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「鹿子……鹿子!」
少し大きな声で呼ばれ、鹿子はようやく我に返った。自分を覗き込んでいる母親に、鈍く笑ってみせる。
「はい……聞こえてる…」
「大丈夫?」
母親は心配そうだ。部屋の隅で膝を抱えて丸くなっている鹿子を、もう何度も呼んだのだ、と言う。
「すすむ君のことが心配なのはわかるけど、何か食べないと……」
「うん……わかってる……大丈夫……大丈夫だから……」
答えながら、鹿子は立ち上がった。見守る母親を残して玄関に向かう。
「また……すすむ君の所?」
「うん……何か連絡入ってるかも知れないし……あいつのとこ、留守電あるし……」
携帯にも連絡がないのだ、すすむの家にメッセージなど残されていないことは百も承知だった。
あれからもう二日、すすむは行方不明のままだ。
あの事件をTVや新聞は数百人の白日夢、という扱いで報じた。原因は究明中だが、何かのガスが近くの薬剤の研究所から漏れたとか、何かの異常で急激な気圧か酸素濃度の変化があったとか、そんな具合に考えられている。妙な具合に曲がった自動車やガードレールは、一部のオカルト番組で取り上げられたものの、幻覚を見た人間が起こした事故によるものとして処理されたようだった。
それでもあえて、アンモナイトを見たと主張する数人は医師の診察を受けることになり、そうなるとおかしなもので確かに自分も見たと言い出す人間は一気に減った。
そこへ各報道機関の白日夢としての扱い、あれほどの事件が翌々日の夕方にはなかったこととして消されていこうとしている。
それが『炎』の言った、この世界を保つためにある『正しい』努力なのかも知れないが、すすむがいなくなっていることは確かな事実、鹿子の『記憶』はあの時点から離れられない。
不思議なのは、息子を失った楢家の対応だった。
すすむの両親は息子がいなくなった事をまるで気づいていないかのような無関心さで、これまで通りの生活を続けていた。あんまりだ、と噛みついた鹿子には「警察に任せていますから」で押し通し、かと言って、あのマンションを引き払う風でもない対応、それは、鹿子にすすむがどれほど孤独だったのかを思い知らせた。
すすむは手のかかる息子だった。女を引っ張り込む困り者だった。あの騒ぎで行方が知れなくなったが、どうせ家出でもしたのだろう、そういうぐうたら息子だった。
そうつぶやく両親の内側の声が聴こえてきそうだ。
不思議と言えば、鹿子の母親の態度も奇妙だった。
あれほどすすむに頼っていたのに、彼がいなくなってショックを受けた鹿子が、一応人並みに生活は送れると知ると、逆に、彼がいなくなってほっとした、という表情を見せることが多くなった。むしろ、すすむに拘る鹿子に戸惑い、何とかすすむのいない生活にも慣れさせようとしているようだった。
(みんな、おかしい)
鹿子は反発し、日に何度もすすむのマンションに向かう。
「鹿子」
「大丈夫、大丈夫だから」
「……早く帰るんですよ」
「うん、大丈夫!」
すがりつくような母親の視線に吐き捨て、素早く靴を履いて外に出る。
スムーズな動作とは裏腹に、鹿子の気持ちはあの時のまま凍りついている。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
そう自分に言い聞かせていなければ、このままぐずぐずと崩れて二度と立ち上がれないような気さえしている。
マンションのエレベーターで十五階へ一気に上がった。勝手に作った合鍵でドアを開け、主のいない部屋に入る。
夕闇が迫り始めた無人の部屋は寒々として、鹿子を拒んでいるようだった。
ドアを閉め、鍵をかけ、まるで儀式のように奥へ通って、ベッドの横にある枕元の電話の前にぺたりと座った。
留守番電話は入っていない。それを三度も確かめて、向きを変えた。
電話の横の小さな棚に、何冊かのアルバムがある。
手前の数冊を引き出し、膝に載せて開いていく。青い光が澱む部屋で、写真の中のすすむと鹿子が白々しく笑っている。
二人の写真はそう多くない。どちらかというと、すすむと他の女が写っている方が多い。
けれども、限られた何枚かの写真を指で追っていく鹿子の口元には、微かな笑みが戻ってくる。
「そうそう、この後すぐに、あたしに電話かけてきて、『今部屋に居るんだ。女の子の分と二人分、御飯作ってよ』なんて言うんだもん。頭きて、うーんと辛いカレーを持ってったんだ」
それでも、すすむは「鹿子のが一番うまいんだ………こんなの作れる……?」とのうのうと相手に尋ね、もちろん、浮気はその場でご破算、あの時の女の顔ったらなかった。
思い出してくすくす笑い、次のページを捲って動けなくなった。
何も貼っていないページ。
食い入るように見つめていた鹿子の目から、ゆっくりと涙が零れ落ちる。
どうして、だろう。
鹿子はすすむが自分の作った物を食べなくなる時が来ると、思ったことがなかった。すすむが突然居なくなるなどとは考えたこともなかった。
浮気するたび腹を立てて、そのくせ、食事時にはすすむの好きな献立を考えて作った。抱き合ったこともなければ、キスしたこともない。手さえ握ったこともない。
なのに、すすむと自分の時間が途切れることはあり得ないと、どうして信じていられたのだろう。
だが、その全てはもう帰らないものとなった。
すすむは二度と鹿子の食事を食べない。
このアルバムに新しい写真が増えることもない。
自分の心が真っ白な空間に押し出されていくような気がする。
何もない。
何もなくなってしまった。
こと、とアルバムが膝から滑り落ち、我に返った。
部屋はかなり薄暗くなっている。家に一本電話を入れないと、明日は出してもらえないかもしれない。
アルバムを片付けようとしたが、暗すぎて、いつもならすっと片付けられるところがなかなか入らない。
立ち上がって明かりを点け、戻って来てアルバムを抱え、一度に入れようとして棚を覗き込み、眉をひそめた。
奥の方に何か薄いものが引っ掛かっている。




