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一瞬、三人はそれぞれに音の方向を探った。
『瞳』の力に翻弄されていたすすむがふわりと塔の中で回り、ゆらゆら水底に沈むように下の方に降りてくる。
それに気づいて、鹿子は『炎』と『瞳』の間を駆け抜け、光の塔に身を寄せた。
「すすむ……すすむ……大丈夫?」
心配は隠す余裕がなくて声に溢れた。
光の網の向こう、覗き込む鹿子に向かって、崩れるように座り込んでいたすすむが両手を支えにして這い寄ってくる。
いつかの夜の『炎』と『瞳』のように、光を挟んで、鹿子とすすむは向かい合った。
「鹿子……」
いつものすすむとは全く違った深い響きの声が鹿子を呼んだ。
「大丈夫か? 何もされなかったか? ……何も思い出さなかったな?」
大丈夫、と答えかけて、鹿子は気づいた。すすむの目を見つめ返し、ゆっくりと尋ねる。
「思い出さなかった、って……すすむ、あたしが小さい頃の記憶がないってこと、どうして知ってるの?」
すう、とすすむの顔が青ざめた。唇を噛む、その仕草が小刻みに震えている。
どぅん。
また、遠くで音がして、部屋が揺れた。
「『瞳』!」
「ああ」
『炎』に命じられるまでもなく、『瞳』は手を振って、周囲の壁に細工を施したらしい。
見る見る透き通っていく壁に、四方の光景が浮かんだ。
思わずそちらを見た鹿子の口から、小さな叫びが上がる。
それもそのはず、壁に映し出された風景は、鹿子のよく知っている場所でありながらそうではない、奇妙なものに覆われつつあったのだ。
駅の方、商店街が並ぶ通りに大きく立ち上がったあの夜の恐竜。すすむのマンション近くの道路を縦断していく巨大な蛇の影。鹿子の家からさほど離れていない幼稚園の園庭にはぬらぬらと皮膚を光らせた爬虫類が横たわり、いつも出かけるスーパーの入口から恐ろしく太い植物の蔓のようなものがはみ出している。
そして、それら全ては、まるでこの洋館の場所を知っているかのように、画面の中をじわりじわりと近づいてきつつあった。
それはもう、霧のようにぼやけていない。むしろ、近づくにつれ、はっきりとした輪郭とそれに見合った質量や存在感を加えていく。
「どうする気だ、VAKU」
『瞳』が冷ややかな声で尋ねた。
「これほど『記憶』を実体化させては、お前も無事には済まないはずだ。お前には放出口がない。俺達を葬れても、これだけの『記憶』をお前が処理できるのか」
『瞳』のことばに、すすむが青い顔をより一層青くして項垂れた。何かを悩むように、唇を噛んだまま黙っている。
「確かに俺達は、あの中の数体を消せるだろう。だが、そこまでだ。『記憶』はどんどん漏れて来ている。お前に『記憶』を制する力はない。遠からず、この世界は破滅する」
「VAKU……」
『炎』が静かな声で割って入った。
「もう、無理だ。このままで世界を保てないのはわかっているはず……放出口を手放した時から、こうなることはわかっていたはずだ。なのに、なぜ、手放した」
すすむはなおも無言だ。
画面の中では声こそ聞こえないが、一連の化け物の出現にパニックが起きつつあった。あちらこちらで事故が起こり、逃げ惑う人々が立ちすくむ人々を蹴散らし踏みつけていく。駅の方に火の手が上がり、幼稚園では周囲の建物が園に向かって崩れ落ちた。
「VAKU……」
『炎』は絞るような、傷みを堪えた声音で言った。
「わたしはこれから『記憶』を処理しに出る。『瞳』が言ったように、数体は抑えられる。だが、そこまでだ。それ以上の崩壊は食い止められない。ただ一つの方法を除いては」
「方法があるの?」「嫌だ」
『炎』の訴えに鹿子とすすむのことばが重なった。
お互いに息を呑み、視線を合わせる。
先に逸らせたのは、すすむの方だった。
「何とかする方法があるの? それを知ってるの、すすむ」
鹿子の問いに、すすむは目を上げた。初めて見る、泣き出しそうな目の色だった。
「方法はある……VAKUが放出口を取り戻す事だ」
『炎』が最後の止めをさすように言い放ち、くるりと鹿子達に背中を向けた。
「『瞳』、行こう。もう塔は不要だ」
『瞳』が戸口へ向かう『炎』に従う。
彼らの姿が扉の向こうへ消えるや否や、鹿子とすすむを隔てていた光の網も消えた。ゆらりと危なっかしく揺れたすすむの体を支えて、鹿子はもう一度尋ねた。
「放出口を取り戻すって?」
「……嫌だ」
食い縛った歯の間から、すすむは声を絞り出した。歪めた顔を両手で覆う。
「世界なんか滅びてもいい」
「でも、すすむ!」
鹿子はまだ壁に映され続けている光景を見渡した。
『炎』と『瞳』の姿はすぐにわかった。駅の構内で破壊の限りを尽くしている恐竜達に近寄っていく。
『瞳』の姿が空に舞った。後を追うように『炎』が舞う。二人の影が重なってまばゆい光が画面を圧する。
数瞬で消えた光の中から『瞳』が出て来た、が、左手と右足がない。鹿子がそれを確認する間もなく、別の画面に二人が躍った。
一体『記憶』が消えるごとに、『瞳』の体が失われていった。それを見ながら、次の『記憶』に挑む『炎』の顔が切なく哀しく歪んでいく。
けれども二人は攻撃をやめない。
「すすむ……すすむ……」
鹿子はたまらなくなってきた。
『炎』がつぶやいたあの夜のことば、『瞳』が自分の主であると言ったあのことばに込められた、誇らしげな深い想いが胸に広がる。
大切な相手を傷つけていく、そうしていくしかできない『炎』も、『瞳』の体と一緒に自分を失っていくのが見えた。なのに、『記憶』は一向に減らない、ばかりか、ますます数を増していくようだ。
「すすむ……」
目を閉じ、固く口を結んで、すすむは何かに耐えている。
そのすすむを、必死に覗き込んで、鹿子は訴えた。
「お願い、お願いだから、もし『炎』が言ったように、あたしの中から放出口を取り戻せるなら、そうして。あたしが何かできるなら、何でもするから」
「鹿子……」
すすむが目を開いた。
鹿子を見つめる、その目の暗さが痛いほどだった。
「鹿子……ぼくは……ぼくが……畜生!」
吐くように叫ぶすすむの横顔に、女に囲まれにやついている影はなかった。




