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堕落  作者: Atelier Lotus


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第2節 戻れない朝

 夜が明けはじめていた。

 王都の空はまだ薄い青色をしており、東の端だけが、時間をかけて白くなっていた。夜のあいだに冷えた石畳には朝露が残り、歩くたび、靴の裏へわずかな湿り気が伝わった。

 人通りはほとんどなかった。

 遠くで、店の戸を開ける音がした。どこかの屋根では、小鳥が鳴きはじめている。朝を知らせる鐘には、まだ少し早かった。

 昨日までと、何も変わらない王都だった。

 道も、建物も、空も、鳥の声も、昨夜までと同じ場所にあった。

 けれど、セドリックには、すべてが違って見えた。

 一歩進むたび、靴の音が石畳へ落ちた。

 いつもなら気にも留めない音だった。今朝は、その一つ一つがひどく大きく聞こえた。

 まるで、自分がどこを歩いているのか。何をしてきたのか。まだ眠っている町じゅうへ知らせているようだった。

 セドリックは何度か後ろを振り返った。

 誰もいない。

 追いかけてくる者も、自分を見ている者もいなかった。

 それでも、背中へ視線を感じるような気がした。

 昨夜のことは、夢ではなかった。

 酒に酔って見た夢でもない。夜の暗さに紛れ、朝になれば消えてしまうものでもなかった。

 何度、目を閉じても。

 何度、首を横へ振っても。

 消えてはくれなかった。

 閉じられた馬車の扉。暗い座席。遠くから聞こえていた音楽。息をひそめるようにして呼ばれた、自分の名前。

 細かなものまで、まだ身体のどこかへ残っていた。

 思い出してはいけないと思った。

 思い出したくないとも思った。

 けれど、忘れようとするほど、記憶は鮮明になった。

 セドリックは足を止めた。

 朝の光が、建物のあいだから石畳の上へ細長く伸びていた。その光の中で、ゆっくりと左手を見下ろす。

 薬指には、婚約指輪があった。

 昨日までと同じ場所に、昨日までと同じ形で収まっている。

 何も知らないように、静かに光っていた。

 セドリックは右手の指で、そっと指輪へ触れた。

 金属は冷たかった。

 その冷たさだけが妙にはっきりしていて、指先から胸の奥まで入り込んでくるように思えた。

 幼い日に交わした約束。

 両家から祝福された婚約。

 大人になれば、エレノアと結婚する。

 二人でアッシュフォード領を守る。

 子どもが生まれたら、あの丘へ連れていく。

 それは、家から押しつけられた未来ではなかった。

 自分から望んだ。

 自分からエレノアへ結婚したいと言った。小指を重ね、幸せにすると約束した。

 誰かに言わされたわけではない。

 あの時の自分は、本当にエレノアを妻にしたいと思っていた。

 今も、その気持ちがすべてなくなったわけではなかった。

 だからこそ、何をしたのかが分かってしまった。

 もし、エレノアを嫌いになっていたなら。

 もし、婚約を重荷としか思えなくなっていたなら。

 昨夜のことを、もう少し簡単に受け入れられたのかもしれない。

 けれど、そうではなかった。

 エレノアを大切に思っていた。

 傷つけたくないと思っていた。

 彼女との未来を捨てたいとも思っていなかった。

 それなのに、自分からその未来を踏み外した。

 ほんの少し道を外れただけだと、考えようとした。

 まだ戻れる場所にいるのだと。

 けれど、指輪へ触れていると、春の丘の景色が浮かんだ。

 アッシュフォード領を見渡せる、セドリックの好きな場所。

 広い畑。遠くの川。風に揺れる草。

 そのとなりには、エレノアがいた。

 あの日のエレノアは、遠くの畑を見ただけで、水が足りていないことへ気づいた。地面へ枝で図を描き、水路を通す位置を示し、必要な費用と、それを取り戻すまでの年月を考えた。

 セドリックは、ただすごいと思った。

 そんな女性が、自分の妻になる。

 自分とともに領地を守ってくれる。

 それを心から誇らしく思った。

『君が妻になってくれるなら、アッシュフォード家は安泰だ』

 そう言ったのは、自分だった。

 あの時、嘘は一つもなかった。

 エレノアの目へ涙が浮かんだ。

 泣かせるつもりなどなかった。けれど、彼女は涙をこぼしながら笑った。

『うれしくて……』

 その顔を見て、セドリックも幸せになった。

 自分の言葉を、これほど大切に受け取ってくれる人がいる。

 その人と、これから先も一緒に生きていく。

 それだけで、何も不安はなかった。

 あの涙を、一生忘れないと思った。

 忘れてはいなかった。

 今も、はっきりと覚えている。

 覚えているからこそ、昨夜のことが小さな過ちでは済まないことも分かっていた。

 セドリックは指輪から手を離した。

 また歩きはじめたが、足は重かった。

 少し進むたびに、別の記憶が浮かんだ。

 白い花。

 王城の庭園。

 泣きそうなのに、泣こうとはしなかった幼いエレノア。

『僕が一緒にいるから、大丈夫だよ』

 深く考えずに言った言葉だった。

 けれど、エレノアはずっと覚えていた。

 名前も知らない花を押し花にして、大切に持っていた。

『ずっと大切にできます』

 そう言って、うれしそうに笑っていた。

 セドリックにとっては、庭に咲いていた花の一つだった。

 ほんの少し安心してもらいたくて、摘んで渡しただけだった。

 けれど、エレノアにとっては違った。

 あの花も。

 あの言葉も。

 幼い約束も。

 すべてを、長いあいだ大切にしてきた。

 セドリックは、それを知っていた。

 どれほど信じられているのか。

 どれほど大切に思われているのか。

 知らなかったわけではない。

 知っていた。

 知っていながら、裏切った。

 息を吸った。

 けれど、胸の途中で止まってしまったように、うまく入ってこなかった。

 セドリックは建物の壁へ手をついた。

 冷たい石の感触が掌へ当たる。

 吐き気に似たものが、喉の奥までこみ上げた。

 酒が残っているせいではなかった。

 眠っていないからでもない。

 昨夜までの自分と、今朝ここに立っている自分が、同じ人間であることを認めたくなかった。

 約束を守る自分。

 エレノアを大切にする自分。

 間違ったことを選ばない自分。

 それまで信じていたものが、一夜のうちに崩れたわけではない。

 崩れていたことを、ようやく知ったのだと思った。

 昨夜、突然別の人間になったのではない。

 寂しさを口にせず。

 不安を隠し。

 自分を頼ってほしいという願いを恥じ。

 リディアの言葉へ心を寄せた。

 その一つ一つを選んできたのは自分だった。

 それでも、その先に昨夜があることまでは、考えたくなかった。

「……終わらせよう」

 小さく呟いた。

 声に出せば、決められるような気がした。

 昨夜のことは間違いだった。

 一度きりのことだった。

 疲れていた。

 心が弱っていた。

 リディアに頼られたことがうれしくて、自分を必要としてくれる人がいることへ、心をゆるしてしまった。

 それだけだった。

 もう会わなければいい。

 次の夜会でも、近づかなければいい。

 目が合っても、話さなければいい。

 リディアも、いけないことだと分かっていた。何度も、これ以上はいけないと言っていた。

 二人で終わらせればいい。

 時間が経てば、昨夜のことも遠い記憶になる。

 エレノアには何も知られない。

 傷つけずに済む。

 結婚すれば。

 一緒に暮らしはじめれば。

 すべて元へ戻るのかもしれない。

 丘の上で思い描いた未来へ。

 まだ戻れる。

 戻らなければならない。

 セドリックは壁へついた手を握りしめた。

 今なら、まだ間に合う。

 昨夜だけで終わらせれば。

 これ以上、嘘を重ねなければ。

 何もなかったことにはできなくても、これから先を正しく生きることはできる。

 エレノアを幸せにする。

 そう約束した。

 その約束を、これ以上壊してはいけない。

「終わりだ」

 もう一度、口にした。

 さきほどよりも強い声だった。

「これで終わりにする」

 誰も聞いてはいなかった。

 それでも、言葉にする必要があった。

 自分へ命じるように。

 もう会わない。

 もう話さない。

 もう思い出さない。

 リディアがどう思おうと。

 自分がどれほど寂しいと思おうと。

 終わらせる。

 それが正しい。

 それしかない。

 セドリックは壁から手を離し、また歩き出した。

 今度は、先ほどよりも少し速く歩いた。

 決めたのだから、振り返ってはいけない。

 屋敷へ帰る。

 着替える。

 いつもどおり仕事をする。

 エレノアに会えば、いつもどおり笑う。

 何も変わっていないように。

 そうすればいい。

 そう思った。

 けれど、数歩進んだところで、また足が止まった。

 理由は分かっていた。

 最後に見たリディアの表情が、胸の中へ浮かんだからだった。

 別れ際、リディアは泣きそうな顔をしていた。

 けれど、泣かなかった。

 唇をわずかに震わせながら、無理に笑おうとしていた。

 その顔が、幼い日のエレノアと少しだけ重なった。

 泣きたいのに、泣かない。

 苦しいのに、何でもないふりをする。

 そういう人を見つけた時、放っておけないと、昔から思ってきた。

 王城の庭園でも、そうだった。

 けれど、リディアは幼い子どもではない。

 迷子でもなかった。

 そして、自分は彼女を助けたのではない。

 そのことは分かっていた。

 自分が近づかないほうがいい。

 離れることこそ、リディアのためでもある。

 それでも、あの表情だけが頭から離れなかった。

 リディアは何も言わなかった。

 責めることも。

 引き止めることもなかった。

 ただ、セドリックを見ていた。

 その瞳が、今もこちらを見ているような気がした。

 どうして思い出すのだろう。

 忘れなくてはならない相手なのに。

 終わらせると決めた相手なのに。

 思い出そうとしているわけではなかった。

 むしろ、考えないようにしていた。

 けれど、気づけば浮かんでいた。

 リディアの声。

 笑った顔。

 自分を頼ってくれた時の目。

『セドリック様がいてくださると安心します』

 その言葉が、胸の奥へ残っていた。

 エレノアも、自分を必要としている。

 分かっている。

 エレノアは、自分との未来のために、長い年月をかけて努力してきた。

 自分の領地を学び。

 自分の家族から仕事を任され。

 将来をともにするために、できることを増やしてきた。

 それほど深く必要とされている。

 けれど、エレノアの必要と、リディアの必要は、同じものではなかった。

 エレノアは、セドリックと並んで歩こうとしていた。

 リディアは、セドリックの後ろへ立とうとした。

 エレノアは、二人で領地を守ろうとした。

 リディアは、守ってほしいと言った。

 どちらが正しいかなど、考える必要もなかった。

 エレノアは何も間違っていない。

 彼女が賢いことも、強いことも、自分の力で立てることも、罪ではない。

 間違っているのは、自分だった。

 それでも、リディアに必要とされると、胸の空いていたところが静かに満たされた。

 自分にも価値があるように思えた。

 自分がいなければ困る人がいる。

 そのことが、うれしかった。

 昨夜、リディアが自分の名を呼んだ時も、同じことを思った。

 自分が必要なのだと。

 その思いへ縋りつくようにして、戻ることをやめた。

 だから今も、忘れられないのかもしれなかった。

「違う……」

 誰へ言うでもなく、呟いた。

 これは恋ではない。

 そうであってはならない。

 恋だと認めてしまえば、昨夜のことが、ただの過ちではなくなる。

 自分はエレノアを愛しながら、別の女性へ心を向けていたことになる。

 そんな自分を認めたくなかった。

 ただ、一時の迷いだった。

 疲れていたから。

 寂しかったから。

 頼られたことがうれしかったから。

 それだけだ。

 そう思いたかった。

 けれど、否定しようとするほど、リディアの表情は鮮明になった。

 終わらせる。

 もう会わない。

 そう決めたはずなのに、もう一度だけ顔を見たいと思った。

 無事に帰ったのか。

 泣いてはいないか。

 後悔しているのか。

 自分を嫌いになったのか。

 そんなことを確かめたいと思った。

 一度だけ。

 話をするだけ。

 きちんと別れを告げるために。

 そうすれば、本当に終わらせられる。

 その考えが浮かんだ時、セドリックは立ち止まったまま目を閉じた。

 会ってはいけない。

 別れを告げるためであっても。

 近づけば、また同じことになるかもしれない。

 分かっていた。

 それでも、心のどこかで、一度だけならと思っていた。

 最後なら。

 終わらせるためなら。

 そのように理由を変えれば、会うことを許せるような気がした。

 昨夜まで、セドリックは、自分がここまで弱い人間だとは思っていなかった。

 正しいことと、間違っていること。

 その二つは、もっと簡単に分けられるものだと思っていた。

 間違っていると分かれば、やめればいい。

 人を傷つけると分かれば、しなければいい。

 ただ、それだけのことだと思っていた。

 けれど、間違っていると分かっていても。

 やめなくてはならないと分かっていても。

 心は、言葉どおりには動かなかった。

 昨日までなら、そういう人間を弱いと思ったかもしれない。

 言い訳をしているだけだと思ったかもしれない。

 今朝のセドリックには、それを否定することができなかった。

 自分もまた、言い訳を一つずつ拾い集め、その中へ身を隠そうとしていた。

 朝日が、王都の屋根をゆっくりと照らしはじめた。

 暗かった窓へ光が入り、店が開き、人が歩きはじめる。

 荷車の車輪が石畳を鳴らし、焼きたてのパンの匂いが、どこかの店から流れてきた。

 町は、いつもどおりの朝を迎えていた。

 新しい一日が、何事もなかったようにはじまろうとしている。

 セドリックも、やがて屋敷へ戻る。

 服を着替え、朝食を取り、仕事へ向かう。

 エレノアに会えば、いつもどおりの顔をしなくてはならない。

 昨夜のことを知らない彼女へ。

 いつもどおり笑わなくてはならない。

 そのことを考えると、足が止まりそうになった。

 エレノアは何も知らず、今日も何かの資料を読んでいるのだろう。

 会えば、灌漑工事の進み具合を話すかもしれない。

 結婚式の招待客について、相談するかもしれない。

 セドリックの顔を見て、眠れていないことへ気づくかもしれない。

 その時、何と答えるのだろう。

 昨夜は酒が過ぎたとでも言うのか。

 仕事が長引いたと、また嘘をつくのか。

 もう嘘を重ねないと、たった今決めたばかりだった。

 それでも、真実を告げることはできなかった。

 真実を告げることが正しいのかも、分からなかった。

 告げれば、自分は少し楽になる。

 けれど、その代わりに、エレノアへ痛みを渡すことになる。

 黙っていれば、エレノアは傷つかずに済むかもしれない。

 けれどそれは、彼女の信頼を利用することでもあった。

 どちらを選んでも、自分のための選択に思えた。

 セドリックには、帰る場所があった。

 待っている人がいた。

 守ると誓った未来があった。

 そのどれも、昨夜までは、自分を支えてくれるものだった。

 今朝は、それらすべてが、自分のしたことを照らしているように思えた。

 それでも、戻らないわけにはいかなかった。

 セドリックは歩いた。

 終わらせる。

 これで終わりにする。

 何度も、心の中で繰り返しながら。

 屋敷へ近づくころには、朝の鐘が鳴りはじめた。

 一つ目の鐘が、まだ静かな王都へ広がった。

 その音へ押されるように、セドリックは門の前まで歩いた。

 足を止め、もう一度だけ左手を見た。

 婚約指輪は、朝の光を受けていた。

 昨夜までと、何も変わっていなかった。

 変わったのは、自分だけだった。

 門へ手をかけた時、ふいにリディアの顔が浮かんだ。

 セドリックは目を伏せた。

 終わらせると決めた。

 戻ると決めた。

 それでも、最後に見た彼女の表情だけは、どうしても頭から消えてくれなかった。

 夜は、もう明けていた。

 王都には、新しい朝が来ていた。

 セドリックもまた、昨日までの生活へ戻ろうとしていた。

 けれど、門をくぐる前に、ほんのわずか立ち止まった。

 そのためらいが何を意味するのか、まだ自分でも分からなかった。

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