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『炎』は鹿子をすすむのマンションから連れ出した。
鹿子が彼女について行ったのは、自分の失った記憶が戻るということもあったが、何よりも、生きているすすむに会わせる、と言った一言を信じたからだ。
「生きてはいるわ。でも、連れて帰ってもらうわけにはいかないの」
『炎』はそっけなく突き放した。
「あなたも見たでしょう。あれから調べて、この世界を別のものが支配している可能性はほとんどないことがわかったわ。ここにいるものは、とても『記憶』の共有力が強い。今まで物質というもので統一されてきたその『記憶』が、たった数人の発想の傾きで一気に精神へと雪崩込むこともわかった。だからこそ一層、不良なVAKUは野放しにできない………この世界の崩壊は波紋を広げて、もっと大きな崩壊を引き起こすでしょう。それを見過ごすわけにはいかないの。……アンモナイトを見たわよね? わかってもらえると思う」
わからない。
わかりたくもない、と鹿子は思った。
だが、今はすすむに会わせてくれるなら、何を言われてもいい。
そんな気持ちで無言でうなずいた。
『炎』はマンションの近くの通りから細い路地へ入っていった。数メートル歩いて、またより細い路地へ。次はもっと細い路地へ。
「この道……?」
「気がついた? そう、あなたの『記憶』にはない道よね」
先に立っていた『炎』が肩越しに微笑んだ。
道幅は既に人一人が塀に挟まれるようにして歩くことしかできないものになっている。いくらこの街は小道が縦横に走る場所とは言え、自転車さえも通れない道がこれほど長く続くとは思えなかった。
上方にだけ開いた空間に、いつしか煙るような月が浮かんでいる。紫ににじむ空に少しずつ星が光り始めた。
「VAKUを捕獲しておくのに、どうしてもこの世界と直接関わらない場所が必要だったのよ。すぐに処理するならいいけど、VAKUのどこに問題があるのか見つけなくてはならなかったから………もし『治せる』ならそうしたいし。この世界にVAKUなしでいろ、というのは無理な話よね。これほど『記憶』が次々侵されていく世界も珍しい」
『炎』が話すのを聞くともなしに聞きながら、鹿子はアンモナイトの報道を思い出していた。
目の前で体験し、自分が経験したことでさえ、真実だと自信が持てなくなる世界。オカルトや霊、超能力が平然と語られるのに、隣の人間が自分と違うものを見、違うことを考えているということが理解されない世界。何かを証明しようとする人に対しては、すぐに証拠が求められる。それは自分の気持ちに対してさえ、そうだ。
愛している証拠、真剣である証拠、嘘でない証拠……けれど、誰も、その証拠を信じられずに堂々巡りに落ち込んでいる、奇妙なこの世界。
(違うんだ)
鹿子はふいにそう思った。
真実は他から与えられてわかるものじゃない。自分が全ての責任を負っていることに気づいて、初めて本当のことがわかる。自分が傷つくのも怖くて、相手を傷つけるのもこわくて……そんな人間に真実が見えてくるはずがない。
ちょうど鹿子が、すすむが連れ去られてしまうまで、すすむがいる事の意味を考えなかったように。自分が抱えている問題にも気づかずに、ただすすむに答えを求めていたように。
「着いたわ」
『炎』の声に、鹿子は次第に俯き加減になっていた顔を上げた。
正面に不可思議な洋館があった。
人一人しか通る事ができない道がじんわりと広がり、洋館の門に達する辺りでは車一台通れる広さになっている。両側の塀はその道なりにゆったりと外へ曲がっていき、門に直接繋がった所で終わっている。
門を入って一段、二段、三段、石造りの階段を上がると大きな木の扉。複雑な紋様がレリーフされた扉は『炎』が手を軽く触れただけで内へと開いていき、その奥に廊下が一筋、両側に無数のドアを従えて伸びている。
「どうぞ」
促されて、鹿子は建物の中へ踏み込んだ。
廊下は遠くまでまっすぐ伸びている。この辺りの地形からいくと、とっくに駅まで辿り着いてしまいそうな距離で、廊下の端が消えている。
『炎』が背後で扉を閉め、鹿子の脇を抜けて廊下を歩き出した。遅れまいと続く鹿子に微かな笑みを向けたが、すぐに厳しい顔になって前を歩く。幾つかの扉を過ぎ、やがて扉を数えるのも億劫になった頃、
『炎』は唐突に立ち止まり、右の扉を開けながら言った。
「少し、気持ちが決まったようね」
「え?」
「この廊下が長く見えれば見えるほど、歩く者の気持ちが定まっていない。あなたが気持ちを揺らせたままなら、とてもVAKUには会わせられないところだけど……どうやら落ち着いてくれたようだから」
言われて鹿子が目を戻すと、さっきまで無限に伸びているように見えた廊下がすぐ側で突き当たりになっていた。部屋の中へ踏み込んでいく『炎』が静かに言う。
「ここはとても『記憶』の影響を受けやすいの……だから今、VAKUには眠ってもらっている」
『炎』の後ろから部屋に入り、鹿子は予想外に広い部屋にぽつりと立っていた『瞳』を見つけた。自分を抱くように胸の前で腕をからめ、右の方を凝視している。『炎』と鹿子が入って来たのに気づいて、少し姿勢を変える、その『瞳』の左腕がないのに気づいて、鹿子は思わず足を止めた。
「腕……」
「アンモナイトを消さなくてはならなかった。片腕で済んだのは幸運だったんだ」
たじろぐ鹿子に、『瞳』は低く答えた。
「それもこれも、VAKUがまともであれば苦労はしなかったんだが」
きつい目を再び右側へ投げる。
その『瞳』の視線を追って目を剥けた鹿子は、そこにそびえ立つ光の塔を見つけて息を呑んだ。
まるで、そこだけ天井がないようだった。
きらきら光る『炎』の光の輪が、渦を巻くように上へ積み上げられている。その先端は遥かな高みを貫いている。
光の塔の下から三分の一ほどの所に、ふくりと丸く膨らんだ空間があり、その部分は光の輪が何十にも重なっている。
そして、その中に、すすむの体がぽかりと浮いていた。
「すすむ!」
鹿子は我を忘れて駆け寄った。
二度と見ることができないと思っていた顔を、じっと見上げた。
色白の顔はいつもより青ざめてはいるものの、静かで穏やかだ。細身の手足にも傷つけられた様子はない。深くゆったりと呼吸を続ける、その静けさが泣きたいほど嬉しかった。
「ありがとう………すすむを傷つけないでいてくれて……ありがとう」
自分でも思っていなかったような涙声になっていた。『瞳』がちらりと鋭い目を向けたが、鹿子の表情に眉をしかめてぶっきらぼうに応じる。
「死んでないだけだ。だが、このままで返すつもりもない」
「どうしたら……いいの? ………ほんとに、すすむがあなた達の言うVAKUなの?」
鹿子の問いに、『炎』が彼女のすぐ隣に立って、同じようにすすむを見上げながら答えた。
「十中八九、間違いない。小さい頃から、彼は異常に人を集めるタイプじゃなかったかしら。それも、どちらかというと、彼自身の希望とは無関係に」
「そう……ね」
鹿子はすすむの浮気癖を思い出して苦笑した。




