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しばらくためらっていたが、鹿子は戻って、すすむの家のベルを鳴らした。
部屋の中で人が動く気配がする。さっきから二時間たっている。
うまくいけば、厄介な状況は終わっているはずだ、と考えて、鹿子は忌々しい気持ちになった。
(どうして恋人のあたしが、すすむの浮気相手に気を遣わなくちゃならないのよっ)
心の中で罵倒してはみたものの、あれほどのタンカを切って出て来たのに、のこのこ引き返さざるを得なかったのは、どうにも格好がつかない。
かと言って、あの霧の恐竜が消えて行った駅の方ヘは行きづらい。
ドアがゆっくり開いていく。
「あれえ……鹿子……」
すすむはトレパン上下、鹿子を見つけると露骨に嬉しそうな顔になった。
「思い直してくれたんだ。よかった………今、彼女が帰ったところで、お腹が減ってお腹が減って……」
白々しく言いかける相手に、ぎりぎり鳴りそうな歯をかろうじて開いた。
「わかった。何でも作る。その代わり、一晩泊めて」
「うん……いいけどぉ………ぼく、今夜はもう『ダメ』だよ?」
ぶっちん。
鹿子の血管が一本、それも思い切り太いのが音をたてて切れた。
「あんたって奴は…」
「え……なあに…」
鹿子の低いつぶやきを聞き損ねて、首を伸ばしたすすむの頬に、派手なビンタを食らわせて、鹿子はさっさと部屋に入った。
「いたーい、いたーい……」
「勝手に痛がってろ! 電話、借りるわよ」
「ケータイ持ってるじゃんー」
「あんたのとこの、電話が、使いたいの!」
玄関で頬を押さえて踞るすすむを放置して、勝手知ったる人の家、受話器を取り上げ自宅の番号を回した。
夜の九時を過ぎている。鹿子の母がすぐに出た。
「あ…おかあさん? あのね、すすむが熱出したの……うん、お医者さんには診てもらったけど、すすむの両親、今日もいないんだ。熱がまだ下がりそうにないし、一晩、すすむの看病する」
言い切った鹿子に母親は反対しなかった。
昔からそうだ。鹿子が覚えている限り、鹿子の両親はすすむに甘い。すすむと一緒にいれば安心、そういつも言っている。
小さな頃はそれでもよかったのだろうが、もう十六歳、『危ない』年齢なのを理解していないのだろうか。
「ねえ、鹿子、ぼく、ピラフがいいな」
「すすむの本当の姿を知ったら、とてもじゃないけど、許さないよねえ」
玄関での一発もどこへやら、へらへらと背後に寄って来たすすむに、鹿子は溜め息をついた。
「ねえ、ピラフ」
「わかった」
「ねえ…」
「わかった、って言って…」
「どうして急に戻って来たの?」
しつこい声にイライラして振り返った鹿子は、真正面から唐突に尋ねられて硬直した。もう少しで唇が触れそうな近さに、すすむの顔がある。
ふわふわした猫っ毛、薄い茶色の目、男にしては色白で細い体つき、どちらかというと、女にもてるというよりは、男の方に好かれそうなタイプなのだが、男が寄ってきたことはない。
軽く唇を尖らせて目を見開き、
「ぼく、本当に飢え死にしなくちゃならないかと思って、ぞっとしたよ」
「あんたは一回死んでみた方がいいわよ」
言い放って相手の側を擦り抜け、キッチンに立つ。冷蔵庫の中を見て、何もなさに溜め息をつく。
「……玉ねぎと………ソーセージ……かぁ」
手早く具材を切って炒めにかかかる鹿子に、すすむが寄ってくる。
「ひどいなあ………でも……どうして、さ」
「信じない」
「信じるよぉ…鹿子の言うことだもん」
「……わかった」
珍しく真面目な顔になったすすむに、鹿子はピラフを作りながらぼつぼつと、さっきまでの出来事を話した。
「ふうん……」
「夢でも見たと思ってるんでしょ、いいわよ、好きな風に思いなさいよ。でもね、とりあえず、今夜は駅の方へ行きたくないの」
ふる、と無意識意に体が震えた。
「明日の朝になったら出て行くわ」
「えー、いいじゃない、のんびりしてってよ、日曜だし、学校も休みだし……」
「あたしが一日いれば、好きな物が食べられるって? あんたね、いい加減になさいよ。あたしだって、ずっとあんたの食事を作れるわけはないんだぞ」
「えー……どうしてさ」
すすむは心底意外なことを聞いた、という声で、背中を向けた鹿子に繰り返した。
「どうして……って」
思わず振り返る。
きょとんとしているすすむに言い聞かせるように、
「いつまでも幼なじみのお友達、やってるわけにはいかんでしょうが。それなりに、自分に似合った恋人を見つけて…」
ずきり、と鹿子の胸の奥が小さく痛んだ。
嘘だ、とどこかで声がする。
すすむが誰か他の女の人といるたびに寂しくて悲しくて、自分がどうしようもなく惨めになるのを知っている。
だからこそ、とも鹿子は呟く。
十六歳だし、そろそろ『ままごと』は卒業した方がいい。長い夢を終わらせて、お互いにそれぞれの道を歩き出した方が…。
それらを口の奥に呑み込んで、鹿子は続けた。
「あんたもあたし以外の人が作った御飯、きちんと食べられるようにならなきゃ、お嫁さんももらえないんだぞ」
「そんなことないよ。鹿子がお嫁さんに来ればいいんだ」
鹿子の気持ちを気づきもしない能天気な声ですすむが応えた。ぎくりと全身を凍らせる鹿子にあっさり続ける。
「そしたら、ぼくは、毎日鹿子の御飯が食べられる」
「あ、あたしはっ!」
鹿子の脳裏に、すすむのベッドで寝そべる女達が次々浮かんだ。手にしていたフライパンを持ち上げ、くるりと振り返る。さすがに身を引いたすすむの目の前、ダイニングテーブルにフライパンごとピラフを置く。
「好きなだけ食べればいい。でも、もう、今夜はほんとに口も聞きたくない。あんたみたいな、無神経で浮気性でいい加減な男と付き合うのは、金輪際ごめんだからねっ。あたしは寝るっ。そこのソファ貸してっ。で、ピラフ食べたらさっさと出て行って!」
「あ、でも、ベッドの方が柔らかくてあったかいよ」
「………ばかっっっっ!!」
そのとたん、零れた涙が自分でも信じられなかった。拭うのさえ悔しくて、隣室から毛布を一枚もってきて体に巻き付けるや否や、ダイニングの端のソファですすむに背を向けて横になる。
「鹿子…」
相変わらず罪悪感のない、ひょうひょうとした声ですすむが呼びかける。鹿子は体を固くして応えない。
「寝たの? 鹿子……」
返事がないのに諦めたのか、すすむは、もそもそとフライパンから直接ピラフを食べ始めたようだった。カチカチとスプーンが当たる音が、まるで子守歌のように規則正しく響いている。
その音に誘われるように、鹿子はいつの間にか眠りに落ちていた。