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既に騒ぎは十分大きくなっていた。
映画館に面した大きな通りに人が集まっている。その少し先、交差点の中央に、いつか見た真珠色の霧が凝り固まり、高さは周囲のビルの二階分ほどもあった。ぼんやり霞んだ周辺から、渦を描いた中央の空間へ近づくに従って、霧は密度を高めてもったりとした風合いに見える。中心点はほとんど触れそうなぐらいくっきりとした形を描いていた。
いつぞやの夜に見た、おぼろげな霧の塊とは全く違う。
アンモナイトの下部がもやもやと消えている辺りで、数台の自転車がおかしな具合にねじ曲げられて止まっている。道路には何の変化もなさそうだが、ガードレールもアンモナイトの殻に押しのけられているように僅かに曲がり始めていた。
それ以上は動こうとしていない相手を甘く見たのか、物見高い野次馬が幾重にも垣を作り、アンモナイトを囲んでいる。誰か通報したのだろう、遠い所からパトカーのサイレンらしい音が響き始めていた。
「な……に…」
「アンモナイト。化石でしか知らないわね。古生代から中生代にかけて存在した生物よ。もっともここにいるのは、それがいた、という『記憶』………やっかいなのは、この周囲に、これを見てすぐ、アンモナイトを想像した人間が多かったこと………おまけに不良のVAKUがいる」
絞り出すような鹿子の声に、『炎』は淡々として厳しい声で応じた。
「見てごらんなさい。『記憶』が見る見る濃くなっていくでしょう? アンモナイトを思い出した人々の『記憶』を、VAKUが外へ放出し切れないで、増幅させてしまってるの…………『瞳』!」
「だめだな、もう押さえ切れない……VAKUを捕獲するしか手がなさそうだ」
少し前の方に立っていた『瞳』が、思い詰めたような声で答えた。
きびすを返して戻ってくる、その目がじっと映画館の入り口に注がれている。
視線を追った鹿子は、その先に立つすすむと咲子の姿を認めた。
「わかった。では、VAKUを捕獲後、『記憶』の始末にかかる」
きっぱりと言った『炎』が、ずい、とすすむの方に足を進めた。付き従う『瞳』の背後で、いよいよ濃くはっきりと実体化していくアンモナイトを遠巻きにしていた人垣が崩れ、悲鳴と怒号が波打つ。押し出されるようにアンモナイトに近寄せられた数人が、まるでスライムに呑み込まれるように霧の中に姿を消す。
「う、わ…」
「なんだ…っ」
「きゃ、あああああ! かずきーっ!」
女性の金切り声が響き渡り、次の瞬間辺りはパニック状態になった。
「好都合」
『瞳』が皮肉な調子で呟いた。
人がうねりとなって鹿子達を襲う。逃げて来る者、なお近づく者、入り交じって揺れる中、押し倒されまいと足を固める鹿子とは逆に、泳ぐように『炎』と『瞳』がすすむに近づいていく。
(処理……捕獲………すすむ!)
「ごめん! ごめんなさい! ……ええい、どけえっ!」
両手を振り回し、声を限りに叫びながら、鹿子はアンモナイトに背を向けて、すすむの方へ走った。
「すすむ! すすむ! 逃げて! 逃げて、よおっ」
群衆の中からどうして鹿子の位置を知り得たのか、すすむが確実に鹿子の方を凝視した。唇が動く、人波の向こう、ゆるやかに弧を形作って名前を呼ぶ。
『か、の、こ』
その次紡がれたことばに気づいて、鹿子の目の前が見る見る滲んだ。
『あ、ぶ、な、い』
「危ないのはあんたよーっ! ばかーーっ!」
逃げてええええっ!
『炎』と『瞳』が、まるで何かに導かれるようにすすむの側へすり寄った。咲子が人ごみに押されてすすむの側から離され、ようやく気づいて鹿子の方へ泳ぐように歩き出す。入れ代わるように、すすむに『炎』が近づき、片手を振り上げた。すすむはまだ気づかない。ひどく真面目そうな心配そうな表情で、じっと鹿子を見つめている。
「すすむーっっっ!」
鹿子が絶叫するのと、『炎』の片手が振り下ろされて、日差しより遥かに眩い光の糸がすすむの回りに散るのが同時だった。
「ああっ…」
思わず声を上げる鹿子の前で、すすむがびくりと体を強張らせる。近くに多くの人間が居るのに、光の糸はすすむだけを閉じ込めていく。くるりと網のように繋がった糸の輪の中、すすむが慌てたように周囲を見回した。だが、それも長くない、苦しそうに胸を抱き、のけぞるように倒れていく。
「『炎』!!」
いつかの繭よりももっと容赦なく強く編まれた檻が、見る見るすすむを包んでいく。呆然とする鹿子の前で、細身の体がイリュージョンよろしく中空に吊り上げられる。
「鹿子!」
必死に人の手足を潜って、咲子がようよう鹿子に近づいて来た。ぼんやりしてしまった鹿子の方を掴み、強く揺さぶって叫ぶ。
「鹿子、あれ!」
のろのろと振り返って、鹿子はアンモナイトがさっきより格段に弱々しい像になったのを見た。その前に進み出ていく『瞳』の姿を見た。続いて、周囲の人間が止めるのを振り切って『炎』が歩み出す。
「何…する気なんだろう……」
咲子のつぶやきは、そこに居た全ての者の問いだったに違いない。
『瞳』が足を速めた。アンモナイトが敵に気づいたように体を震わせる。霧が輪郭から僅かに広がり、零れ落ちていくようだ。後に続いた『炎』も速度を上げ………もう少しでアンモナイトに接触するというところで、一瞬二人の姿が重なったように見えた。
その瞬間。
光が満ちた。
どよめきが上がった。
高い悲鳴が空を裂いた。
だが……それだけだった。
人々が目を開けたとき、道路にはねじ曲がった自動車だけが放置され、巨大なアンモナイトはどこにもいなかった。




