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VAKU  作者: segakiyui
2.覗き込む月
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1

 しばらくためらっていたが、鹿子は戻って、すすむの家のベルを鳴らした。

 部屋の中で人が動く気配がする。さっきから二時間たっている。

 うまくいけば、厄介な状況は終わっているはずだ、と考えて、鹿子は忌々しい気持ちになった。

(どうして恋人のあたしが、すすむの浮気相手に気を遣わなくちゃならないのよっ)

 心の中で罵倒してはみたものの、あれほどのタンカを切って出て来たのに、のこのこ引き返さざるを得なかったのは、どうにも格好がつかない。

 かと言って、あの霧の恐竜が消えて行った駅の方ヘは行きづらい。

 ドアがゆっくり開いていく。

「あれえ……鹿子……」

 すすむはトレパン上下、鹿子を見つけると露骨に嬉しそうな顔になった。

「思い直してくれたんだ。よかった………今、彼女が帰ったところで、お腹が減ってお腹が減って……」

 白々しく言いかける相手に、ぎりぎり鳴りそうな歯をかろうじて開いた。

「わかった。何でも作る。その代わり、一晩泊めて」

「うん……いいけどぉ………ぼく、今夜はもう『ダメ』だよ?」

 ぶっちん。

 鹿子の血管が一本、それも思い切り太いのが音をたてて切れた。

「あんたって奴は…」

「え……なあに…」

 鹿子の低いつぶやきを聞き損ねて、首を伸ばしたすすむの頬に、派手なビンタを食らわせて、鹿子はさっさと部屋に入った。

「いたーい、いたーい……」

「勝手に痛がってろ! 電話、借りるわよ」

「ケータイ持ってるじゃんー」

「あんたのとこの、電話が、使いたいの!」

 玄関で頬を押さえて踞るすすむを放置して、勝手知ったる人の家、受話器を取り上げ自宅の番号を回した。

 夜の九時を過ぎている。鹿子の母がすぐに出た。

「あ…おかあさん? あのね、すすむが熱出したの……うん、お医者さんには診てもらったけど、すすむの両親、今日もいないんだ。熱がまだ下がりそうにないし、一晩、すすむの看病する」

 言い切った鹿子に母親は反対しなかった。

 昔からそうだ。鹿子が覚えている限り、鹿子の両親はすすむに甘い。すすむと一緒にいれば安心、そういつも言っている。

 小さな頃はそれでもよかったのだろうが、もう十六歳、『危ない』年齢なのを理解していないのだろうか。

「ねえ、鹿子、ぼく、ピラフがいいな」

「すすむの本当の姿を知ったら、とてもじゃないけど、許さないよねえ」 

 玄関での一発もどこへやら、へらへらと背後に寄って来たすすむに、鹿子は溜め息をついた。 

「ねえ、ピラフ」

「わかった」

「ねえ…」

「わかった、って言って…」

「どうして急に戻って来たの?」

 しつこい声にイライラして振り返った鹿子は、真正面から唐突に尋ねられて硬直した。もう少しで唇が触れそうな近さに、すすむの顔がある。

 ふわふわした猫っ毛、薄い茶色の目、男にしては色白で細い体つき、どちらかというと、女にもてるというよりは、男の方に好かれそうなタイプなのだが、男が寄ってきたことはない。 

 軽く唇を尖らせて目を見開き、

「ぼく、本当に飢え死にしなくちゃならないかと思って、ぞっとしたよ」  

「あんたは一回死んでみた方がいいわよ」

 言い放って相手の側を擦り抜け、キッチンに立つ。冷蔵庫の中を見て、何もなさに溜め息をつく。

「……玉ねぎと………ソーセージ……かぁ」

 手早く具材を切って炒めにかかかる鹿子に、すすむが寄ってくる。

「ひどいなあ………でも……どうして、さ」

「信じない」

「信じるよぉ…鹿子の言うことだもん」

「……わかった」

 珍しく真面目な顔になったすすむに、鹿子はピラフを作りながらぼつぼつと、さっきまでの出来事を話した。

「ふうん……」

「夢でも見たと思ってるんでしょ、いいわよ、好きな風に思いなさいよ。でもね、とりあえず、今夜は駅の方へ行きたくないの」

 ふる、と無意識意に体が震えた。

「明日の朝になったら出て行くわ」

「えー、いいじゃない、のんびりしてってよ、日曜だし、学校も休みだし……」

「あたしが一日いれば、好きな物が食べられるって? あんたね、いい加減になさいよ。あたしだって、ずっとあんたの食事を作れるわけはないんだぞ」 

「えー……どうしてさ」 

 すすむは心底意外なことを聞いた、という声で、背中を向けた鹿子に繰り返した。

「どうして……って」

 思わず振り返る。   

 きょとんとしているすすむに言い聞かせるように、

「いつまでも幼なじみのお友達、やってるわけにはいかんでしょうが。それなりに、自分に似合った恋人を見つけて…」

 ずきり、と鹿子の胸の奥が小さく痛んだ。

 嘘だ、とどこかで声がする。

 すすむが誰か他の女の人といるたびに寂しくて悲しくて、自分がどうしようもなく惨めになるのを知っている。

 だからこそ、とも鹿子は呟く。

 十六歳だし、そろそろ『ままごと』は卒業した方がいい。長い夢を終わらせて、お互いにそれぞれの道を歩き出した方が…。

 それらを口の奥に呑み込んで、鹿子は続けた。 

「あんたもあたし以外の人が作った御飯、きちんと食べられるようにならなきゃ、お嫁さんももらえないんだぞ」

「そんなことないよ。鹿子がお嫁さんに来ればいいんだ」

 鹿子の気持ちを気づきもしない能天気な声ですすむが応えた。ぎくりと全身を凍らせる鹿子にあっさり続ける。 

「そしたら、ぼくは、毎日鹿子の御飯が食べられる」

「あ、あたしはっ!」

 鹿子の脳裏に、すすむのベッドで寝そべる女達が次々浮かんだ。手にしていたフライパンを持ち上げ、くるりと振り返る。さすがに身を引いたすすむの目の前、ダイニングテーブルにフライパンごとピラフを置く。

「好きなだけ食べればいい。でも、もう、今夜はほんとに口も聞きたくない。あんたみたいな、無神経で浮気性でいい加減な男と付き合うのは、金輪際ごめんだからねっ。あたしは寝るっ。そこのソファ貸してっ。で、ピラフ食べたらさっさと出て行って!」

「あ、でも、ベッドの方が柔らかくてあったかいよ」

「………ばかっっっっ!!」

 そのとたん、零れた涙が自分でも信じられなかった。拭うのさえ悔しくて、隣室から毛布を一枚もってきて体に巻き付けるや否や、ダイニングの端のソファですすむに背を向けて横になる。

「鹿子…」

 相変わらず罪悪感のない、ひょうひょうとした声ですすむが呼びかける。鹿子は体を固くして応えない。

「寝たの? 鹿子……」

 返事がないのに諦めたのか、すすむは、もそもそとフライパンから直接ピラフを食べ始めたようだった。カチカチとスプーンが当たる音が、まるで子守歌のように規則正しく響いている。

 その音に誘われるように、鹿子はいつの間にか眠りに落ちていた。


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