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『炎』がいきなり鹿子の手首を掴んだかと思うと、そのままずぶりとベンチに押し込んだのだ。石のベンチ、なのに、何の抵抗もなく鹿子の手は『炎』の手に握られたまま深くめり込んで、痛みさえ感じない。体を震わせている鹿子に、どこか優しい目を向けて、『炎』は鹿子の手をベンチの中から引き上げた。
慌てて自分の手を取り返し、そっともう一方の手で摩っている鹿子に、
「この世界は、始めからこのまま存在しているんじゃない。ここにいるものの意識………わたし達は『記憶』とも呼ぶけど……そういうものが集まって、共通した世界を作り上げているの。そう、別のものの目からみれば、網のような意識の固まりなの。その中にあなた達がいる……」
「で…でも……だって……ベンチは……これは……石よ? ……だって………」
鹿子はおそるおそる指先でベンチを突いた。指が硬い感触を伝えるのに安心して、ぱんぱん、ことさら叩いてみせる。
「ほら、どうにもならない。石、だもの! 人の手、なんか入らない!」
「そう、考えているからね」
『炎』は首を傾げて鹿子を見た。深い深い目の色で諭すように続ける。
「それこそ、ずっと小さい頃から、そう、考えたでしょ? 覚えている限り、石は硬い、って何度も教えてもらったから。誰も石が指で貫けるほど柔らかいって教えなかったから。でも、それは正しいの。皆が共通する『記憶』を持たなければ、この世界は今すぐ崩れさっていくから。ここの者は賢かったわね………心の深みを考える前に、周囲の環境について『記憶』を固めておいたから、精神文明が発達し始めて、VAKUが不良でも、何とか今まで保ったんだもの」
「VAKU……」
与えられた知識を必死に理解しようとして、鹿子は少しでもわかりそうなことばにしがみついた。
「そう。世界はそこにいる者の『記憶』で構成され、変化していく。始めはそれには気づかない。けれども、そのうち、それに気がつくようになってくる。そうするとね、世界に小さな綻びが出来始めるの。石は柔らかいかもしれない。空気は固めてボールのように投げられるかもしれない。遠く離れた所へも僅か一歩で行けるのかもしれない」
『炎』は静かに瞬きした。
「そんなことをたくさんの人が一斉に考え出すとどうなるのか」
答えを待つように口を閉じたが、もちろん鹿子に答える術はない。
「それは、一方では精神文明の始まりなんだけど、もう一方では今までの世界を最小単位まで壊してしまう危険を含んでいる。変化はゆっくり行われてこそ、進歩に繋がるの。数時間で生物が海から陸へ進化するわけにはいかなかったように、急激な変化は滅亡しかもたらさない」
『炎』は哀しそうに笑ってみせた。
「だから、物質文明から精神文明に移行しようとする世界は、その破滅を防ぐため、その中に生きる者の中から、必ず『VAKU』を産み出すの」
「VAKU……って、あの……夢を食べるばく、と同じ?」
「ああ、ここにはそういう話が伝わっているのね」
『炎』はほっとしたように呟いた。これから話すことの面倒さを少しでも減らせる、そう思ったようだ。
「そうなの。正常なVAKUは、急激な精神文明への移行を食い止める。石が柔らかい、空気を丸められる、そういった発想を、あなた達の言う『夢』として体に引き込み、VAKUだけが持っている放出口から世界の外へ出してしまう。全部、じゃないわよ。世界が一気にひび割れてしまわないように、ほんの僅かな『夢』を残して、ね。そうして、ゆっくり世界を変えていけるようにするの。でも……」
一瞬、『瞳』の方に視線を投げて、
「ここは今にも弾けそうになっている。世界を作っている『記憶』がひどく緩んでいて、あちらこちらに穴が開いている。もっとひどいことに、……わたし達にとって、わけがわからないことに、VAKUは『記憶』を引き込み続けているみたいで、その世界の穴から、時間を越えてまで『記憶』を貪ってしまっている」
『炎』は考え込んだ目の色になった。
「それがどうにもわからない。……VAKUは、なぜ、ここの『記憶』をちゃんと処理しないんだろう。『記憶』をどんどん引き込んでいるのに、どうしてそれを放出しないんだろう?」
「方法を……知らないんじゃないの?」
鹿子のことばに『炎』は首を振った。
「そんなことはあり得ない。わたし達がこの役目のためにいるのと同様、VAKUはそのためにここにいるはずだもの。それこそ無意識にでも処理出来るはずなのに………それができないのは、VAKUの構造に何か問題があるのか、それとも、ここがVAKUの介入を許さない別のものに支配されているのか……。でも、構造に問題が起こったのなら、なぜ改善しないのか…そのままでいることはVAKUにとっても決して楽なことではないはずだし」
「VAKUにとっても楽じゃない?」
どきりとした。
「それって………苦しい、ってこと?」
「まあ…ね。本来は『記憶』……それこそ、悪夢に近い『記憶』を引き込むのも、放出できるからだし………放出できない『記憶』はVAKUの体の中に溜まっていくばかりだから……かなり苦しいはず……」
鹿子の脳裏に、いつもだらだらと寝そべってばかりいて、ろくろく動こうともしなかったすすむの姿が浮かんだ。それは今まで、毎日のように浮気相手といちゃいちゃしているせい、とばかり、鹿子は思っていたのだが。
「すすむ……」
「『炎』」
「うん?」
鹿子は唐突に声をかけてきた『瞳』を見上げた。『炎』の話に夢中になって、ついついその存在を忘れていたが、陰り始めた陽のせいだろうか、彼はひどく薄っぺらく見えた。
「時間を取り過ぎた。VAKUが『記憶』を引き込んでいる」
「む!」
はっとしたように立ち上がる『炎』、その後ろで『瞳』はますますゆらゆらと現実感を無くしていく。つられて立ち上がった鹿子は、『瞳』がそのまま風景に溶けいるのに目を見開いた。
「先に行くぞ……ひどくまずい……誰か『記憶』を流し込んだ奴がいる………実体化しきってる……『アンモナイト』だ」
「わかった」
『瞳』が姿を消すのと同時に『炎』が走り出した。うろたえて後を追う鹿子に、『炎』がちらりと振り返り、短く言った。
「来ない方がいい」
「どうしてよっ、向こうには、咲子やすすむがいるのよっ」
追いすがって声をかけると、相手は惑うような表情になって呟いた。
「だから」
「だから……?」
あ、と鹿子は声にならない叫びを漏らした。
さっきの『炎』の話の中で、彼女は不良なNAKUの処理をする、と言っていた。
もし、すすむがそのVAKUであったなら。
姿を消した『瞳』や走り続ける『炎』が狙うのは。
「だめ……行かないで!」
鹿子は絶望的な叫びを上げた。




