2
か、と画面の一つが今までより明るく激しい光に満ちた。
そちらを振り返った鹿子の目に、『記憶』の蛇に呑まれるように、光の中に溶けていく『炎』と『瞳』の姿が映った。より強い一閃、そして、不意に周囲の壁は光景を失った。
「『炎』………『瞳』……」
それが何を示すのか、気づいて鹿子は呻いた。思わず知らず、責めるようにすすむを振り返る。
その視線を受け止めたすすむは、三度、今度はかなり近くで音が響き、建物が揺れるのに、一瞬目を閉じた。
「鹿子を……殺したくないな」
ぽつりと零れたすすむの声に、いつもの能天気さが戻っていた。
目を開いたすすむは、限りなく優しい声で鹿子に囁きかけた。
「放出口を取り戻す……でも、その時、鹿子はある事を思い出すはずだ。どんな事を思い出しても、いいかい、ぼくが、今まで、ここに居たことを覚えていてね」
「何の…」
尋ね返したかのこの唇に、すすむは慌ただしく唇を重ねた。
まるで、それが何かの呪文でもあったかのように、鹿子はすぐに意識を失った。
暗闇に鹿子は一人立っている。
(真っ暗だあ……)
呟いた声がどことも知れぬ闇に吸い込まれていく。
(やだなあ、気持ち悪いなあ……)
軽く胸を抱いて、自分が浴衣を着ているのに気が付いた。
白地に朝顔が赤や青の花を開いている。くるくる巻いた蔓が鮮やかな緑で描かれていた。
自分の姿に気が付くと、周囲に明かりが灯った。
赤やオレンジの提灯、広場の真ん中には踊りの中心として舞台が設えられ、そこに白いライトが当たっている。そこを少し離れて囲むように、綿菓子やりんご飴などの屋台が出ていた。
(お祭りだあ……夏祭り)
鹿子は、はしゃいで走り出した。
行き交う人々は思い思いの面を被っている。狐の面、おかめの面。提灯の光に面が揺れて、ざわめきが波になる。
ふと、迷子になった、と感じた。
母親と一緒に来たのに、自分一人ではしゃいで、母親とはぐれてしまったのだ。
慌てて周囲を見回して声を上げる。
(お母さん! お母さん!)
きょろきょろうろうろどれぐらい走ったのだろう、ようやく、屋台の端の方、向き合って立つ父母を見つけた。
ほっとして駆け寄っていくと、はっとしたように母が駆け寄り、鹿子を抱き締めた。
(探したの? ごめんね)
謝る鹿子に母は首を振った。鹿子の手を引き、にぎやかな祭りから少し離れた草むらへ歩いていく。
(あれ、お父さんは?)
さっきまでいたね、と言いかけて、鹿子は母に強く手を握られた。無言でぐいぐい自分を引っ張る相手に、少し怖くなって呼びかける。
(お母さん? お母さん……お母さんってば!)
くるっ、と母が振り返った。顔にいつの間にか狐の面を掛けている。
ふざけてないで、と笑いかけた鹿子を、母はいきなり暗がりへ押し倒した。驚く間もあらばこそ、どんと首に両手を置かれ、そのまま強く締められる。
(お……かあ……)
もがいて手を振り、引っ掛かった指先が母の顔の狐の面をはねた。
ぽとりと落ちた面の後ろは般若、ごうごうと逆巻く水音が響く耳元で泣くような声が訴えた。
「お父さんが帰らないのは、お前が懐かないせいだ!」
閃光のように、全ての理解が鹿子の心を走った。
その頃、父はあまり家に帰って来なかった。また、帰って来てもにこりともしない父に、鹿子はどうにもなじめなかった。三歳頃から父親を疎み出し、六歳頃には他人のような気持ちで接していた。
だが、母は父を愛していた。仕事にのめり込む父が家によりつかないことを悩み、それを鹿子のせいだと考えた。
疲れ切り、悩み抜いた母は気分転換に鹿子を祭りに連れていき、そこでよその女と笑い興じている父を見たのだ。
この子さえいなければ。
母はそう思ったのだ。
(あたしが……いなければ……いい?)
重い絶望が、首を締めている手よりも強く、鹿子の胸を押し潰した。伸ばした手が何も掴まず落ちてくるのを、どこか遠く、人ごとのように感じ始めた時、幼い声が耳に届いた。
「どうしたの、おばちゃん」
はっとした鹿子の母が体を起こし、鹿子の首に置いた手を緩める。それでもすぐに呼吸が再開できず、彼女は倒れたまま、本能的な喘ぎを繰り返した。
その時。
鹿子は肉体的なものと精神的なもの、両方の生死を彷徨っていた。
自分は不要な存在なのだ。
幼い心にそれだけははっきりと理解できた。
必死に空気を求める体を心が無理に押さえ込む、もう、生きる必要はないのだ、と。
その呟きを、声の主は聞いたようだった。
次の瞬間、鹿子は強く抱きかかえられていた。小さな手、小さな体全身で包まれて、鹿子は静かな囁きを聞いた。
「違う……キミはいらない人間じゃない。忘れて……忘れるんだ。これはつまらない『記憶』だよ」
だが、鹿子は死へと近づきながら反論した。
母に殺されかけたのだ、どうして忘れていられよう、と。自分を産んだ人に拒否されたことをどうして忘れてしまえるのだ、と。
声はその鹿子の悲鳴をしっかり受け止めた。やはり静かな調子で、
「じゃあ、ぼくが魔法をかけてしまおう……キミはこのことを忘れてしまう………『記憶』が蘇ることもない……ぼくがその『記憶』を食べてしまったから……ぼくはね……」
声がくすりと低く笑った。
「バク……だからね」




