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堕落  作者: Atelier Lotus


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1/6

第1節 約束

これは、恋が始まる物語ではありません。


誰かを愛していたはずの人が、

小さな寂しさと、小さな嘘を重ねながら、

少しずつ自分ではない何かへ変わっていく物語です。


セドリックは、エレノアを愛していました。


幼い日に白い花を渡し、

丘の上で未来を誓い、

いつか夫婦になることを疑っていませんでした。


それでも人は、愛している相手を裏切ることがあります。


大きな悪意がなくても。

相手を憎んでいなくても。

罪悪感を抱いていても。


話をするだけ。


今夜だけ。


これで最後。


そのような小さな言い訳を重ねた先で、

人はいつの間にか、かつての自分へ戻れなくなっているのかもしれません。


本作で描きたかったのは、不貞そのものではありません。


人が、自分の弱さをどのように正当化し、

守りたかったものを自ら傷つけ、

それでも日常の中で笑い続けてしまうのか。


そして、愛していることと、誠実であることは、

本当に同じなのか。


その問いを、一人の男の内側から見つめました。


誰か一人を、単純な悪人として断罪する物語ではありません。


弱さも。

寂しさも。

嫉妬も。

執着も。


どれも、人の中にあるものです。


だからこそ、これは特別な誰かの物語ではなく、

選ばなかった未来と、戻れなくなった自分についての物語なのだと思います。


静かに沈んでいく二人の時間を、

最後まで見届けていただけましたら幸いです。

 セドリック・アッシュフォードが、エレノア・ハートウェルとはじめて出会ったのは、五歳のころだった。

 王城で開かれた、大きな社交会だった。

 広い会場には、知らない大人が大勢いた。色とりどりの衣服が行き交い、あちらこちらから高い笑い声が聞こえてくる。交わされている言葉のほとんどは、幼いセドリックには意味が分からなかった。

 父のとなりに立ち、母から教わったとおりに頭を下げる。名を聞かれれば答え、褒められれば、ありがとうございますと言う。

 同じことを何度か繰り返しているうちに、足も、頬も、少しずつ疲れてきた。

 父と母が知人との話に夢中になった隙に、セドリックはそっとその場を離れた。

 あとで怒られるかもしれない。それでも、ほんの少し歩くだけなら大丈夫だと思った。

 人の少ない壁際を進んでいると、一人の女の子が立っていた。

 薄い金色の髪。白い頬。小さな身体には似合わないほど、きれいに整えられた服。

 けれど、その子は少しも楽しそうではなかった。

 何度も周囲を見回し、小さな手を胸の前で強く握っている。泣きそうなのだと、すぐに分かった。

 それでも泣こうとはしていなかった。

 泣きたいなら、泣けばよいのにと、セドリックは思った。大きな声を出せば、父か母が見つけてくれるかもしれない。

 けれど、その子は唇を結び、ただじっと立っていた。

 誰にも迷惑をかけないように。

 弱いところを、誰にも見られないように。

 小さな身体で、一生懸命にこらえていた。

 見ているうちに、放っておけなくなった。

「どうしたの?」

 声をかけると、女の子はびくりと肩を震わせた。それから、何事もなかったように背すじを伸ばした。

「迷子なの?」

「迷子ではありません」

 すぐに返事があった。けれど、その声はわずかに揺れていた。

「違うの?」

「少し、両親が見当たらないだけです」

 セドリックは、なるほどと思った。

 たしかに、迷子ではないのかもしれない。両親のほうが、まだ見つかっていないだけなのだ。

 そう考えると、女の子の言い方が少しおかしく思えた。けれど、笑ってはいけないとも思った。

 きっと、この子にとっては大切な違いなのだ。

「そうなんだ」

 それだけ言って、手を差し出した。

「こっちへ行こう」

 女の子は、すぐには手を取らなかった。

 セドリックの顔を見て、差し出された手を見て、それからもう一度、顔を見る。

 しばらく迷ったあと、ようやく小さくうなずいた。

 重ねられた手は、少し冷たかった。

 セドリックは女の子の歩く速さに合わせ、人の多い場所を抜けて庭園へ出た。

 扉が閉じると、会場の話し声が遠くなった。木の葉が触れ合う音と、鳥の声が聞こえる。頬に当たる風はやわらかく、こちらのほうがずっと落ち着いた。

 女の子の手からも、少しずつ力が抜けていった。

 花壇の前まで来ると、白い花が咲いていた。

 小さな花だった。名前は知らなかった。

 ただ、きれいだと思った。

「これ、知ってる?」

 女の子は首を横へ振った。

「知りません」

「僕も知らない」

 セドリックは一本だけ摘んだ。茎を折らないように、花びらを落とさないように指先へ力を込め、それを女の子へ差し出した。

「はい」

「……私に?」

「うん」

 女の子は、壊れやすいものへ触れるように、両手でそっと花を受け取った。

 その顔を見て、セドリックは少し安心した。

 さきほどよりも、泣きそうではなくなっていた。

「僕が一緒にいるから、大丈夫だよ」

 深く考えて言った言葉ではなかった。

 両親が見つかるまで、ここにいようと思った。一人なら不安でも、二人なら少しはましだろう。それだけだった。

 けれど、女の子は白い花を胸の前へ抱き、セドリックをじっと見つめた。

 その目が、ほんの少し明るくなった。

 やがて、遠くから女の子の名を呼ぶ声が聞こえた。

 エレノア。

 その時、セドリックははじめて、その子の名前を知った。

 駆け寄ってきた両親に抱きしめられ、エレノアはようやく頬を緩めた。その笑顔は、それまでよりもずっと幼く見えた。

 セドリックは、そのほうがよいと思った。

 子どもなのだから、無理に強そうな顔をしなくてもよい。

 別れ際、エレノアは白い花を握ったまま尋ねた。

「また、お会いできますか?」

 セドリックはすぐにうなずいた。

「もちろん。今度は一緒に遊ぼう」

 エレノアは笑った。

 その笑顔を見て、セドリックも笑った。

 その時にはまだ、自分の何気ない言葉を、エレノアがどれほど大切にすることになるのか、セドリックは何も知らなかった。

 それから、両家の交流が始まった。

 月に何度か、互いの屋敷を行き来するようになった。

 エレノアは、はじめのころ、遊び方をほとんど知らなかった。

 鬼ごっこも、かくれんぼも、木登りも、したことがないと言った。

 セドリックには、それが信じられなかった。子どもなら、誰でもするものだと思っていた。

「じゃあ、僕が教えてあげる」

 そう言って、エレノアの手を引いて走った。

 エレノアは速く走れなかった。転ばないように、服の裾を気にしながらついてくる。最初はすぐに息を切らし、頬を赤くして立ち止まった。

 それでも、もう帰りたいとは言わなかった。

 何度か遊ぶうちに、少しずつ笑うようになった。

 エレノアは、笑う時も静かだった。声を上げることは少なく、うれしい時には目元がやわらかくなる。

 セドリックは、その顔が好きだった。

「エレノアは、笑うとすごく可愛いね」

 思ったままを口にすると、エレノアはすぐに顔を赤くした。

「からかわないでください」

「からかってないよ」

 本当に、そう思っていた。

 けれど、エレノアはなかなか信じてくれなかった。

 白い花のことも、よく覚えていた。

 ある日、庭を歩いている時、エレノアが言った。

「あのお花、大切にしています」

「本当に?」

「はい。押し花にしました」

 セドリックは、押し花というものを知らなかった。本の間へ挟み、花の形を残しておくものだと教えてもらった。

「ずっと大切にできます」

 エレノアはそう言って、うれしそうに笑った。

 セドリックには、少し不思議だった。

 名前も知らない花だった。庭に咲いていたものを、一つ摘んだだけだった。

 けれど、エレノアがそこまで大切にしてくれるのなら、渡してよかったと思った。

 そのころのセドリックにとって、エレノアは少し変わった女の子だった。

 遊び方を知らず、難しい本ばかり読んでいる。川の話をし、畑の話をする。町がどうしてできたのか。橋を造れば、人や荷物の流れがどのように変わるのか。

 そんな話を、楽しそうに聞かせてくれた。

 セドリックには、分からないことも多かった。それでも、退屈だとは思わなかった。

 話をしている時のエレノアは、本当にうれしそうだった。いつもの静かな顔とは少し違い、言葉が増え、目が輝き、胸に抱いた本の上で指が小さく動いた。

 その姿を見ているほうが、本の内容よりもおもしろかった。

「エレノアは、本当に物知りだね」

「そうでしょうか」

「うん。僕は、そういう話が好きだよ」

 そう言うと、エレノアは本を胸へ抱き寄せ、うれしそうに笑った。

 自分の言葉でエレノアが笑うことを、セドリックは少し誇らしく思った。

 七歳になったころ、二人でアッシュフォード領を見て回った。

 馬車の窓から、広い畑が見えた。働いている人たちへ手を振ると、皆が笑って振り返してくれた。

「父上が言っていたんだ」

 窓枠へ手をかけたまま、セドリックは言った。

「領民は、家族なんだって」

 エレノアは、その言葉を何度か小さく繰り返した。

「すてきなお考えですね」

「僕も、そう思う」

 父のような領主になりたいという思いは、幼いころからあった。

 領地を守り、人々を守る。誰もが安心して暮らせる場所をつくる。

 まだ、それがどれほど難しいことなのかは知らなかった。それでも、きっと自分ならできると思っていた。

 そして、エレノアとなら、もっとよい領地をつくれるような気がした。

 帰り道、二人で木陰に座った。

 なぜ、その時に言おうと思ったのか、あとになってもセドリックには分からなかった。

 ただ、これからもエレノアがとなりにいることが、あまりにも当たり前に思えた。

「ねえ、エレノア」

「はい」

「大人になったら、エレノアと結婚したい」

 エレノアは、しばらく動かなかった。

 それから、首もとまで真っ赤になった。

「わ、私も……」

 声は小さかった。

「私も、セドリック様のお嫁さんになりたいです」

 その言葉を聞いた途端、胸の中が明るくなった。

「約束だね」

「はい」

 二人で小指を重ねた。

 子どもの約束だった。

 けれど、セドリックは本気だった。

 エレノアと結婚する。一緒に領地を守る。ずっととなりにいる。

 それは、そのころのセドリックにとって、疑う必要もない未来だった。

 やがて両家も、二人の婚約を喜んだ。

 家柄も釣り合っている。領地も近い。何より、二人は互いを好いていた。

 大人たちに祝福され、セドリックは安心した。

 子ども同士で交わした約束が、そのまま大人になっても続いていくのだと思った。

 エレノアは八歳になると、学ぶことを増やした。

 礼儀作法や音楽だけではなかった。

 税、農業、商業、物流、治水、財政、法律。

 侯爵家の後継者が学ぶようなことまで、父親へ教えてほしいと頼んだらしい。

 その理由を聞いた時、セドリックは驚いた。

「将来、あなたを支えられる妻になりたいそうですよ」

 母からそう聞かされた。

 うれしかった。

 エレノアが、自分との未来を本気で考えてくれている。自分だけではない。エレノアも、あの日の約束を覚えている。

 それが何よりうれしかった。

 会うたびに、エレノアは新しく学んだことを話してくれた。

 最初は、まだ二人とも子どもだった。エレノアも分からないことがあり、話の途中で考え込むことがあった。

 けれど、学ぶことをやめなかった。

 年を重ねるごとに、その話は詳しくなった。以前に話していたことが別の知識と結びつき、そこから新しい考えが生まれていく。

 セドリックは、素直にすごいと思った。

「エレノアがいてくれたら安心だ」

 ある日、そう言った。

 その時のエレノアは、本当にうれしそうだった。

「必ず、お力になります」

「その時は頼りにするよ」

 その言葉にも、嘘はなかった。

 いつか自分が困った時には、エレノアへ相談する。二人で考える。一人ではできないことも、二人ならできる。

 そう思っていた。

 十六歳の春、二人でアッシュフォード領を見渡す丘へ登った。

 そこは、セドリックの好きな場所だった。

 広い畑。その向こうを流れる川。ところどころに集まる小さな家々。風が吹くと、伸びた草が一斉に同じ方向へなびいた。

 この景色を見ると、自分が守るものの大きさを感じた。

 同時に、いつかこのすべてを背負うのだという思いが、胸の奥へ静かに落ちてきた。

 エレノアは、遠くの畑を見ただけで、作物の育ちが悪いことへ気づいた。

 川から水路を引けばよいのではないかと言い、足もとの土へ枝で図を描いた。必要な費用と得られる利益、何年ほどで費用を回収できるかまで、迷いなく話した。

 セドリックは、ただ感心していた。

 自分は、その畑に水が足りないことすら、言われるまで気づかなかった。

 けれど、その時はまだ、それを恥ずかしいとは思わなかった。

 エレノアが気づいてくれた。これから二人で直していけばよい。

 ただ、そう思った。

「すごいよ、エレノア」

 エレノアは少し照れたように笑った。

「あなたの領地ですから」

 手にしていた枝を地面へ置き、遠くの畑を見た。

「将来、一緒に守る場所ですもの」

 その言葉がうれしかった。

 自分の領地を、自分と同じように大切にしてくれている。この人を妻にできる自分は、きっと幸せなのだと思った。

 セドリックはエレノアの手を取った。

「君が妻になってくれるなら、アッシュフォード家は安泰だ」

 エレノアの目に、みるみる涙が浮かんだ。

 セドリックは驚いた。泣かせるようなことを言ったつもりはなかった。

「エレノア?」

「申し訳ありません」

 エレノアは顔を伏せた。

「うれしくて……」

 涙を流しながら、それでも笑っていた。

 その顔を見ていると、胸があたたかくなった。

 自分の言葉を、こんなにも喜んでくれる人がいる。その人が、いつか自分の妻になる。

 それだけで、何も不安はなかった。

「だったら、もう一度約束しよう」

 二人で領地を守ること。

 困った時には相談すること。

 うれしい時には一緒に笑い、悲しい時には一緒に乗り越えること。

 子どもが生まれたら、この丘へ連れてくること。

「絶対に幸せにする」

 セドリックはそう言った。

 言わされたわけではない。家のためでもなかった。

 心から、そうしたいと思っていた。

 エレノアも、自分がセドリックを幸せにすると言った。

 二人なら幸せになれる。

 そのころのセドリックは、本当にそう信じていた。

 エレノアを愛していた。

 自分の未来には、いつもエレノアがいた。

 それが変わる日など、来ないと思っていた。

 王立学院を卒業すると、二人の生活は少しずつ変わった。

 エレノアは、ハートウェル領の実務へ入った。

 自分の領地だけではない。アッシュフォード領の資料まで読み、役人と話し、農民の声を聞き、川や畑へ足を運んだ。

 セドリックもまた、次期侯爵として仕事を学び始めた。

 けれど、その内容はエレノアとは少し違っていた。

 貴族との付き合い。狩猟会。晩餐会。舞踏会。酒宴。家と家をつなぐための会話。

 それも必要な仕事だった。

 父は、領主は領地の中だけを見ていればよいのではないと言った。王家とのつながり。他家との関係。商人との交渉。何かあった時に助けを求められる人脈。

 どれも領地を守るために必要だった。

 セドリックも理解していた。

 だから、求められる場所へ出た。笑いたくない時にも笑い、興味のない話にも耳を傾けた。酒を勧められれば、断れないこともあった。

 夜遅くまで付き合い、朝になれば次の予定へ向かった。

 忙しいのは、エレノアも同じだった。

 だから、会う時間が減ることは仕方がないと思った。

 そう思おうとした。

 ある日、久しぶりに二人で出られそうな夜会があった。

「今度の夜会、一緒に来ないか?」

 エレノアは、膝の上に置いていた予定帳へ目を落とした。指で日付をたどり、申し訳なさそうに眉を下げる。

「その日は、アッシュフォード領の灌漑計画会議へ代理として出席する予定です」

 父がエレノアへ頼んだ仕事だった。自分が別の場所へ出なくてはならないため、その代理を任せたらしい。

「そうか」

 セドリックは、それ以上何も言えなかった。

 来てほしい。

 久しぶりに、仕事ではない話がしたい。

 同じ場所で、ただとなりに立ってほしい。

 そう言えばよかった。

 けれど、言えなかった。

 エレノアは、自分たちのために働いている。アッシュフォード領のために。結婚したあとのために。自分が出られない会議へ、代わりに出てくれる。

 それを分かっていながら夜会へ来てほしいと言えば、自分のわがままを押しつけるような気がした。

「最近、本当に忙しいね」

 言えたのは、それだけだった。

「申し訳ありません」

 エレノアは予定帳を閉じ、頭を下げた。

「結婚後に必要な計画ですから。今のうちに整えておけば、きっとあなたのお役に立てます」

「ありがとう」

 感謝していた。

 本当に、感謝していた。

 けれど胸の中には、別の言葉も残った。

 また、領地の話か。

 そう思った自分を、セドリックはすぐに恥じた。

 エレノアは、自分のためにしてくれている。何も悪くない。むしろ、自分が感謝しなくてはならない。

 だから笑った。

「助かるよ」

 その日から、似たようなことが何度か続いた。

 会えば、仕事の話をした。

 水路。税。工事。収穫量。

 結婚式の準備も、日取りや招待客、使用人の配置の話が多かった。

 どれも必要なことだった。

 無駄な話は一つもなかった。

 けれど、セドリックは時々思った。

 エレノアは、自分に会いたいと思っているのだろうか。

 仕事がなくても。伝えることがなくても。ただ一緒にいたいと、思ってくれているのだろうか。

 聞けばよかった。

 けれど、聞けなかった。

 そのようなことを尋ねる自分は、ひどく幼く思えた。

 エレノアは未来のために働いている。自分も未来のために働かなくてはならない。寂しいなどと言っている場合ではない。

 そうやって、セドリックは自分を納得させた。

 数日後、アッシュフォード領の役所で、灌漑計画の会議が開かれた。

 エレノアは、集まった役人や技術者の前で説明をしていた。

 声は静かだった。けれど、迷いはなかった。

 質問を受ければ、すぐに答えた。数字も、工期も、必要な人員も、すべて頭に入っていた。

「すばらしい案です」

「さすがエレノア様ですね」

「将来の侯爵夫人として、申し分ありません」

 周囲から褒める声が上がった。

 セドリックもうれしかった。

 エレノアが評価されることは、自分のことのようにうれしい。

 そう思った。

「セドリック様は、よい方を婚約者にされましたね」

 そう言われて、セドリックは笑った。

「本当にすごい人なんです。私には、もったいないくらいですよ」

 冗談のつもりだった。

 周囲も笑った。

 けれど、自分の口から出たその言葉だけが、笑い声の中へ消えず、胸の奥に残った。

 もったいない。

 たしかに、そうなのかもしれない。

 エレノアは、自分よりも領地のことを知っている。自分よりも先に問題を見つける。自分がいなくても会議をまとめられる。

 役人たちも、エレノアの言葉を真剣に聞く。父も、彼女を頼っている。

 自分がいなくても、アッシュフォード領はエレノアがいれば困らないのではないか。

 そんな考えが浮かんだ。

 すぐに打ち消した。

 エレノアは自分の婚約者だ。二人で領地を守るのだから、どちらが優れているかなど関係ない。彼女ができることは、自分にとっても力になる。

 そう考えるのが正しい。

 分かっていた。

 それでも、となりに立つたび、自分が少しずつ小さくなるような気がした。

 以前は、エレノアが何かを知っていることがうれしかった。分からないことを教えてくれることも、自分の領地を大切にしてくれることも、すべて誇らしかった。

 その気持ちは、今も消えていなかった。

 ただ、そのすぐとなりへ、別の気持ちが生まれていた。

 自分も見てほしい。

 自分も頼ってほしい。

 エレノアのとなりにいる男としてではなく、エレノアを婚約者に持つ男としてでもなく。

 セドリック自身を、誰かに必要としてほしかった。

 けれど、その願いを口に出すことはできなかった。

 頼ってほしいと言えば、自分が役に立てていないことを認めるような気がした。

 自分よりできることを、できないふりをしてほしいと頼むような気もした。

 そんなことはできなかった。

 だから、何も言わなかった。

 笑った。感謝した。エレノアを褒めた。

 それが正しいと思った。

 正しいことを続けていれば、胸の中の小さな痛みも、そのうち消えると思った。

 消えなかった。

 十八歳になったころ、セドリックは一人の令嬢と話すようになった。

 リディア・フェアファクス。

 伯爵家の娘だった。

 はじめは、父親の用事で少し言葉を交わしただけだった。

 セドリックが説明したことを、リディアは目を輝かせながら聞いていた。

「セドリック様は、本当に頼りになります」

 その言葉を聞いた時、胸の奥がほんの少し軽くなった。

 エレノアも、自分を頼ると言ってくれたことがある。

 幼いころ。丘の上。

 あの時の言葉に、嘘はなかった。

 けれど、今のエレノアは、自分がいなくても何でもできた。

 リディアは違った。

「私には、難しいことは全然分かりません」

 そう言って笑い、少し首を傾ける。

「でも、セドリック様が教えてくださると、とても分かりやすいです」

 セドリックが何かを話すと、リディアは感心した。小さなことでも、すごいと言った。いてくれると安心すると言った。

 その言葉が、うれしかった。

 自分でも、情けないと思った。

 ただ褒められただけだった。子どもでもあるまいし、それくらいのことで心を動かすべきではない。

 そう思った。

 けれど、リディアと話しているあいだだけは、自分が誰かの役に立っているように思えた。

 エレノアのとなりでは、いつも追いつこうとしていた。

 リディアの前では、自分が先に立つことができた。

 それは、やさしさではなかった。

 愛でもなかった。

 ただ、自分の弱いところへ、ちょうどよく触れる言葉だった。

 そのことに、セドリックはまだ気づいていなかった。

 夜会で顔を合わせるたび、少しずつ話す時間が増えた。

 リディアは領地経営の話をしなかった。

 治水も、税も、財政も、結婚後の仕事も、何一つ話さなかった。

 今日、何を食べたか。どの音楽が好きか。子どものころ、よく転んだこと。兄弟に笑われたこと。

 そんな話ばかりだった。

 セドリックも、仕事以外の話をした。

 好きな酒。狩りで失敗したこと。父に叱られたこと。

 そして、領主になれるのか、時々不安になること。

 最後の言葉は、エレノアにも言ったことがなかった。

 エレノアに言えば、きっと助けようとしてくれる。

 問題を整理し、何を学べばよいのか考え、一緒に乗り越えようと言ってくれる。

 それが分かっていた。

 けれど、セドリックがその時ほしかったのは、答えではなかった。

「大丈夫です」

 リディアは、ただそう言った。

「セドリック様なら、きっと大丈夫です」

 理由はなかった。

 根拠もなかった。

 それでも、その言葉を聞くと安心した。

 考えなくてもよかった。足りないものを探さなくてもよかった。今のままの自分で十分だと言われているような気がした。

 気づけば、夜会へ出るたびにリディアを探すようになっていた。

 見つければ、ほっとした。

 姿がなければ、理由もなく落ち着かなかった。

 その変化を、セドリック自身も分かっていた。

 これはよくない。

 そう思った。

 婚約者はエレノアだ。

 幼いころから一緒に歩いてきた。白い花を大切にしてくれた。自分のために学び、自分の領地のために働き、自分との未来を信じている。

 それを裏切ってはいけない。

 次に会っても、必要以上に話すのはやめよう。

 そう決めた。

 けれど次の夜会で、

「セドリック様」

 リディアが笑うと、足が止まった。

 少しだけなら。

 挨拶だけなら。

 話すだけなら。

 何も悪いことはしていない。

 そうやって、セドリックは自分へ言い聞かせた。

 最初は、話すだけだった。

 それから、二人で庭へ出るようになった。

 人の少ない場所で話した。時間を忘れることもあった。

 エレノアには、仕事が長引いたと言った。

 その時、はじめて嘘をついた。

 口にしてしまえば、あまりにも短い言葉だった。

 けれど、エレノアの顔を見ることができなかった。

「お疲れさまでした」

 エレノアは疑わず、いつもどおりに笑った。

 その笑顔を見て、もう二度と嘘をつかないと決めた。

 それでも、また夜会があればリディアを探した。

 リディアも、少しずつ距離を置こうとした。

「婚約者がいらっしゃいますもの」

 視線を伏せ、ドレスの布を指先でつまんだ。

「これ以上、お話ししてはいけません」

 正しい言葉だった。

 セドリックも、そう思った。

「そうだね」

 うなずいた。

 これで終わりにしよう。

 エレノアのところへ戻ろう。

 もともと、自分がいるべき場所は決まっている。

 そう思った。

 けれど、リディアが去っていくと、その背中を追いかけたくなった。

 あの笑顔を、もう見られないと思うと苦しかった。

 頼りになりますと。

 いてくださると安心しますと。

 もう言ってもらえないことが、ひどく寂しかった。

 それが恋なのか。

 ただ、必要とされたいだけなのか。

 セドリックには分からなかった。

 分からないまま、ある夜、二人で夜会を抜け出した。

 人目を避けるように庭を通り、停められていた馬車の中へ入った。

 外からは、遠く音楽が聞こえていた。

 閉じられた馬車の中は暗く、互いの顔もはっきりとは見えなかった。

 リディアは何度も首を横へ振った。

「いけません」

 息を吸う音が、すぐ近くで聞こえた。

「これ以上は、いけません」

 セドリックも分かっていた。

 戻らなくてはならない。

 会場へ。

 エレノアとの未来へ。

 丘の上で約束した自分へ。

 戻るべき場所は、分かっていた。

 リディアが、震える声でセドリックの名を呼んだ。

 その声を聞いた時、セドリックは、自分が必要とされていると思った。

 その時の彼には、それだけでよかった。

 その夜、セドリックは越えてはいけない一線を越えた。

 誰かに強いられたわけではない。

 リディアのせいでも、エレノアのせいでもなかった。

 自分で選んだ。

 帰るべき場所を知りながら。

 守ると誓った人がいることを知りながら。

 それでも、セドリックは戻らなかった。

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