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8 認識の崩壊


 思考がそこまで至ったところで、アリシアは現実に戻った。目の前には紫色の和服を着た桜井美和が、微笑みをたたえて座っている。ここは戦いの場だというのに。

 入場した時はうるさかった会場が、今では静まりかえっている。観客席からは、咳一つ、椅子がきしむ音すら聞こえてこない。二人の選手が、試合を前にしてリングの上で座っている。何とも珍妙な景色なはずなのに、誰一人、騒ぎ立てていない。

 それに気づいたアリシアは背筋に冷たいものを感じた。先ほどまで美和を囲むように騒いでいた会場の空気そのものが、美和の支配下にあるかのようだ。まるで美和のために用意された茶席なのだ。観客も自分も茶筅や茶碗と同じく茶席の一部になってしまったと言っていい。

その中で落ち着いた様子で座っている美和。敷物が敷かれた後、美和は先に着座し、アリシアを招いた。格闘家としたら、これはかなり無防備な体勢だ。攻撃を受けてもすぐには反撃できないのだから。そのことを美和が気づかないはずがない。なのに、そうしたということは、こちらが攻撃しないと踏んでいるか、してきても対処できる自信があるということか。どちらにしろ、よほどの覚悟があることは確かだ。

——本当に無事にリングを降りることができるのだろうか——

アリシアらしくない考えが頭をよぎる。今まで様々な相手と対戦してきた。だが、今、目の前に座っている美和は、他のどの選手とも違う種類だ。茶の香りと静寂の中で感じる圧力――これは何なのだろう?

(この人は……本気で決着をつけるつもりなの?)

美和が腰を下ろしたまま、茶道具を丁寧に片付け始めている。その動作一つひとつに隙がなく、流れるような動きだった。茶席の終わりが近づいているのだ。

「……お、おいしいお茶でした」

アリシアの声は上ずっていた。

茶器を片付け終えると、美和は敷物から立ち上がる。続いてアリシアも立ち上がると、少女が毛氈をたたみ、茶道具の箱を手に取った。

「ごくろうさま。向こうでゆっくり待っていてね」

挿絵(By みてみん)

美和が柔らかな声で少女に語りかける。姉が妹を送り出すような温かさがにじみ出ている。ほほえましい光景である。だがアリシアだけは、またも別なものを見つけてしまっていた。

「………」

少女が出やすいように、美和がコースロープを引き上げたときだった。和服の袖がずれて、ほんの一瞬だけ腕が見えた。

細く白い腕だった。だが、決して華奢ではない。しなやかで、それでいて鋼のような力強さがあった。アリシアには分かった。あれは茶器をとるなどのためのものではない。何人もの相手をマットに沈めてきた人間の腕だ。

「さて——」

少女が降りるのを見届けると、美和は立ち上がり、アリシアのほうへ体を向けた。表情は相変わらず笑顔をたたえている。だが、その目は、どこか冷静な感じがする。

アリシアは唾を飲み込んだ。この人は、お茶をたてることも、少女をいたわることも、リングで相手を倒すことも、全て同じ水準にあるのだ。そこに迷いはない。相手が最後に動けなくなる瞬間まで含めて、美和にとっては為すべきことの一つに過ぎないのだ。

「……おまたせしました。そろそろ、はじめましょうか?」

挿絵(By みてみん)

その一言で、会場が爆ぜるように沸いた。永い夢から覚めたかのように。今からどんな闘いが繰り広げられるのかという熱い期待が、リングの外から伝わってくる。

だがアリシアには少しも感じられなかった。

(こんなの、プロレスじゃない……)

会場も、美和も、すでに試合へ向かって動き出している。ただ、自分だけが立ち止まって考え込んでいた。

 どうしよう……。いっそ、試合が始まったら適当に受けて、そのまま負けてしまおうか。そうすれば自分も無傷のままで試合をすぐに終えられる。アリシアほどの実力者なら、不自然にならない程度に試合を終わらせることなど難しくない。

 だが、その考えはすぐに消えた。

 できるはずがない。さっきの茶席の時だってそうだ。最初は何をしているんだと思ってみていたのに、いつの間にか彼女のペースに巻き込まれて大人しくお茶を飲んでいた。

 ゴングが鳴れば、なおさらだ。相手が本気なら、自分も本気になる。そして一度そうなってしまえば、途中で引くことなどできない。そんな器用な真似ができるなら、そもそも三冠王になどなっていない。

 美和の手や腕を見てからというもの、ずっと脅威を感じていた。だが、その一方で、闘ってみたいという気持ちも消えてはいなかった。格闘家としての本能が、心の底で静かにくすぶり続けていたのだ。試合が始まってしまえば、後は、美和と闘うしか道は残っていない。

烈火の女王と言う異名を持つ自分だ。そうやすやすと彼女の思うどおりにはさせない。ただし今回は、完全決着にするしかない。最後までやり遂げるのが信条の相手なのだから。

(美和を打ち倒す……)

挿絵(By みてみん)

それは可能だ。勝てる見込みはある。そして恐らくこの試合は、自分のこれまでの試合の中でも、最も苛烈を極めるものになるだろう。決着がつく頃には、どちらも最後の一滴まで力を絞り尽くしているはずだ。

——この試合を終えれば、もう退屈に思わなくて済むだろう。ただ「退屈」以外のことも思わなくなるのではないか。

美和と闘えば、王者としての闘志も、格闘家としての欲求も、満たされる。だが、それにはかなりの代償が必要だった。それがどれほどのものになるのか、アリシアには想像もつかなかった。

美和と対戦した選手には、なぜか引退したり行方不明になった者が多い——。マネージャーの話が再び脳裏をよぎる。


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