第5節 罪
それから数日、セドリックは何事もなかったように日々を過ごした。
朝になれば起き、身支度を整え、食事を取る。父から渡された書類を読み、人と会い、必要な言葉を返した。求められれば笑い、夜になれば自室へ戻った。
昨日までと何も変わらない暮らしだった。
けれど、セドリックの中には、以前よりも大きな秘密があった。
一度だけではなかった。
間違いだったと言い切ることも、心が弱っていただけだと自分に言い聞かせることも、もうできなかった。
最初の夜は、過ちだった。
そう思おうとした。
けれど二度目は、自分で選んだ。
終わらせるために会い、終わらせられると分かっていながら、リディアの手を取った。
だれかに強いられたわけではない。酒に酔っていたわけでも、何も考えられないほど取り乱していたわけでもなかった。
正しいことも、間違っていることも、すべて分かっていた。
挨拶だけで離れることもできた。
別れの言葉を受け入れることもできた。
振り返らずに歩くことも、扉の前で手を取らないこともできた。
それでも、一つずつ選ばなかった。
その事実だけは、どのような言葉を使っても変えることができなかった。
夜になるたび、セドリックは思った。
これで終わりにする。
今度こそ。
もう会わない。
けれど、以前ほど、その決意を信じることができなくなっていた。
自分の言葉が、自分の中で少しずつ軽くなっていた。
終わり。
最後。
二度と。
そう口にしても、もう一人の自分がどこかで聞いているような気がした。
どうせまた会うのだろう。
どうせまた、同じ言い訳を見つけるのだろう。
声に出してはいない。けれど、心の奥では、すでにそう思っていた。
そのことが、何よりも恐ろしかった。
そんなある日、エレノアから手紙が届いた。
アッシュフォード領へ出る予定があるため、もし時間が合えば、一緒に丘へ行きたい。
丁寧な文字で、そう書かれていた。
丘。
その一文字を見た時、セドリックの手が止まった。
二人で約束をした場所だった。
十六歳の春。
領地を見下ろしながら、二人で未来を話した。
困った時には相談すること。
うれしい時には、一緒に笑うこと。
悲しい時には、一緒に乗り越えること。
いつか子どもが生まれたなら、その手を引いて、あの丘へ連れていくこと。
『絶対に幸せにする』
自分がそう言った。
エレノアは、目に涙を浮かべながら笑った。
『私も、必ずあなたを幸せにします』
あの時の声を、今もはっきり覚えていた。
手紙を持ったまま、セドリックはしばらく動けなかった。
行かない方がよいのかもしれない。
そう思った。
忙しいと言えばよい。父から頼まれた仕事がある。別の予定もある。断る理由なら、いくらでも作ることができた。
けれど、そうすれば、また一つ嘘が増える。
エレノアは、ただ一緒に丘へ行きたいと書いている。
その願いまで嘘で退けることはできなかった。
何より、セドリック自身も、あの丘へ行きたいと思った。
あの日の自分へ戻りたかった。
エレノアと並び、同じ景色を見れば、今度こそ自分が進むべき道を思い出せるような気がした。
だから、行くと返事を書いた。
数日後、アッシュフォード領の空はよく晴れていた。
春の初めほどやわらかな風ではなかったが、丘を渡る風は、昔と同じように草を揺らしていた。
遠くには広い畑が見えた。川が日の光を返し、小さな家々のあいだを荷車がゆっくりと進んでいる。
領地は、二人が約束をしたころよりも少し変わっていた。
用水路が増え、以前は乾きやすかった畑にも水が届くようになっていた。遠くでは新しい倉庫が建てられ、道も以前より平らに整えられている。
その多くに、エレノアの考えが生かされていた。
「こちらです」
少し先を歩いていたエレノアが振り返った。
風に、淡い金色の髪が揺れた。
「足元にお気をつけください」
「ああ」
セドリックは答えた。
エレノアは、いつもと変わらなかった。
穏やかな声。
静かな笑顔。
セドリックを見る瞳にも、一つの疑いもなかった。
二人で丘を登った。
幼いころよりも、道は短く感じられた。からだが大きくなったからかもしれない。何度も歩いた場所だからかもしれない。
それでもセドリックには、一歩進むたび、胸の中へ重いものが積もっていくように思えた。
丘の上へ着くと、少し強い風が吹いた。
エレノアは帽子を押さえ、それから眼下に広がる領地を見つめた。
「きれいですね」
昔と同じ言葉だった。
十六歳の春にも、同じ場所で同じように言った。
「そうだね」
セドリックも、昔と同じように答えた。
それだけなのに、あの時とは何もかもが違っていた。
以前は、この景色を見れば、守らなくてはならないと思った。父のような領主になりたいと思った。エレノアと一緒なら、きっとよい領地をつくれると信じていた。
今は、となりにエレノアがいるだけで、自分のしたことを見せつけられているようだった。
もちろん、エレノアは何も知らない。
責めるために、ここへ連れてきたのでもない。
ただ、二人の未来を、もう一度一緒に見たかっただけなのだろう。
「以前、お話ししていた南側の畑ですが」
エレノアは遠くへ視線を向けた。
「水路が完成してから、収穫量がずいぶん増えたそうです」
「父上から聞いたよ」
セドリックは、畑へ目を向けた。
「君のおかげだ」
「私だけではありません」
エレノアはすぐに首を横へ振った。
「現地の方々と、技術者の皆様が動いてくださったからです」
「それでも、最初に気づいたのは君だった」
エレノアは、少し照れたように笑った。
「あなたと一緒に、この景色を見ていたからです。一人で来ていたなら、気づかなかったかもしれません」
そんなことはない。
エレノアなら、一人でもきっと気づいた。
そう思った。
けれど、エレノアは、自分を置いていこうとはしなかった。
何かがうまくいった時にも、自分一人の成果にはしなかった。いつも二人で見たものとして話した。
それなのにセドリックは、エレノアが自分を必要としていないと、勝手に決めつけていた。
自分がいなくても、彼女は何でもできる。
自分などいなくても、何も困らない。
そう思い込んだ。
エレノアは何も変わっていなかった。
変わったのは、自分の見方だった。
「どうかなさいましたか?」
エレノアが尋ねた。
「いや」
いつもの言葉が出た。
「何でもない」
それが、また一つの嘘になった。
丘の上には、小さな白い花が咲いていた。
王城の庭で見つけたものと同じ花なのかは分からない。名前も、セドリックはいまだに知らなかった。
けれど、白く小さな花が風に揺れているのを見た瞬間、幼い日のことを思い出した。
「白い花ですね」
エレノアも気づいた。
「あの日のお花と、よく似ています」
「そうだね」
セドリックは足元の花を見つめた。
昔、泣きそうだったエレノアへ渡した。
安心してほしかった。
笑ってほしかった。
その時の自分には、何の迷いもなかった。
ただ、目の前にいる少女を一人にしたくないと思った。
それだけだった。
「まだ、持っているの?」
セドリックは尋ねた。
「何をですか?」
「あの時の花」
エレノアは一瞬、目を丸くした。
それから、やわらかく笑った。
「もちろんです」
迷いのない返事だった。
「今も?」
「はい」
「もう、ずいぶん前のことなのに」
「そうですね」
エレノアは、懐かしそうに目を細めた。
「けれど、私にとっては大切なものですから」
その言葉に、胸が強く締めつけられた。
大切なもの。
白い花。
幼い約束。
丘の上で語った未来。
セドリックが渡したものを、エレノアはずっと大切にしてきた。
「見せてもらってもいい?」
なぜそう言ったのか、自分でも分からなかった。
見れば苦しくなることは分かっていた。
それでも確かめたかった。
自分がどれほど大切にされてきたのか。
自分が何を裏切ったのか。
見なくてはならないような気がした。
「もちろんです」
エレノアは、うれしそうにうなずいた。
「屋敷へ戻りましたら、すぐにお持ちします」
二人は、しばらく丘の上にいた。
水路、畑、倉庫、新しい道。
領地のことを話した。
結婚後、どのように役割を分けるのかについても話した。
エレノアは、未来のことを口にする時、いつも少しだけ声が明るくなった。
「あなたが外とのお付き合いをなさる間、私は領内のことを見ていられればと思います」
風で乱れた髪を耳へかけ、エレノアは続けた。
「もちろん、重要なことは必ずご相談します。一人で決めるつもりはございません」
セドリックは、息を呑んだ。
一人で決めるつもりはない。
エレノアは、きちんと自分を必要としていた。
相談するつもりだった。
一緒に領地を守るつもりだった。
丘の上で交わした約束を、今も何も変わらず信じていた。
なのにセドリックは、頼られていないと思った。自分だけが取り残されていると思った。
その寂しさを、エレノアへ話そうともしなかった。
尋ねようとも、確かめようともせず、リディアの言葉へ逃げた。
「そうしよう」
セドリックは答えた。
「何でも相談しよう」
「はい」
エレノアは笑った。
その笑顔を、セドリックはまっすぐ見ることができなかった。
屋敷へ戻るころには、日が少し傾いていた。
エレノアは約束どおり、一冊の本を持ってきた。
古い本だった。
表紙の角はわずかに擦れていたが、大切に扱われてきたことはひと目で分かった。
「こちらです」
エレノアは机へ本を置き、丁寧に表紙を開いた。
何枚かページをめくる。
途中に、薄い紙が挟まれていた。
その紙をゆっくり開くと、一輪の白い花が現れた。
色は、もうあの日のままではなかった。
白かった花びらは黄ばみ、茎も細く乾いていた。
けれど、形は残っていた。
小さな花。
セドリックが五歳の時に渡した花。
「あの日の花です」
エレノアは、そっと言った。
声まで、大切なものへ触れるようだった。
「本当に、ずっと持っていたんだね」
「はい」
エレノアは、押し花へ目を落とした。
「あの日の花、まだ大切にしています」
胸が痛んだ。
婚約指輪を見た時よりも。
青いドレスを見た時よりも。
ずっと深く痛んだ。
押し花は、何も知らない。
エレノアがどのような思いで大切にしてきたのかも。
セドリックが、その信頼をどのように裏切ったのかも。
ただ本の中で、昔の形を残していた。
「どうして」
セドリックは言いかけ、声を止めた。
「どうして、そこまで大切にしてくれたんだ?」
エレノアは、少し不思議そうな顔をした。
「どうして、と申されましても」
押し花へ目を落とし、少し考える。
「あの日、私はとても心細かったのです」
エレノアの指が、薄い紙の端へそっと触れた。
「泣いてはいけないと思っていました。けれど本当は、だれかに見つけてほしかったのだと思います」
セドリックは何も言えなかった。
「あなたは、私を笑いませんでした。迷子ではないと言ったことも、泣きそうだったことも、何もからかわずにいてくださいました」
エレノアは、押し花を見たまま微笑んだ。
「そして、『僕が一緒にいるから、大丈夫だよ』と、そう言ってくださいました」
自分が言った言葉だった。
深く考えず、ただ、一人では不安だろうと思って口にした。
けれどエレノアは、ずっと覚えていた。
「私にとっては、初めて、だれかに守っていただいたような気持ちになれた日でした」
エレノアは、わずかに目を細めた。
「ですから、この花を見ると、今でも安心するのです」
セドリックは、押し花から目を離すことができなかった。
守る。
エレノアを守りたいと、幼いころから何度も思ってきた。
幸せにすると約束した。
それなのに今、だれよりも彼女を傷つけることのできる秘密を、自分だけが抱えている。
「セドリック様?」
エレノアが心配そうに顔をのぞき込んだ。
「お顔の色がよくありません。大丈夫ですか?」
「ああ」
また、同じ嘘をついた。
「少し疲れているだけだよ」
「そうですか」
エレノアは、それ以上疑わなかった。
「でしたら、今日は早めにお休みください。無理をなさってはいけません」
やさしい声だった。
そのやさしさが、今は責められるよりも苦しかった。
もしエレノアが怒ってくれたなら。
疑ってくれたなら。
少しは楽だったのかもしれない。
けれど彼女は何も知らない。
知らないまま、昔と同じように自分を信じていた。
セドリックは思った。
今、言うべきではないか。
すべて話すべきではないか。
リディアのこと。
二度、同じ過ちを重ねたこと。
嘘をついたこと。
自分がどれほど弱く、卑怯な人間だったのか。
話せば、エレノアは傷つく。
白い花を前にして、きっと泣くだろう。
その涙を、自分は見なくてはならない。
けれど話さなければ、この信頼を、何も知らない彼女から受け取り続けることになる。
それも、耐えられないように思えた。
「エレノア」
名を呼んだ。
「はい」
エレノアは、いつもと同じように答えた。
セドリックの言葉を待っている。
今なら言える。
言わなくてはならない。
「僕は」
声が喉で止まった。
エレノアの瞳が、まっすぐ自分を見ていた。
疑いも、恐れもなかった。
ただ、言葉の続きを待っている。
その目を見た瞬間、セドリックは何も言えなくなった。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
また逃げた。
「丘へ来られてよかったと思って」
エレノアの顔がやわらかくなった。
「私もです」
押し花を包む薄い紙へ目を落としながら、彼女は静かに笑った。
「また、ご一緒しましょう」
「ああ」
「今度は、結婚したあとでしょうか」
「そうかもしれないね」
「その時には、今よりももっと領地が豊かになっているとよいですね」
「ああ」
セドリックは答えた。
「二人で、そうしよう」
言葉だけなら、昔と同じだった。
二人で。
一緒に。
未来を。
けれど、それを口にするたび、胸の中へ新しい重さが加わっていくようだった。
約束したのは、自分だった。
エレノアが勝手に信じたのではない。
幼いころ、結婚したいと言った。
丘の上で、支えてほしいと言った。
幸せにすると誓った。
すべて自分から口にした。
その一つひとつを、エレノアは大切にしてきた。
白い花と同じように。
形を壊さず。
色が変わっても。
ずっと、あの日のことを覚えていた。
セドリックも覚えていた。
忘れてはいなかった。
忘れていないまま、裏切った。
そのことが、何よりも重かった。
帰る時間になると、エレノアは押し花をもう一度、薄い紙で包んだ。
花びらを傷つけないように。
茎を折らないように。
ゆっくりと本の間へ戻していく。
セドリックは、その手元を見つめていた。
自分が渡したものを、エレノアは今もこんなにも大切に扱っている。
それなのに自分は、エレノアから渡された信頼を、あまりにも簡単に傷つけた。
「また、お見せしますね」
エレノアが笑った。
「ああ」
セドリックも笑った。
笑うことができてしまった。
それが、自分でも怖かった。
少し前まで、嘘をつくたび胸が痛み、顔へ出ていないか不安になった。
けれど今は、エレノアの前で笑うことができる。
未来の話もできる。
押し花を見ながら、昔を懐かしむことさえできる。
秘密は、胸の中へ隠されているだけではなかった。
少しずつ、日常の中へ入り込んでいた。
エレノアと笑う自分。
リディアを思い出す自分。
どちらも同じ自分だった。
そのことを、もう否定できなくなっていた。
馬車へ乗り込む前、セドリックはもう一度、丘の方を振り返った。
遠くに、白い花が揺れていた。
あの日と同じように、風の中で静かに。
約束したのは、確かに自分だった。
守ると。
幸せにすると。
自分から言った。
そして、秘密を作ったのも自分だった。
一つ目の夜。
二つ目の夜。
エレノアについた嘘。
言えなかった真実。
罪は、大きな音を立てて増えるのではなかった。
一つずつ、静かに、だれにも気づかれないまま積み重なっていった。
セドリックは、左手の婚約指輪へ触れた。
冷たかった。
けれど、その冷たさにも、少しずつ慣れはじめている自分がいた。




