205 幼女、笑顔を振りまく
「どうしました、ご機嫌ですね?」
ゆかりにそう指摘されて、穂乃香はようやく自分の顔が緩んでいることに気が付いた。
しかし、それも仕方のない事と彼女は開き直る。
なにしろ、昨晩修行を始めたばかりの新弟子が、想像以上に優秀だったのだ。
これを喜ばない師匠がいるだろうかと、穂乃香は鼻歌を奏でている自分を自覚しながらも、あえて続ける。
それほどに、気分が良かった。
「ふふふ。それでは私は玄関でお待ちしておりますね」
朝食を終えたご機嫌な穂乃香に、そう告げると、ゆかりは食卓を離れる。
給仕の時まではメイド服姿の彼女も、送迎時にはスーツ姿に服装を改めるので、穂乃香が着替えを完ぺきにこなせるようになった今、こうして席を外すのは毎朝の恒例になっていた。
「はい、またあとで」
笑顔で柔らかく手を振った穂乃香は、朝食を取ったテーブルの椅子から、反動をつけて飛び降りると、咄嗟のことに備えて近づいてきていたエリーに「大丈夫だよ」と微笑みかける。
「はい、心配が過ぎたようです」
エリーがそう返すと、普段は気にしないでと返す穂乃香が「ありがとう」と満面の笑みを見せた。
不意打ちの輝かしい笑顔に、エリーはピタリと動きを止める。
そんな妙な反応を見せたエリーに、穂乃香はくすくすと笑いながら言葉を変えた理由を伝えた。
「演技指導の千穂先生によると、お姫様というものは、優雅に感謝の言葉を口にした方が雰囲気が出るそうですよ」
「そうでしたか……なるほど、大変お似合いです」
「ありがとう」
繰り返す由来を伝えたありがとうに思わず噴き出した穂乃香は、そのまま少しお腹を押さえるほど笑ってから、着替えのために自室に戻る。
その後に、抱き付きたくなる衝動を使用人魂で抑え込んだエリーが、しずしずと付き従った。
「それじゃあ、奈菜ちゃん」
「はい」
あかねの指示に従って、劇の練習が開始される。
ナレーションはあかねが読み上げるので、もも組の中で劇の最初を飾るのは、奈菜演じる王妃と魔法の鏡役のやんちゃな印象の男の子だ。
もも組が劇の練習をしているのは、本番の舞台と同じ幼稚舎講堂のステージで、その中央に奈菜と鏡役の男の子が立つ。
直後、目を細め、とても幼女とは思えない穏やかな笑みを浮かべた奈菜が、有名なセリフを口にした。
「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この国で、一番美しいのはだぁれ?」
小首を傾げて、笑みを深める蠱惑的な表情の作り方に、あかねは思わず喉を鳴らす。
ほんの数日前まで魔女役だった奈菜は王妃役になった。
お話の上では同一人物であるのに、魔女の時以上に、王妃の役になった奈菜は圧倒的な存在感を放っている。
「お姉ちゃんが、才能がある子は、すぐ化けるって言ってたけど……」
目にした光景に、あかねは思わず頬をつねりながら、変更になったセリフを覚えて、既に演技を完成してしまっている奈菜にただ目を奪われてしまった。
それは、魔法の鏡の少年も同様で、奈菜が慌てて声を掛けてしまう程の完全停止状態である。
「か、柿崎くん、セリフ、セリフ!」
威厳ある王妃様から急に同い年の女の子らしい奈菜の慌てた様子に、魔法の鏡役である柿崎君も我に返った。
「うあ、そうだった、えっとなんだっけ?」
すっかりセリフを飛ばした柿崎君に、他人のセリフまでは暗唱しきっていない奈菜も慌てる。
こんな状況であれば、あかねが割って入るのが正しいのだが、副担任ともども奈菜の演技に飲まれて呆けてしまっていた。
「はぁ」
周囲を見渡して苦笑しつつ立ち上がった穂乃香が「柿崎君」とその名前を呼ぶ。
「え? あ、はい」
振り返って声の主が穂乃香だと理解した途端、柿崎少年に妙な緊張は走った。
一方、穂乃香はそんな反応にはまるで気付きもせずに、右手の人指し指を立てて得意げにセリフを口にする。
「『お后様、ここで一番美しいのはあなたです……』」
「え?」
スラスラと軽い演技に乗せて伝えられたセリフが、自分のモノだとは気づかずに柿崎少年は目を点にした。
「『けれども、白雪姫はもっと美しい』だよ」
そうして、セリフを言い終えた穂乃香に、様子をうかがう様に顔を覗き込まれたことで、柿崎少年はようやくセリフを教えて貰ったのだと理解する。
「……あ、そっか、あ、ありがとう」
慌ててお礼の言葉を口にした柿崎少年に、満足そうにキラキラの笑顔を浮かべて穂乃香は頷いた。
「どういたしまして。もし忘れちゃっても、ちゃんと教えるから安心して」
「う、うん」
「まあ……本番は無理だけどね」
ペロリと舌を出して、話を締めた穂乃香はそのまま踵を返して、先ほどまで座っていたみどりと月奈の元へと戻っていく。
すると、ようやく周囲が穂乃香の行動に反応を示し始めた。
教えてあげる優しさも、他の人のセリフまで暗記していることも、プリッチに出演している裏付けもあり、すぐにさすがの大合唱に変わる。
だが、その中で、奈菜だけがきつい表情で、柿崎少年の手を掴んで引き寄せた。
「ねぇ、柿崎君」
「へ? は? え?」
混乱で言葉の出ない柿崎少年の至近距離まで顔を近づけた奈菜は、鋭い視線を向けたまま、顔を近づけた二人しか聞こえない声で囁く。
「穂乃香ちゃんを好きになったらだめだから」
「は?」
想像もしない言葉を投げかけられて、奈菜から解放された柿崎少年は、うまく状況と掛けられた言葉を飲み込めず、そのまま混乱の渦に叩き落された。




