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「ん……さむ……」
目覚めたのは夜中だった。
慣れない姿勢とソファの固さで、中途半端に眠ったらしい。
薄暗がりに目を凝らすと、時計の針が三時を指しているのがわかった。
「やだな……変な時間に目を覚ましちゃった……」
鹿子はもう一度眠ろうとしたが、妙な経験をしたせいか、ひどく喉が渇いてなかなか眠れない。
冴えてくるばかりの目に、仕方なしに体を起こす。
「冷蔵庫にジュース、あったよね……」
体に巻き付けた毛布を胸の所で抱え込みながら、鹿子は少し恨めしく、閉ざされた隣室のドアの方を見やった。が、ぎゅっと唇を噛み、
「はん! すすむがいたところで、どうせ何の役にも立たないわよ、だ」
不安をすすむへ罵倒に転じ、それでも毛布をしっかり体に巻き直しながら立ち上がり、そろそろと流しの隣の冷蔵庫に向かう。
真っ暗だと思った部屋の中は、目が慣れてくるに従って、白く明るく見えてきた。冷蔵庫の白さが、そこここに潜む陰の中で、唯一現実に存在しているような頼もしさだ。
早足で近寄って冷蔵庫の扉を開けようとした鹿子は、扉に黒い物が動くのにぎょっとした。しばらく息を詰めて見守り、ようやく、それは自分の手が影を落としたのだ、と気づく。
だが、そこで、鹿子は新しい不安に取り憑かれた。
冷蔵庫の扉に影が動く。
「え…?」
すすむの部屋はマンションの十五階、周囲には遮るような建物はない。ましてや、これほど明るく室内を照らすようなものは……。
その先を考えつく前に、怖いもの見たさの大胆さ、窓の方を振り返った。
白い、大きな月。
窓全体を覆うように広がった、表面に落ちた影さえはっきりと見えるほどの大きな月が、カーテンを引き損ねた窓の外に浮かんでいる。
魅入られたようにその月を見ていた鹿子は、その尋常でない大きさに気づくと同時に、表面でぬらりと動いた影に思わず悲鳴を上げた。
月が鹿子を『覗き込んでいる』。
「ひ…」
後ずさりした足が毛布に絡み、派手に転がった。その鹿子を、まるで追いかけてくるように、月の表面の影が集まり移動してくる。
それと同時に、月はますます巨大になった。今や窓が全て、真珠色に光る輝きで満たされ、部屋の隅々がくっきりと浮かんだ。
「こ、れ…っ」
(月じゃない!)
床に転がっても、月から目を離せないままの鹿子の目の前で、巨大な月はあっという間にとろりと形を変えて蕩けていく。滴りが窓の外から、鹿子を探すようにひたひたと打ち寄せる波のように、窓ガラスにへばりつき始める。
「…、す、すすむ!」
一瞬目を閉じ、一声高く叫んで、呪縛から逃れた。毛布を蹴散らし、つんのめるように隣室のドアを開く。
情けない浮気男でも、こういう時ならばいないよりまし、その思いは見事に裏切られた。
「うわっ…」
窓が開け放たれていた。
いつの間にか、蕩け出した月が容赦なく部屋の中へ流れ込んでいる。
白く光る流れが部屋の中央で噴水のように噴き上がり、輝く繭の玉となっていて、中央に空色のパジャマを着たすすむが包み込まれているのが、うっすらと透けて見える。
真珠の繭の中に細い体の美少年、確かにこの上なくきれいな絵画だったが、異常な光景は鹿子の恐怖心を弾けさせた。
「な、に、やってんのよっ! 人が怖い思いしてんのにっっ!」
(こんなところで爆睡っ?)
「こんのぉっ!」
我を忘れて鹿子は繭に突き進んだ。床にのたくっている流れも無視して踏みつけた。見えているほど物体化しているわけではなく、ドライアイスの霧のようなものだとわかった瞬間、なおさら逆上した。
「こんなもんで、よくもあたしを怖がらせてくれたわねっ。どこのどいつか知らないけど、すすむに何してんのよっ。一応今夜はあたしがいるのよっ。断りもなしに手出しして、無事にすむと思ってんのっ!」
人でないことはわかっている、それでも、すすむのいつもの浮気相手と同レベルに扱って、鹿子はずんずん霧の中を突き進んだ。その先で、さすがに繭をどうしようかと思ったが、えい、とばかりに手を突っ込むと、霧はやんわり鹿子を受け入れる。
「もうもうもうもう! 手間ばっかりかけさせてっっっ!!」
怖さを数倍勝る怒りにまかせ、生ゴミの中の落とし物を拾うようなやけっぱちな仕草で霧をかき回し、すすむの手を探り当てる。
「いいかげんにしろっての!」
掴むや否や自分の方へ引っ張り寄せた。
「う…」
微かに呻いたすすむが、粘りつくような霧を引きずって近寄ってくる。
どうにか繭の外縁まで引き寄せると、そこでいきなり重力が戻った。一気にすすむが体の上に落ちてくる。
「きゃうっ!」
床の上、すすむに押し倒されたような状況でこけた鹿子の前で、すすむを失った繭がするすると縮んでいった。
「ちょ…」
やがて、それは録画映像を逆回しにしていくような動きで、窓の外へと後退し、浮かんでいる巨大な月へと吸い込まれ、そうしてその月さえ徐々に小さくなって星の一つのようになり、みるみる消えてしまう。
「何よ……今の……」
鹿子は開いたままの窓を見つめた。
得体の知れない霧。
(昨日見たあの恐竜を形作ったものとそっくりだ)
けれども、あれが夢でなく実際にあったこととして、今あったことも幻想じゃないとして、あの霧がどうして鹿子を襲ってくるのだろう?
昨日、鹿子が目撃してしまったせいか?
(いや、違う)
鹿子は気づいた。
あの霧は、鹿子を襲ったんじゃない。
どちらかというと、すすむをどうにかしようとしていたのだ。
鹿子は自分の胸の上で、今あったことも知らぬ気に、相変わらず気持ち良さそうな寝息をたてているすすむを見た。
どこといって、変わった様子はない。
けれど、なら、どうして、すすむが狙われるのだろう。
『VAKUなら「記憶」が見逃すはずはないな』
ふいに、頭の中に、あの『瞳』とかいう青年のことばが蘇った。
(VAKU?)
鹿子はもう一度、首を少し起こしてすすむを見た。
倒れたときの姿勢のまま、自分が両腕で庇うように相手を抱えているのに気づき、慌てて腕を解く。起きようとして身動きし、思いのほか、すすむが重いのに溜め息をついた。ちょっとやそっとでは動かない。細身に見えても男か、女の基準と重さが違う……そう考えて、鹿子は首を傾げた。
(あれ……何だろ……あたし……前にもこうしてたことがある?)
覚えている限りでは、幼なじみとはいえ、すすむにここまで接近されたことはないはずだ。すすむの回りには、いつも年齢を問わず女が群がって垣根を作っていたし、鹿子の食事を食べに来ている時も、いつも食べることだけに熱中していたすすむと、甘い会話があろうはずもない。
なのに今、こうしてすすむを抱えている状況に、遠い光景を思い出すような気がする。
(そうだ……すすむを抱えていたんじゃなくって……すすむに抱えられて……)
つう、となぜか冷たいものが心を走った。どこへとも知れぬ闇に呑まれていくような不安感。それは、なぜすすむが鹿子を抱えていたのだろう、と考え始めると、どんどん大きく広がった。
(何? ………不安? ……どうして……?)
「う…あ……あれ……? ……鹿子…」
鹿子のパニックは、ようやく目を覚ましたすすむのぼんやりした呟きで遮られた。のそのそと体を起こし、自分の体の下にいる鹿子を覗き込んだすすむが、まだ夢を見ているような声で言う。
「えー……鹿子……何……えーと……この……状況は…………ぼくが………襲ったのかな………あはあ……まさか……」
だが、すすむののんびりした様子は、次の鹿子のことばで一変した。
「すすむ…」
「はあい……どうしても……っていうなら……ベッド……あいてる……けど……」
「あたし、前に、あんたと、『こういう状況』に、なったこと、ある?」
びく、とすすむが体を強張らせ、鹿子はその後しばらく忘れない光景に出くわすことになった。
「何の事だ?」
「すすむ……?」
歯切れのいい厳しいことばを返したすすむの顔は、真っ青だった。




