事実を、忘れてはならない。

 今日はリディアと話さない。目が合っても近づかない。もし向こうから声をかけられても、礼だけをして離れる。

 鏡の中の自分へ、何度もそう言い聞かせた。

「今日で終わりだ」

 口にしてから、少しおかしいと思った。

 終わりにするのではない。

 すでに終わっているはずだった。

 あの夜だけ。

 一度だけ。

 これ以上は何もない。

 そうでなくてはならなかった。

 夜会の会場には、すでに多くの人が集まっていた。

 明るい灯り。音楽。笑い声。色とりどりの衣装。杯が触れ合う小さな音。

 だれもが、いつもと変わらない顔で言葉を交わしていた。

 セドリックも、いつもどおりに振る舞った。声をかけられれば笑い、杯を渡されれば受け取り、父の知人へ挨拶をした。

 けれど、話の内容はほとんど頭へ入らなかった。

 会場へ足を踏み入れた時から、目は無意識に一人の姿を探していた。

 探してはいけないと思っている。

 それでも探していた。

 明るい髪。

 淡い色のドレス。

 少し困ったように笑う顔。

 見つけたくない。

 見つけたい。

 二つの気持ちが、同じ胸の中にあった。

 しばらくして、人の向こうにリディアの姿が見えた。

 セドリックの足が止まった。

 リディアは一人ではなかった。父親らしい男性のとなりで、別の貴族と話している。

 その横顔は穏やかだった。

 何もなかったように見えた。

 苦しんでいるのは、自分だけなのかもしれない。

 そう思った。

 その考えに、少し安心した。

 同時に、胸の奥がわずかに痛んだ。

 リディアが何も感じていないなら、もう自分を必要としていないなら、その方がよいはずだった。

 それなのに、寂しいと思った。

 セドリックは、すぐに視線を逸らした。

 見てはいけない。

 近づいてはいけない。

 別の貴族との会話へ戻った。相手が何を話しているのか、ほとんど聞こえていなかった。それでも何度か相づちを打ち、笑うところでは笑った。

 意識だけが、ずっと会場の向こうへ向いていた。

 リディアは、こちらを見ただろうか。

 まだ同じ場所にいるだろうか。

 そのことばかりが気になった。

 やがて話が終わると、セドリックは人の少ない方へ移動した。

 息を整えたかった。

 自分を落ち着かせたかった。

 庭園へ続く扉の近くまで来た時、背後から小さな声がした。

「セドリック様」

 聞き間違えるはずのない声だった。

 振り返る。

 リディアが立っていた。

 遠くからは穏やかに見えた顔も、近くで見ると少し疲れていた。目元にも、笑い方にも、以前とは違うものがあった。

「こんばんは」

 リディアは、いつもと同じように頭を下げた。

「こんばんは」

 セドリックも礼を返した。

 それだけで終わるはずだった。

 挨拶だけ。

 そう決めていた。

 けれど、どちらもその場を離れなかった。

「お元気でしたか」

「ああ」

 少し遅れて、セドリックも尋ね返した。

「君は?」

「私も」

 短い会話だった。

 そのあとへ、長い沈黙が落ちた。

 話したいことはいくらでもあるように思えた。けれど、何を言ってもいけないような気もした。

 リディアは、しばらく床へ視線を落としていた。

 やがて、小さく息を吸った。

「もう終わりにしましょう」

 その言葉を聞いた瞬間、セドリックの胸の奥が冷えた。

 正しい言葉だった。

 自分も、同じことを言うつもりだった。

 そうでなくてはならない。

「そうだね」

 返した声は、思っていたよりも静かだった。

「あなたには、婚約者がいらっしゃいますもの」

「ああ」

「これ以上は、いけません」

「分かっている」

 すべて正しかった。

 反論することは何もなかった。

 ここで離れればよい。

 これで終わる。

 終わらせられる。

 そう思った。

 けれど、正しい言葉を交わしたあとの沈黙は、ひどく苦しかった。

 リディアは、無理に笑った。

「今まで、ありがとうございました」

 別れの言葉なのだと分かった。

「こちらこそ」

 セドリックも答えた。

 それで終わるはずだった。

 けれど、リディアはすぐには動かなかった。

 セドリックも動けなかった。

 会場では音楽が流れていた。近くを人々が通り過ぎ、笑い声が聞こえた。

 だれも、二人が何を話しているのか知らない。

 そのことに、セドリックはまた少し安堵した。

「最後に」

 リディアが言った。

「少しだけ、お話ししてもよろしいですか」

 セドリックは、すぐには答えなかった。

 最後。

 その言葉が胸へ残った。

 今日で終わる。

 これが最後になる。

 それなら、少しくらい話してもよいのではないか。

 別れの前に、きちんと気持ちを整理するために。

 それくらいなら、何も悪いことではない。

 そう思った。

「少しだけなら」

 答えると、リディアはほっとしたように微笑んだ。

 二人は庭園へ続く扉を抜けた。

 会場の人声はまだ聞こえていたが、扉を一枚隔てただけで、音楽も笑い声も遠くなったように感じられた。

 初めは、本当に他愛のない話をした。

 今夜の音楽。飾られている花。出された料理。

 以前なら、何も考えずに話していたことだった。

「この花、お好きですか」

 リディアが、庭園の花壇を見ながら尋ねた。

「嫌いではないよ」

「では、好きな花は?」

 セドリックは少し考えた。

 すぐに浮かんだのは、白い花だった。

 幼い日に、エレノアへ渡した花。

 名前も知らない、小さな花。

「名前は分からないんだ」

「まあ」

「王城の庭に咲いていた、白い花だよ」

 そこまで話して、言わなければよかったと思った。

 けれど、リディアはやさしく笑った。

「大切な思い出があるのですね」

「ああ」

「婚約者様との?」

 セドリックはうなずいた。

 リディアは、わずかに目を伏せた。

「すてきですね」

 声は穏やかだった。

 けれど、その笑顔は少し寂しそうに見えた。

 セドリックは、胸に小さな痛みを覚えた。

 エレノアとの思い出を話したことで、リディアを傷つけたような気がした。

 そんなことを思う資格などない。

 傷つけられているのは、何も知らないエレノアの方だった。

 それでも、その時のセドリックが見ていたのは、目の前にいるリディアの顔だった。

 話題を変えた。

 子どものころのことを話した。狩りで失敗したこと。馬から落ちたこと。父に叱られたこと。

 リディアも、自分の失敗を話した。舞踏の練習で転んだこと。茶会で砂糖をこぼしたこと。幼いころ、兄のあとを追いかけて迷子になったこと。

 二人で笑った。

 笑ってしまった。

 終わりを告げるための時間だったはずなのに、いつの間にか以前と同じように話していた。

 その時間は楽だった。

 何も考えなくてよかった。

 侯爵家のことも、領地のことも、エレノアとの未来も、ほんのしばらく胸の外へ置いておくことができた。

「最近、眠れていますか」

 リディアが尋ねた。

 セドリックは少し驚いた。

「なぜ?」

「お顔がお疲れに見えましたので」

 エレノアにも、同じことを言われた。

 けれど、その時は書類を読んでいたと嘘をついた。

「少しだけ」

 今度は本当のことを言った。

「眠れていない」

「私もです」

 リディアは小さく笑った。

「目を閉じると、考えてしまいます」

 何を、とは言わなかった。

 言わなくても分かった。

 セドリックも同じだった。

「後悔している?」

 気づけば、そう尋ねていた。

 聞くべきではなかった。

 それでも、答えを知りたかった。

 リディアはすぐには答えず、花壇へ視線を向けたまま黙っていた。

「後悔しなくてはならないと思っています」

 やがて、静かにそう言った。

 不思議な答えだった。

 後悔しているのではない。

 後悔しなくてはならない。

「では」

 セドリックは言葉を選んだ。

「本当は?」

 リディアが、ゆっくりとこちらを見る。

 その瞳は、泣きそうに揺れていた。

「お尋ねにならないでください」

 小さな声だった。

 その言葉だけで、答えは分かった。

 リディアも忘れていない。

 そのことに、セドリックは安心してしまった。

 安心してはいけないのに、うれしいと思った。

 胸の奥へ、かすかな温かさが広がった。

 苦しんでいるのも。

 忘れられないのも。

 もう一度会いたいと思っていたのも。

 自分だけではなかった。

 それが、ひどく甘い慰めになった。

 遠くで、時計の鐘が鳴った。

 リディアが顔を上げる。

「もう、戻らなくては」

「ああ」

 終わりの時間だった。

 今度こそ、ここで別れなくてはならない。

「では、失礼いたします」

 リディアが頭を下げた。

「また」

 そう言いかけて、セドリックは言葉を止めた。

 また。

 あってはいけない。

「気をつけて」

 言い直した。

「ありがとうございます」

 リディアは、少しだけ笑った。

 二人は背を向け、別々の方向へ歩き出した。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 終わった。

 これで終わる。

 今度こそ。

 このまま会場へ戻ればよい。別の人と話し、夜が終われば屋敷へ帰る。明日からは、またエレノアとの未来を見ればよい。

 青いドレス。

 二人で選ぶ家具。

 明るい色の食器。

 いつか暮らす、新しい部屋。

 自分が進むべき道は分かっていた。

 それでも、足が止まった。

 なぜ止まったのか、分からないふりをした。

 振り返ってはいけない。

 そう思った。

 もし振り返って、リディアがもう歩き去っていたなら、それで終われる。

 もし、まだそこにいたとしても、自分は会場へ戻らなくてはならない。

 分かっていた。

 けれど、セドリックは振り返った。

 リディアも、こちらを見ていた。

 二人の目が合った。

 リディアは少し驚いた顔をした。セドリックも、きっと同じ顔をしていた。

 どちらも終わらせるつもりだった。

 まっすぐ歩き去るつもりだった。

 それなのに、二人とも振り返っていた。

 しばらく、どちらも動かなかった。

 声も出さず、ただ見つめ合っていた。

 先に笑ったのは、リディアだった。

「困りましたね」

 泣きそうな笑顔だった。

 セドリックも笑ってしまった。

「本当だ」

 笑えることではなかった。

 けれど、ほかにどのような顔をすればよいのか分からなかった。

 リディアがゆっくりと近づいてくる。

 一歩、また一歩。

 そのたびに、終わらせるはずだった距離が縮まっていった。

「今日だけ」

 リディアが言った。

 声は、とても小さかった。

「最後ですから」

 セドリックは答えなかった。

 答えれば、何かが決まってしまうような気がした。

 けれど、答えないことも、拒むことではなかった。

 終わらせたいと思っていた。

 その気持ちは本物だった。

 エレノアを裏切りたくない。あの笑顔を傷つけたくない。

 それも本物だった。

 白い花。

 丘の上。

 婚約指輪。

 青いドレス。

 二人で選ぶ家具。

 どれも忘れてはいなかった。

 終わらせる理由は、いくらでもあった。

 婚約者がいる。

 約束がある。

 守るべき未来がある。

 自分が間違っている。

 リディアを傷つける。

 エレノアを裏切る。

 どれも正しかった。

 どれも、十分な理由だった。

 けれど、会いたい理由は一つしかなかった。

 会いたい。

 ただ、それだけだった。

 その一つが、その夜だけは、すべての正しい理由よりも少しだけ重かった。

 リディアは、セドリックの前で立ち止まった。

 手を伸ばせば届く距離だった。

「少しだけ、お庭を歩きませんか」

 断れば終われる。

 今なら、まだ終われる。

 このまま会場へ戻ればよい。リディアへ背を向ければよい。

 それだけだった。

 セドリックは、何度も自分へそう言い聞かせた。

 けれど、リディアは彼を見つめていた。

 不安そうに。

 それでも、どこか期待するように。

 その瞳を見た時、セドリックはまた、自分が必要とされていると思った。

「……ああ」

 うなずくと、リディアの顔がわずかにやわらいだ。

 二人は庭園の奥へ歩き出した。

 並んで。

 けれど、触れないほどの距離を空けて。

 外から見れば、ただ夜会の途中で庭を歩いているだけに見えただろう。

 何もおかしなことはない。

 話をするだけ。

 少し歩くだけ。

 今日で最後だから。

 それくらいなら。

 歩みを進めるたび、言い訳は少しずつ形を変えた。

 庭園の奥には、小さな控え室があった。夜会の客が休むために使う部屋だったが、今は明かりもなく、人の気配もなかった。

 リディアは、その扉の前で足を止めた。

「少し、休みませんか」

 セドリックは扉を見た。

 断る理由は、いくらでもあった。

 疲れてはいない。

 会場へ戻らなくてはならない。

 二人だけで部屋へ入るべきではない。

 エレノアとの約束がある。

 けれど、何も言わなかった。

 リディアが扉へ手をかける。

 蝶番が小さな音を立て、暗い部屋の中へ廊下の細い光が差し込んだ。

 リディアは先に中へ入った。

 それから振り返った。

「今日だけです」

 もう一度、そう言った。

「これで、最後にします」

 その言葉はセドリックへ向けられているようで、リディア自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。

 セドリックは、部屋の外に立っていた。

 まだ戻ることができた。

 ほんの数歩、来た道を引き返せばよい。

 会場へ。

 婚約指輪へ。

 青いドレスを着て、自分のとなりに立つ日を待っているエレノアのもとへ。

 戻る道は、閉ざされていなかった。

 リディアが手を差し出した。

 強く求める手ではなかった。

 拒まれれば、そのまま下ろすつもりにも見えた。

 だからこそ、セドリックは、自分で選ばなくてはならなかった。

 手を取るか。

 背を向けるか。

 だれかに押されたわけではない。

 迷っているあいだも、扉は開いたままだった。

 セドリックは左手へ目を落とした。

 婚約指輪は、外へ立っていた時と同じように、何も知らない光を返していた。

 白い花も、丘の約束も、青いドレスも、消えてはいなかった。

 そのすべてを覚えたまま、セドリックは右手を伸ばした。

 リディアの手を取った。

 扉の内側へ足を踏み入れる。

 背後で、扉が静かに閉じた。

 今日だけ。

 最後だから。

 これで終わりにする。

 その夜、二人は同じ言い訳を何度も重ねた。

 けれど、一度目とは違っていた。

 知らなかったわけではない。

 迷う暇がなかったわけでもない。

 戻る道を見失っていたわけでもなかった。

 セドリックは、何度も戻ることができた。

 挨拶だけで離れることも。

 別れの言葉を受け入れることも。

 振り返らずに歩くことも。

 庭園へ出ないことも。

 扉の前で手を取らないこともできた。

 そのすべてを知りながら、一つずつ選ばなかった。

 終わらせるために会ったはずの時間は、終わらせられなかった思い出になった。

 そして二人は、次に別れようとする時にも、きっとこの夜を思い出すことになる。

 最後だったからではない。

 最後にできなかったから。

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