第二話
〜美術館に行こう〜
目覚まし時計が鳴る一瞬前にのぼるはムクっと起きあがった。
次の瞬間目覚まし時計が鳴って、その次の瞬間にはのぼるの手によって止められていた。
「…朝だ。」
「うん…」
「…起きよう。」
「うん…」
俺は朝が弱い。
普段から夜型の生活をしている性もあるが、今日はそれだけが理由ではない。
その辺は…ご想像にお任せしよう。
「…約束。」
「わかってるよ…」
目をこすりこすり起きあがるとのぼるはすでに自室に戻って着替え始めていた。
脱ぎ散らかった衣類を拾いつつ自分も着替える。
今日はのぼると美術館に行く約束をしていたのだ。
芸大時代の後輩の作品が展示されるとかなんとかでのぼるは随分テンションを上げていたが、他のヤツの事ではしゃぐのぼるに若干のいらだちを感じた自分が惨めだったのであまり思い出したくない記憶だ。
のぼるは芸大時代に出来た数少ない友人と未だによく連絡を取り合っているらしい。そう言えばそれ以外に友人らしい友人を紹介して貰ったことがないな。
「…はやく。」
のぼるが俺の部屋をのぞき込んで言う。ヤツにしては積極的なアプローチだ。
「わかってるって。まだ10時だろ?」
「…10時25分。」
細かい。
井の頭公園駅は休日ということもあって随分と人出があった。
「…はやく。」
切符の券売機の前でのぼるが振り返った。
「わかってるよ。」
のぼるは切符が買えない。というか機械にめっぽう弱い。現代社会に生きる若者としてあるまじき機械音痴なのぼるは電車の切符はおろかジュースの自販機にもうろたえるほどだ。
「…はやく。」
「せかすなって…」
そう言えば切符ってどうやって買うんだっけ?
スイカのしかもオートチャージに慣らされた自分にとって、券売機で切符を買うのは実に久しぶりの行為なのであった。
「…お前もスイカ買ったら?」
「…ユキ、まだ6月だ。」
「…」
「…」
六本木駅の近くにある「なんとか近代美術館」には休日ということもあって随分と人出があった。
「…はやく。」
「そう焦るなって。絵は逃げないよ」
「…はくさんの絵、はやく観たい。」
ヤツにしては積極的なアプローチだ。
なんだかイライラしてきたぞ…いなんな。このパターン。
普段は俺がじれったくなるほどゆっくりとしか歩かないのぼるが今日は一般人並の早さで進んでいく。あんなに早く動くアイツをベッドの上以外で観ることになるとは。
小さな絵だった。
葉書2枚分ほどの大きさの黒い紙が壁にかけてある。
黒い紙に見えたそれには膝を抱えてうつむく女性が描いてあった。
のぼるはその前にいた。随分と長い間。
会場にはその絵の他にも大きくて迫力のある絵や彫刻が整然と並べられていたが、のぼるはその小さな絵の前にただ立ちつくしていた。
「…さびしい絵だ。」
「そうだな」
素直にそう思った。のぼるがどういった意味合いで「さびしい」という表現を使ったのかはわからない。でも、「さびしい」絵だった。
膝を抱えてうつむきながら、小さな紙の上に置き去りにされた女性。
「…行かないと」
「どこへ?」
「…はくさんに会いに行く。」
ヤツにしては積極的なアプローチだ。
聞くところに寄るとその「はくさん」は長野の山奥でひたすら絵を描いているらしい。そんな生活で生きているのだからうらやましいと思わなくもないが、俺にはやっぱり都会暮らしが似合っていると思う。
それはさておき、恐らくのぼるはこの絵を見て「はくさん」の心の叫びを感じ取ったんだろう。
「気持ちはわかるけど、お前金はどうするんだよ?」
「…」
ちょっと意地悪をしてしまった。
俺だったら交通費と宿泊費ぐらいは余裕で出してやれるにもかかわらず、アイツの性質上アイツはこうゆう理由で俺を頼れない。変なところで遠慮する悪い癖があるのだ。治せって言ってるのに。
しばらくのぼるは黙って考え込んでいた。俺がそろそろ「金の心配はするな」とかなんとか格好いいこと言ってやろうか、と思ってニマニマしていると、
「のぼる…」
と恐らくのぼるのつぶやきを聞き慣れている俺にしか聞き取れなかったであろう小さな声のぼるの名を呼んだ。
その瞬間、のぼるが今まで俺の前では見せたことのない様な俊敏な動作で振り返った。あんなに早い動き、ベッドの上でも見たことないぞ…
そこには髪の毛のお化けみたいな、夢の島の仙人が遊びに来たみたいな、そんな変な、というか奇怪な、というか「人か?」と思わず疑ってしまうような風貌の何かがいた。
「…はくさん。」
いつもと変わらないトーンに聞こえるのぼるの声だったが、俺はその声に「激しい驚き」がこもっていることを感じた。
「…のぼる。」
のぼるとほぼ同じトーンで夢の島の仙人がつぶやく。
美術館の中でそこだけが違う次元に切り離されてどんどん遠ざかっていく様な感覚に襲われた。
こいつ、のぼると同じ「におい」がする。
夢の島の仙人もとい、はくさんはのぼるを見ていた。
のぼるも夢の島の仙人もとい、はくさんを見ていた。
二人の距離およそ10メートル。
「もっと近づけよ」と俺が突っ込む余地のないほどに二人の間には二人の時間が流れてた。
ここで俺がどんな声をかけてもきっと二人には届かないのだろうとその瞬間思い知らされるようだった。
「くそっ、イライラする…」
どれくらいの時間が流れただろう。
それは5分ほどの様であり、5年ほどの様でもあったが、腕時計を見るとそれはほんの2分30秒ほどの時間だった。
「…はくさん、もう大丈夫なんだね。」
「…あぁ、ありがとう、のぼる。」
夢の島の仙人は夢の島へ帰っていった。もとい、はくさんは長野へ帰っていたのだろう。
はくさんは振り返るとゆっくり、ゆっくりと脚を前へ動かし始めた。よく見ると裸足だった。
のぼるはそんなはくさんの後ろ姿をただ見つめているだけだった。
ここからが長かった。
はくさんはゆっくり、ゆっくり、まるで亀の歩みのごとくゆっくりと出口へ向かって歩いていく。
それを見送るのぼる。
ゆっくり、ゆっくり出口のドアを空けるはくさん。
それを見送るのぼる。
それは2時間49分におよぶ長い、長い見送りだった。
その間に俺は展覧会を2周ほどして、スタバでカモミールティー490円を飲んでまったりしたり、トイレへいったりしていた。
俺が戻った頃にやっとはくさんは出口のドアに手をかけた所だったので、それから約5分ほど二人の世界を外の世界からのぞき込んでいた。
はくさんが出ていくと、のぼるは涙を一粒落とした。
のぼるが泣くのを見るのは3回目だった。
「帰りは外で食べていこうか」
美術館を出るともうあたりは暗くなっていた。これから帰って食事を作るのも面倒だったので、俺はのぼるへそんな提案をしたのだが、
「…ユキのご飯が食べたい。」
「これからだと遅くなっちゃうだろ?」
「…待つ。」
「…素直でよろしい」




