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「んじゃ…ね。とりあえず、気をつけてよね」
「はあい、わかってまあす……物わかりいいだろ、ぼくって……恋人の事なら……夢だって本気にしてやるんだもん」
半開きのドアの隙間から、にこにこ笑って返事したすすむに、鹿子は大きく深い溜め息をついた。
あの後、すすむのことばの意味を尋ねようとした鹿子に、いきなり気分が悪くなったと訴えてすすむはトイレに駆け込み、実際に吐くや熱を出すやで朝まで過ごした。合間合間に、起こった出来事について説明はしたものの、すすむが本気にするはずもなく、鹿子の質問に答える様子もなかった。朝日が部屋に差し込むと、さすがに奇妙なことを口に出すのも今更ながらという気がして、それでも一応、昼と夜の食事を作り、鹿子はすすむの部屋を出た。
「鹿子ー」
「なによ」
「また、御飯、作りにきてよねえ…」
「あんたって……奴は……」
はいはい、と首だけ動かして返事にして、鹿子は疲れた足取りで家に帰った。
「ただいまあ………」
「おかえんなさい。すすむ君、どうだった?」
玄関に出て来た母親が無邪気に尋ねるのに、のろのろと靴を脱ぎながら応える。
「ん、もう大丈夫だからって……」
「ほんと、すすむ君にはお世話になりっぱなしだから…」
「あのねえ、お世話してるのはこっちなの。ったく、すすむがいつあたしの世話を焼いてくれたっていうのよ」
疲れているのも手伝って、つい母親に絡むと、相手は一瞬顔を強張らせた。が、すぐに、
「まあ、そういうもんじゃ……大体、受験の時だって、すすむ君がいろいろ教えてくれたからでしょう?」
「まあ………あいつ……頭はいいから……」
鹿子は仕方なしに応じた。立ち上がり、伸びをしながら、
「シャワーでも入って、寝ようっと」
「あら、咲子ちゃんと約束してたんじゃなかったの?」
母親がきょとんとした顔になって、思い出した。
そう言えば、友人と映画を見に行く予定だった。妙なことが続いたのですっかり忘れていたのだ。
「そうだ、時間、何時?」
「もう十時十五分よ、確か十時…」
「半に待ち合わせ!」
慌ただしく二階へ駆け上がり、用意を整えて家を飛び出した。
「遅い!」
「ご、ごめんっ」
「もう少しで始まるとこだったよぉ」
待ち合わせの場所で、咲子はぷっと頬を膨らませて見せた。
「通り過ぎるのはカップルばかりだし」
「で、あたしが来てもカップルじゃないし……すみませんね、ほんと」
「いえいえいどういたしまして。ほんとなら、すすむ君と一緒のはずでしょ」
「あいつなら、駄目よ」
「また?」
「うん」
「苦労するわよね、あんたも。いい加減に別れたら?」
「そうしたいんだけどね…」
鹿子は肩を竦めて咲子の後に続いた。入り口で券を買いながら、咲子が振り返る。
「そういえばね、さっき凄いカップル見たよ。美男美女だけど、なんか妖しくってさ」
くすくす笑って首を竦める。
「ほうら。また咲子の病気が始まった」
「趣味に徹した、と言ってほしい」
美男美女というなら、と鹿子は昨夜の二人を思い出した。あれほどきれいな組み合わせもそうそういないだろう。
(きれいなだけじゃない、お互いがお互いを大事にしている感じでよかったな、本当に相手がいないと生きられないっていう感じで………やっぱ、ちょっと憧れるものね、ただ一人の運命の相手、とかさ…)
心の中で呟いて、すすむのことを思い出す。「何の事だ?」厳しい声……まるで、大人の男の人のような。そして、真っ青になっていた顔。あの一瞬だけなら、惚れ直していたのにな、と思う。
(でも、なんであんなに驚いたんだろう?)
「鹿子、鹿子、始まったよ」
「う、うん」
咲子に促されて、鹿子は画面に意識を戻した。
主人公らしい青年、さえない風を装っているが元々見栄えのいい役者を使っているので、どうして彼が周囲に認められないのか、よくわからない。それから、相手役の女性。優しい仕草だが、ところどころに険悪なものが見えて、そのうち主人公を裏切りそうだ。
そんなことを考えていると、二人が薄暗いトンネルで揉め出した。
(あ……まずい……)
鹿子は眉をしかめて、画面から視線を落とした。
だが、物語は一番展開がショッキングな所に来ているらしく、どうしてもそちらに目が引き寄せられる。画面の中で暗闇とオレンジの明かり、人が蠢く白い点がちらつく。
微妙な息苦しさを感じ始めた。
「鹿子……? やっぱり駄目……?」
「……ごめんね……ちょっと外に出てる」
事情を知っている咲子が察してくれた。
「うん……こんなシーンあるなら、やめときゃよかったね」
「いいよいいよ」
ゆらゆらする足下を何とか踏ん張りながら席を離れる。
なぜかは知らない、いつ始まったのかも覚えていないのだが、鹿子にはどうしても見ていられない光景というものがある。
それは、暗闇にオレンジや白が動く光景だ。
その光景を見ていると、妙に息苦しくなって目を開けていられない。
だから、遠足などでバスでトンネルを通ったりする時も、いつも目を閉じ、ひたすらトンネルが過ぎてくれるのを待ったものだ。
(変な癖、だよね)
ロビーに出てジュースを買った。
ソファに腰を降ろして溜め息まじりにストローをくわえる。
強いて言えば、その時の感覚は『怖い』という気持ちに近い。
でも、なぜ怖いのか、何が怖いのか、と聞かれると、どうにも答えられない。
それはお化けや幽霊といったはっきりしたものでないだけに、考えることすら不安になる。
「ふう…」
咲子に悪いことをした。
吐息をついて目を上げ、鹿子は体を凍りつかせた。
正面の観客席からドアを開いて出て来る二人、見間違えるはずもない、あの『炎』と『瞳』だ。
(どうしてこんな所に)
今は真昼、羨望するように周囲が振り返っているから、鹿子一人の妄想でもないのだろう。
食い入るように二人を見ていた鹿子は、突然肩を叩かれて飛び上がった。




