第3節 いつもの朝
それから数日、セドリックはリディアに会わなかった。
夜会にも出ず、フェアファクス伯爵家の名を耳にしても、できるだけ気に留めないようにした。
終わらせる。
あの朝、そう決めた。
一度だけの過ちだった。二度と会わなければよい。時間が経てば、やがて忘れられる。
何度も、自分にそう言い聞かせた。
朝になれば仕事へ向かった。父から渡された書類を読み、貴族との面会へ出て、商人の話を聞いた。次にするべきことを絶えず考えていれば、余計なことを思い出さずに済むと思った。
けれど、ふとした時にリディアの顔が浮かんだ。
書類から目を上げた時。馬車の窓から流れていく街並みを眺めた時。一人で食事をしている時。夜、明かりを消して目を閉じた時。
思い出そうとしているわけではなかった。それでも気づけば、あの夜へ戻っていた。
そのたびに、セドリックは婚約指輪へ触れた。
冷たい輪の上へ指を重ねる。
自分にはエレノアがいる。
そう確かめるためだった。
エレノアとの未来は、まだ失われていない。自分が正しい場所へ戻り、あの夜のことを胸の奥へしまい、二度と同じ過ちを繰り返さなければ、きっと元どおりになれる。
そう思っていた。
そう思わなければならなかった。
数日後の朝、セドリックはハートウェル侯爵邸を訪れた。
訪問することは、前もって知らせてあった。
結婚式の準備について、いくつか確認したいことがある。
それが表向きの理由だった。
けれど本当は、エレノアの顔を見たかった。
自分が戻るべき場所を、もう一度確かめたかった。
彼女と話せば。いつものように笑い合えば。二人の未来を思い出せば。
胸の中に残っているものも、消えてくれるような気がした。
ハートウェル侯爵邸は、昔からほとんど変わっていなかった。
門をくぐると、よく手入れされた庭が広がっていた。季節の花が咲き、朝の光を受けた石造りの屋敷の窓は、きれいに磨かれていた。
幼いころ、何度も訪れた場所だった。
鬼ごっこをした庭。並んで本を読んだ木陰。遊び方を知らなかったエレノアの手を引き、二人で走った小道。
どこを見ても、思い出があった。
馬車を降りると、使用人が深く頭を下げた。
「お待ちしておりました、セドリック様」
「ああ」
いつもどおり答えたつもりだった。
声が不自然ではなかったか。顔に何か出てはいないか。そんなことばかりが気にかかった。
使用人は何も気づいた様子を見せなかった。
当然だった。
だれも知らない。
あの夜のことを知っているのは、自分とリディアだけだった。
そのことに、わずかに安堵した。
そして、安堵した自分を浅ましいと思った。
玄関の扉が開いた。
その向こうに、エレノアが立っていた。
「セドリック様」
彼の姿を見つけると、エレノアは穏やかに笑った。
「おはようございます」
その笑顔は、何も変わっていなかった。
声も、目元も、セドリックを見つめる瞳も、幼いころから知っているものだった。そこには疑いも、ためらいもなかった。
「おはよう、エレノア」
答えた声は、自分で思っていたよりも普通だった。
「お忙しい中、お越しいただきありがとうございます」
「いや」
セドリックは一度、息を継いだ。
「僕も、会いたかったから」
口にしてから、自分の言葉に驚いた。
嘘ではなかった。本当に会いたかった。
以前なら、何も考えずに言えた言葉だった。けれど今は、その裏へ別の意味が隠れているように感じられた。
エレノアは、少しだけ頬を赤くした。
「私も、お会いしたかったです」
その返事が、胸へ静かに刺さった。
会いたかった。
エレノアも、そう思っていた。
仕事がなくても、確認することがなくても、ただ自分に会いたいと思ってくれていた。
ずっと知りたかったことの答えを、あまりにも簡単に渡されたような気がした。
それなのにセドリックは、もっと早く尋ねようとしなかった。
寂しいとも言わなかった。
自分の中だけで、エレノアは仕事しか見ていないと決めつけた。そして、自分を求める別の女性の言葉へ逃げた。
「どうかなさいましたか?」
エレノアが首を傾げた。
「いや」
セドリックは笑った。
「何でもないよ」
それが、エレノアについた今日最初の嘘になった。
応接室へ向かう途中、エレノアが尋ねた。
「朝食は、もうお済みでしょうか?」
「まだなんだ」
「でしたら、ご一緒になさいませんか」
「君は?」
「私も、まだです」
エレノアは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「お越しになると伺っておりましたので、もしご一緒できればと思い、待っておりました」
セドリックは、すぐには答えられなかった。
エレノアは、自分を待っていた。
朝食を取らずに。少しでも二人で過ごすために。
仕事ばかりなのではなかった。
エレノアなりに、これから夫婦になる二人の時間を大切にしていた。ただ、そのことをセドリックが見ようとしなかっただけだった。
「迷惑でしたでしょうか?」
返事のないことを不安に思ったのか、エレノアが遠慮がちに尋ねた。
「違う」
セドリックは、すぐに首を横へ振った。
「うれしいよ」
それも嘘ではなかった。
うれしかった。
同じ場所が、苦しくもあった。
食堂には、二人分の朝食が用意されていた。
焼きたてのパン。卵料理。湯気を立てるスープ。切り分けられた果物。
昔から何度も食べてきた、ハートウェル家の朝食だった。
二人は向かい合って座った。
「最近、お忙しいのですか?」
エレノアが尋ねた。
「まあね」
「少し、お疲れのように見えます」
セドリックは、思わず視線を逸らした。
「昨夜、書類を読んでいて、寝るのが遅くなったんだ」
考えるより先に言葉が出た。
また嘘だった。
昨夜は早く床へ入った。けれど、ほとんど眠れなかった。目を閉じるたび、リディアの顔が浮かんだからだった。
「そうでしたか」
エレノアは、何も疑わなかった。
「どうか、無理はなさらないでください。あなたは、ご自分で思っているよりも無理をされる方ですから」
「君に言われたくないな」
セドリックは、冗談めかして笑った。
エレノアも小さく笑う。
「そうかもしれません」
「君の方が、いつも働きすぎている」
「ですが、私は丈夫ですので」
「僕だって丈夫だよ」
「丈夫でも、お休みは必要です」
いつもと同じ会話だった。
少し前なら、心が安らいだはずだった。エレノアが自分を気にかけていることを、素直にうれしいと思えたはずだった。
今は、やさしくされるたびに胸が痛んだ。
何も知らないまま、エレノアは自分を心配している。
その信頼を、セドリックはすでに裏切っていた。
パンへ手を伸ばし、一口だけ食べた。
焼きたてのはずなのに、味がよく分からなかった。
エレノアは朝食を取りながら、結婚式について話し始めた。
式までは、まだ二年ほどある。
遠い先のことのようでも、両家で相談しなければならないことは多かった。招待客、式場、衣装、当日の進行。遠方から訪れる者の宿泊先や、そのための使用人の配置まで考えなくてはならない。
「王家へお伝えする時期は、お父様方が相談してくださるそうです」
「うん」
「遠方にお住まいの方へは、少し早めにお知らせした方がよいかと思います。アッシュフォード家と長くお付き合いのある方については、こちらで一覧を作っていただけますか?」
「分かった。父上とも確認しておくよ」
「お願いいたします」
エレノアは、用意していた紙へ一つ印をつけた。
セドリックは、その手元を見つめた。
一つずつ、丁寧に。
まだ形のない未来を、エレノアは少しずつ整えていた。
以前なら、ただ頼もしいと思った。
自分の気づかないところまで考えてくれていることを、ありがたいと思った。
今も、そう思っている。
けれど、その一つひとつが、自分のしたことを静かに責めているようにも感じられた。
もちろん、エレノアは責めていない。
何も知らないのだから。
責めているのは、セドリック自身だった。
「それから」
エレノアは紙を置くと、少し表情を明るくした。
「新居についても、いくつか考えてみました」
「新居?」
「はい」
結婚後、二人はアッシュフォード侯爵邸で暮らすことになる。けれど、次期侯爵夫妻が使う区画については、二人の好みに合わせて整えてよいことになっていた。
寝室、居間、食堂、書斎、客間。
家具や調度品も、これから選ばなくてはならない。
「あなたは、落ち着いた色がお好きでしたよね」
「そうだね」
「ですので、居間は深い茶色を基調にしてはいかがかと思っています」
エレノアは、何枚かの図を机へ並べた。
机、椅子、棚、長椅子。それぞれの形や大きさが、細かく描かれている。
「こちらの長椅子は、少し大きめなのですが」
指先で一枚の図を示しながら、エレノアはわずかに目を伏せた。
「二人で並んで座ることもできます。夜、お仕事が終わったあとに、一緒に本を読んだり、お話をしたりできればと思いまして」
セドリックは、紙の上の長椅子を見つめた。
二人で並んで座る。
一日の仕事を終え、エレノアが本を読み、自分はそのとなりにいる。時々言葉を交わし、同じ灯りの下で夜を過ごす。
昔なら、その未来を何の迷いもなく思い描けた。
今も、できないわけではなかった。
ただ、その穏やかな風景の奥へ、リディアの顔が入り込んだ。
泣きそうな目。
自分を呼ぶ声。
近くで感じた息遣い。
セドリックは、図へ落としていた視線をわずかに動かした。
「いいと思う」
声が少し掠れた。
「本当ですか?」
「ああ」
「よかった」
エレノアは、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、また胸が痛んだ。
家具の次は、食器だった。
結婚祝いとして贈られるものも多い。それでも、毎日使うものくらいは二人で選びたいとエレノアは言った。
「白を基調にしたものはいかがでしょう。少し金色が入っていますが、派手すぎないと思います」
「君は、こういうものが好きだった?」
「私は、どちらでも」
エレノアは少し考えた。
「ですが、あなたは朝に濃い色を見るより、明るい色の方がお好きでしょう?」
「そうだったかな」
「以前、仰っていました」
いつのことだっただろう。
セドリック自身は、覚えていなかった。
けれど、エレノアは覚えていた。
何気なく口にしたことを、白い花と同じように、一つずつ心へ残していた。
好みの茶。好きな料理。苦手な味。読んでいる本。朝の部屋へ入る光の明るさまで。
エレノアは、きっと自分が思うよりも多くを覚えている。
では自分は、エレノアの好きなものを、どれほど知っているのだろう。
本を読むこと。
領地を眺めること。
青い色。
白い花。
すぐに浮かんだのは、それくらいだった。
胸の奥に、小さな焦りが生まれた。
自分は、エレノアに愛されていることへ慣れすぎていたのかもしれない。
幼いころから、ずっととなりにいた。大人になれば結婚することも決まっていた。
だから、エレノアが自分を愛していることも、これから先も愛し続けてくれることも、変わらないものだと思っていた。
大切にされていると知りながら、それを失う日が来るとは考えなかった。
その安心の上に立ったまま、自分は別の女性へ手を伸ばした。
「セドリック様?」
呼ばれて顔を上げる。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
同じ言葉が、また口から出た。
「何でもない」
今日、何度目の嘘なのだろう。
もう数えたくなかった。
朝食が終わると、エレノアはセドリックを別の部屋へ案内した。
そこには、いくつもの布地や刺繍の見本が並べられていた。
「結婚式の衣装ですか?」
「そちらもございますが」
エレノアは、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「先に、お見せしたいものがあります」
使用人へ声をかけると、奥から一着のドレスが運ばれてきた。
淡い青色だった。
明るすぎず、暗すぎない。
やわらかな布地に、控えめな刺繍が施されていた。華やかさを競うためのものではなく、着る人の姿を静かに引き立てるようなドレスだった。
きっとエレノアによく似合う。
見た瞬間に、そう思った。
「新しく仕立てたのです」
エレノアは、その布へ傷をつけないように、そっと手を添えた。
「次に、あなたと夜会へ出る時に着ようと思いまして」
「きれいだね」
セドリックは、そう答えた。
ほかに言葉が見つからなかった。
エレノアは、少しうれしそうに笑った。
「あなたがお好きだと仰ってくださったので」
胸の奥が、強く痛んだ。
青が似合う。
以前、自分が言った言葉だった。
おそらく深く考えず、その時に感じたままを口にしただけだった。
エレノアは、それを覚えていた。
そして、自分に見せるために青いドレスを仕立てた。
セドリックに、きれいだと思ってもらうために。
彼のとなりへ立つために。
「覚えていたんだ」
「もちろんです」
エレノアは、不思議そうに笑った。
「あなたに褒めていただいたことですから」
その笑顔を、まともに見ることができなかった。
セドリックは視線をドレスへ落とした。
淡い青色が、窓から入る朝の光を受けていた。
本当にきれいだった。
いつか、このドレスを着たエレノアと夜会へ出る。
彼女は自分の腕へ手を添え、周囲はよく似合う二人だと笑う。エレノアも、きっと幸せそうに微笑む。
その未来を、思い描くことができた。
丘の上で語ったものと同じ未来だった。
結婚し、二人で暮らし、領地を守る。いつか子どもが生まれたなら、その手を引いて、あの丘へ行く。
エレノアは今も、その未来を見ていた。
何の疑いもなく、まっすぐに。
家具を選び、食器を選び、服を選び、招待客を考える。その先にある二人の時間まで、もう心の中に置いていた。
セドリックも、少し前までは同じ未来を見ていた。
今も見たいと思っている。
それなのに、自分だけが少し外れていた。
数日前の夜。
閉ざされた馬車の中。
リディアの声が残る場所へ、心の一部を置いたまま、ここに立っていた。
エレノアは未来を見ている。
自分だけが、過ぎた夜を振り返っている。
その違いが、淡い青色のドレスを前にすると、はっきりと見えた。
「似合うと思うよ」
セドリックは言った。
「君には、青が一番似合う」
エレノアの顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、セドリックは思った。
これでいい。
ここへ戻ればいい。
リディアとは終わった。あの夜のことは、もう繰り返さない。
自分のとなりにいるのはエレノアだ。
妻になるのも、領地をともに守るのも、未来をつくるのも、エレノアだった。
そのことに迷いはない。
そう思っていれば、胸の痛みもいつか消える。あの夜の記憶も薄れていく。
セドリックは、そう信じようとした。
「次の夜会は、いつになるでしょう」
エレノアが尋ねた。
「まだ、はっきりとは分からないな」
「そうですか」
少し残念そうに目を伏せたが、すぐに笑った。
「その時には、必ずこちらを着ます」
「ああ」
セドリックはうなずいた。
「一緒に行こう」
「はい」
エレノアは、うれしそうに答えた。
また一つ、未来の約束が増えた。
次の夜会。青いドレス。二人で並んで歩くこと。
今度こそ、その約束だけは守らなくてはならない。
そう思った。
それから二人は、しばらく話をした。
仕事のこと。領地のこと。式のこと。時々、幼いころのことも話した。
この庭で遊んだこと。エレノアが木登りを怖がったこと。セドリックが池へ落ちたこと。
「あの時は、本当に驚きました」
「君は、僕より先に泣いていたね」
「だって、心配でしたから」
二人で笑った。
笑うことはできた。
いつもと同じように。
少なくとも、エレノアにはそう見えたはずだった。
その時間だけを見れば、何も変わってはいなかった。
幼いころからともに育ち、結婚を約束し、同じ未来へ向かって準備を進めている二人だった。
けれど、セドリックの胸の中には、エレノアへ話せない夜が一つあった。
たった一つ。
それだけのはずなのに、その夜は、二人のあいだに積み重ねてきた年月よりも重く感じられた。
帰る時間になると、エレノアは玄関まで見送りに来た。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「結婚式の準備ばかりで、退屈ではありませんでしたか?」
「そんなことないよ」
セドリックは笑った。
「僕たちのことだから」
エレノアは、ほっとしたように息をついた。
「よかったです」
それから少し迷うように、指先を重ねた。
「また、お時間ができましたら、今日のようにゆっくりお話しできればうれしいです」
「ああ」
「また来るよ」
「お待ちしております」
セドリックは馬車へ乗り込んだ。
窓から見ると、エレノアはまだ玄関の前に立っていた。
幼いころ、白い花を胸へ抱き、セドリックの姿が見えなくなるまで見送っていた時とよく似ていた。
セドリックが小さく手を上げると、エレノアも笑って手を振った。
馬車が動き出す。
屋敷が遠ざかり、エレノアの姿も少しずつ小さくなっていく。
セドリックは、見えなくなるまで窓の外を見ていた。
今日、エレノアと話した。
一緒に朝食を取り、未来の家を考え、青いドレスを見た。
昔のことを話して、笑い合った。
これで元へ戻れるはずだった。
戻らなくてはならなかった。
それなのに、目を閉じると、淡い青色よりも先に、リディアの泣きそうな顔が浮かんだ。
セドリックは、まぶたへ力を込めた。
終わったことだ。
もう会わない。
そう決めた。
今日、エレノアと過ごして、自分がどれほど大切にされているのかも分かった。守るべきものが何なのかも、改めて分かった。
それでも、リディアの顔は消えなかった。
エレノアが見ているものは、すべてこれから先へ続いていた。
家具も、食器も、新居も、青いドレスも。
セドリックも、その未来へ進まなくてはならない。
けれど、心の一部だけが、数日前の夜へ置き去りにされたままだった。
馬車は王都へ向かって進んでいく。
道は、どこまでも前へ続いていた。
それなのにセドリックだけが、あの朝から、少しも先へ進めずにいた。




